姉妹のうた
孤児院の中に、すたすた入って行った海斗。庭ではいつもと同じように、子供たちが楽しそうに遊んでいる。ひとりの少年が、彼の来訪に気づいた。
「あ、チンピラの海斗だ」
そう言いながら、走り寄って来たのは高岡健太郎だ。海斗は思わず微笑んだ。
「誰がチンピラじゃい。青年実業家の海斗さんと言いなさい」
手を伸ばし、健太郎の髪をくしゃくしゃに撫でる。だが、ふと目の前の風景に違和感を覚えた。何かがおかしいのだ。何がおかしいのか、考えてみた。
もっとも、違和感の正体に気づくまでに時間はかからなかった。その正体は、明日菜の姿が見当たらないことだった。
「おい健太郎、明日菜はどこに行ったんだ?」
「明日菜? ああ宮田か。みんなで一緒に、学校から帰って来た時にはいたよ。そこらにいないのか?」
「いや、いないんだよ」
そう、いつもならウサギ小屋の前でしゃがみこみ、目を輝かせてウサギを見つめている明日菜の姿が見えないのだ。
「ひょっとして、中にいるのか」
呟くように言い、海斗は建物の中に入って行った。
しかし、明日菜はいなかった。施設のどこにも、明日菜の姿は見えない。
海斗は不安になった。一体どこに行ったのだろうか。今まで、外に遊びに行くことなどなかったのに。
不安を覚え、すぐに外に出た。まさか、犯罪に巻き込まれたのだろうか?
その時、ある事実を思い出す。もし明日菜が外に出たのなら、行き先はひとつしか考えられない。
「おーい明日菜、いるのか? いるんなら、返事してくれよ」
かつて瑠璃子の住んでいた廃工場に入り、声をかける。しかし、返事はない。
海斗は足元に気をつけ、慎重に進んで行く。今は懐中電灯を持っていない。暗い工場内を歩くのは、一苦労である。
ゆっくりと歩いていくうちに、微かな明かりが見えてきた。さらに、声も聞こえてきた。
「ルルシーさん、本当に可愛いの」
その声を聞き、苦笑する海斗。自分のことは呼び捨てにするのに、黒猫のルルシーには、さん付けをするとは。どうやら明日菜の中では、海斗のランクはあらゆる生き物の中で最下位らしい。
「おい明日菜、いるなら返事くらいしろよ」
海斗は苦労しながら、どうにか近づいて行く。明日菜は廃工場の床にしゃがみこみ、ルルシーの背中を優しく撫でていた。一方、ルルシーは喉をゴロゴロ鳴らしながら、しきりに明日菜にまとわりついている。時おり、少女の手に顔を擦り付けていた。床には、スイッチが入ったままの懐中電灯が無造作に置かれている。
「ルルシーさんと、仲良くなれたの」
そう言いながら、明日菜は顔を上げる。闇の中でも、彼女が嬉しそうな顔をしているのが、はっきりと分かった。
それでも、言うべきことは言わなくてはならない。
「おい明日菜、ひとりでこんな所に来ちゃダメだろ」
「何でなの?」
首を傾げる。その仕草はあまりに可愛らしく、海斗は自身の気持ちが萎えるのを感じた。
「あのな、お前にはわからないかもしれないが、今は大変な時なんだ。みんなが心配するから、ひとりでうろうろしちゃダメだよ」
明日菜の隣にしゃがみこむと、優しく諭すような口調で言った。少女は困ったような表情で、ルルシーを撫でている。
「うん、わかったの」
ややあって、悲しそうな表情で口を開いた。その様子を見た海斗は、どうしたものかと考えた。そもそも、ルルシーと明日菜を会わせなければ、こんな所にひとりで来るような事態にはなっていない。自分にも、責任の一端はあるのだ。
「なあ明日菜、ルルシーのこと好きか?」
「うん大好き。ルルシーさん、すっごく可愛いの」
言いながら、ルルシーを撫でる。黒猫は喉をゴロゴロ鳴らしながら、明日菜の手に顔を擦り付ける。すっかり懐いてしまったらしい。
海斗はため息をついた。こうなった以上、今さらここに来るなとも言えない。
「じゃあ、これからは大人の人と一緒に来るんだぞ。ここいらは危ないからな」
「大人の人?」
またしても、首を傾げる。海斗は微笑み、少女の頭を優しく撫でた。
「ああ、大人の人だ。俺か、お姉ちゃんと一緒に来るんだぞ。分かったな?」
「うん、わかったの」
素直に頷く。海斗は彼女の手を握り、立ち上がった。
「そろそろ帰ろうぜ。ルルシーだけに構ってたら、ウサギが悲しむぞ」
「大丈夫なの。ウサギさんには、みんながいるの。でもルルシーさんには、誰もいないの」
そう言って、明日菜は立ち上がった。ルルシーを見つめる目は、どこか寂しげでもある。
「そうか。明日菜は、本当に優しい子だな。でも、ルルシーには俺も付いている。お前が来られない時は、俺がちゃんとルルシーの世話をする。だから、明日菜は心配しなくてもいいんだよ」
海斗の言葉を聞き、明日菜は頷いた。
「うん、わかったの」
またしても素直に答える明日菜を見て、海斗は微笑みながら優しく頭を撫でる。本当にいい子だ。多少、天然の部分はあるが。
「素直ないい子だな、明日菜は。俺の小さい時とは大違いだよ。今から帰って、今日子ちゃんも連れてこようぜ。今日子ちゃんにも、ルルシーを見せてやろう」
そう言うと、海斗は懐中電灯を持ち孤児院に戻って行った。
だが、二人が孤児院に帰ると……今日子が鬼のような形相で、腰に手を当てて待ち構えていた。
「明日菜! ひとりでどこ行ってたの!」
いきなり怒鳴りつける今日子。明日菜はビクリとして、海斗の後ろに隠れる。
「なあ今日子ちゃん、そんなに怒らないでやってくれよ。明日菜も、悪気があってやった訳じゃないからさ──」
「海斗さんは黙ってて下さい!」
今日子の怒りの矛先は、今度は海斗に向けられた…その形相はあまりに恐ろしく、黙って下を向くしかなかった。一方、今日子は明日菜を睨み付ける。
「明日菜! どこに行ってたのか言いなさい!」
「あ、あのう、ルルシーさんの所なの」
明日菜が恐る恐る答えると、今日子の表情が変わった。
「るるしいさん? それ誰? 明日菜の友だち?」
訝しげな表情で尋ねると、海斗が口を開く。
「ルルシーさんは……ルルシーさんだよ。まあ、友だちって言っても間違いじゃないな。この際だから、今日子ちゃんにもルルシーさんを紹介するよ。一緒に行こう」
そう言って、今日子の手を取る。すると、彼女の頬が赤くなった。異性と触れ合うのは、慣れていないらしい。慌てた様子で口を開いた。
「えっ? ちょ、ちょっと何するんですか──」
「いいから行こうよ。今日子ちゃんにも、知っておいてもらいたいんだ。たまには、三人で一緒に出かけようぜ」
そう言うと、海斗は姉妹と一緒に廃工場へと向かった。
「えっ、ここは?」
廃工場を前に、戸惑うような表情の今日子。だが妹の明日菜は、懐中電灯を片手に嬉しそうな表情だ。
「お姉、ここにルルシーさんがいるの。ルルシーさんは、とってもとっても可愛いの」
言った後、明日菜は今日子の手を握った。
「だから、ルルシーさんをお姉にも紹介するの」
そう言うと、明日菜は廃工場の中に入っていく。その後から、今日子が恐る恐る続いた。さらにその後ろから海斗が付いて行く。
やがて、奥から黒猫が登場する。その途端、今日子の表情が一変した。
「何これ……可愛い」
言いながら、ルルシーを撫でる。黒猫は喉をゴロゴロ鳴らしながら、今日子の手に顔を擦り付けていった。
その様子を見て、海斗は思わず苦笑する。ルルシーは本当に人懐こい猫だ。会ったばかりの今日子に、平気で近づき触らせている。そういえば瑠璃子にも、すぐに懐いていたようだった。
その瑠璃子は、今頃どうしているのだろうか。
「海斗、どうしたの?」
明日菜の声で、ハッと我に返る海斗。
「いや、どうもしないよ。それより、良かったな明日菜。今日子ちゃんも、ルルシーと仲良くなったみたいだ」
「うん、良かったの」
「これからは、お姉ちゃんと二人で来るんだぞ」
そう言って、明日菜の頭を撫でる。少女はにっこりと笑った。
「わかったの。次からは、お姉と一緒に来るの」
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