第22話

文化祭は、ゲームのキャラクターにコスプレした生徒会役員たちの寸劇から始まった。

クラス展示こそ地元の風土や歴史、名産品や伝統工芸などアカデミックな内容ではあったが、まだ生徒と教職員しかいない体育館の中は完全に無法地帯と化し、各クラスの出し物と運動部のパフォーマンスは、コントに下ネタに変え歌ダンスと、まさにやりたい放題だった。

その混沌としたプログラムが終わり、多少空気がぐだついてきたところで、生徒会長の号令一過、生徒たちは昼休みに入る。

その後はいよいよ生徒の親族や保護者を招き入れ、文化部が順にステージに登る番だった。


「リハーサルの時の順番でいくと、まずはダンス部からだっけね」

模擬店で買ったチョコバナナを齧りながら、くるみは部室で歌詞が書かれたメモ帳を眺める。

「うん、わたしたちは最後らへんに近いわ。吹奏楽部の後ね」

くるみにメイクされた顔面を落ち着かなさげに押さえながら、祐華が答える。

「どんな曲を演奏されるんでしょうね、麗さんたちも先生方も。楽しみです」

ミチルがカバンからヘアアイロンを出して、うきうきと祐華の濡れた髪を手櫛で梳いた。

「……どうしよう、髪にアイロン使うのも、お化粧も初めてだわ」

バラの香りのトリートメントウォーターを吹かれ、しっとりとした髪を指でつまんで、祐華が小さなため息をつく。

「大丈夫だよ、最近口うるさいけどさ、今日だけはきっと、先生も何も言わないから」

「そうですね。このごろはいつも興津先生に叱られてますものね、くるみさん」

ミチルの言葉にくるみは肩をすくめる。

「もう、どうせ大学行ったり社会人になったらメイクは毎日しなくちゃいけないのに、なんで今から練習させてくれないんだろ。ほんと、先生わかってないなあ……」

「誰がわかってないって?」

「うひゃあっ!!」

部室の入り口から聞こえた声に、くるみは危うくチョコバナナを取り落とすところだった。

「やだ、先生、いるならいるって言ってください!!」

「いたんじゃなくて来たんだよ。まったく」

くるみの抗議に苦笑しながら興津は彼女の側まで寄ると、彼女の頭を指で優しくつついた。

「あんまり校則違反してると、調査書に響くぞ。顧問だからって贔屓はしないからな」

「はーい」

くるみは軽くむくれたふりをして、残りのチョコバナナを思い切り頬張った。

興津はその様子を見てくすりと笑うと、すぐそばの机に左手をついて話を続ける。

「運営から伝言だよ。ちょっと時間が押したもんで、君たちの出番は二時半だそうだ。その十分前までにはステージ袖にいてくれ。まあ、今はまだ昼休みだし、ゆっくり準備して大丈夫だよ。チューニングもギリギリでいいからね。……ところで、あとの三人はどうしたんだ?」

「お兄ちゃんと隆玄先輩は模擬店でご飯食べてくるって言ってました。太陽先輩はクラス展示のお手伝いです」

「そうか。じゃあ三人が戻ってきたら伝えておいてくれ。……ああ、そうだ。牧之原、ちょっと来なさい。話がある」

「……、はい」

口いっぱいのチョコバナナを飲み込んでから、くるみは興津を追って廊下に出た。

「……くるみちゃん、また叱られるのかしら」

横目で二人を追いながら、祐華が心配そうにつぶやく。

「大丈夫ですよ、多分。今日のステージのお話をされるのかもしれませんし」

「それならいいけど……興津先生、なんだか合宿の後からくるみちゃんに厳しい気がして。もしかして、告白して振られちゃったのかしら……」

「……本当のところはわかりませんが、わたしたちには見守ることしかできませんね……」

「うん……」

ヘアアイロンの匂いが漂う部室の中で、祐華とミチルは測り難い二人の関係を案じた。


部室の二つ隣の空き教室に入ると、カーテンで覆われた窓を背にした興津が立っている。

くるみが後ろ手に扉を閉めると、彼は彼女に手招きをした。

「おいで。……特に何がってわけじゃないけど、本番前に少し話がしたかったんだ」

優しい笑顔に吸い寄せられるように、くるみは彼の前に立つ。

「先生……」

彼女は彼に抱き着こうと両手を伸ばす。

「それはだめ。廊下から丸見えだから」

「いいでしょ、ちょっとだけ」

人の声がしないことを確認してから、くるみは興津の背中と腰に手を回し、胸に頭を寄せる。

「じゃ、五秒」

興津も廊下に人気がないのを確かめてから、くるみの身体に腕を被せる。

くるみが腕の中で深く息を吸うと、シャツ越しの肌から香る彼のコロンが鼻腔をふっと抜けていく。これが彼女にとって、この頃いちばん好きな瞬間だった。

「先生、好き……」

「うん。……僕も好きだよ、くるみ……」

五秒を倍にしたあたりで二人は身体を離し、くるみは彼の隣の窓に寄り掛かった。


「先生、最近わたしの顔見過ぎですよ。スクールメイクなんだから大目に見て」

「……だめだ」

興津は渋い顔で首を横に振る。

「なんでですか?他の子だってしてるのに」

「……」

彼は真っ赤になって目をそらし、口元を押さえると、やっとの思いで真意を吐き出した。

「……可愛いからだよ。他の男に見せたくない」

その一言にぶわっと顔に血が上って、くるみはひたすらうろたえた。

「や、やだ、変なこと言わないでください、あの、でも、嬉しいっていうか、……ほんとに?」

「うん。……いや、君は、メイクが映えるというか、特に人目を惹くから……その、……」

いたたまれない様子の興津と目を合わせられなくなり、くるみは彼の方を見ずにワイシャツの袖を引っぱる。

「あの、……先生、やきもち妬いてくれてるんですか?」

「……ごめん、自分でもこんなに嫉妬深いと思わなくって……つい、君にばかり厳しく……」

二人はしばらく無言でその場に佇んだ。


「……先生、ヒゲ剃っちゃだめですからね」

「へ?」

唐突なくるみの言葉に、興津は間の抜けた声を出す。

「女の子の中に、けっこういるんですよ、先生の隠れファン。でも、みんな口をそろえて言うんです。『ヒゲさえなかったらイケメンなのに』って。だから、絶対剃っちゃだめ。ね?」

「……」

「わたしも毎日、やきもち妬いてます。だからおんなじ」

「……そっか」

くるみの言葉に興津はようやく彼女と顔を見合わせると、照れくさそうに笑った。


「……今日で、出逢ってから一年ですね」

「そうだね」

二人は窓にもたれかかりながら、手を繋いだ。

「まだ先は長いなあ、……せめて早く十八歳になりたい」

「この間十六になったばかりだろう、焦らない焦らない」

「うん……でも、まだデートもチャットも出来ないなんて、やっぱり寂しいですね」

「しょんないよ、それも覚悟の上だろ。……」

そう言ってから、ふと、彼はつないでいた手を緩める。

「……辛くなったり怖くなったら、いつでもやめていいからね。もっと気楽に付き合える相手は、君の周りにたくさんいるんだから」

そう言ってうつむいた彼の解けそうな手を絡め取ると、彼女はもう一度強くつなぎ直した。

「辛くないし怖くもないです。だからやめません。……もう言いっこなし」

「うん……ごめん。僕も言わないよ。……僕は君じゃなきゃだめなんだ、くるみ」

「ふふ、嬉しい」

彼女は再び、彼の身体に抱き着いた。

「先生、……卒業したら、わたしと結婚してね」

彼も彼女をぎゅっと抱きしめる。

「もう、くるみはいつもそればっかだな。せっかくなんだから大学に行きなさい、君はそれだけの力があるよ。焦らなくていいから、先に自分のやりたいことを見つけてごらん」

「じゃあ、学生結婚する。それがダメなら、大学行ったら同棲したい」

「まったく……困った子だな、君は。とにかく全部、ちゃんと大人になってからね」

愛しい彼女の髪を撫でて、目いっぱい甘やかしながら彼が苦笑した時、遠くから階段を上ってくる足音が聞こえた。

「「!」」

二人は慌てて身体を離し、見つめ合うと互いに肩をすくめる。

「……今日は思いきり楽しんできなさい。応援してるでね」

教師の顔に戻った興津が差し出した右手を、くるみも右手で強く握り返した。

「はい。先生も楽しんでくださいね。いちばんのファンがここにいますから」

「ありがとう。じゃ、また後でね」

そう言って彼が教室の扉を開けたとき、廊下から紘輝と隆玄がやってきて鉢合わせになる。

「あれ、先生。こんなとこで何してるんですか?」

「牧之原のメイクが濃かったもんで、ちょっと手直しさせたんだよ。集合時間は君の妹に伝えてあるから、詳しく聞いてくれ。私も自分の準備があるから行かないと。後は頼んだ」

「はい」

紘輝が返事をするかしないかのうちに、興津は足早に階段に向かって廊下を去って行った。

「……くるみちゃーん、先生もう行っちゃったから、出てきてメイクやり直しなよー」

廊下の窓から中をのぞき込んだ隆玄の呼びかけに、

「はーい、やり直しまーす」

そう応えながら、くるみは興津のでたらめに忍び笑いを堪えきれずにいた。


支度を終えたくるみたちが体育館に入ると、ちょうど合唱部が『Hail Holy Queen』を歌っているところだった。

既に会場は手拍子でいっぱいになり、保護者や小さい子供もちらほらと見かけられる。

「この歌の映画、この間テレビでやってたっけね」

「わたしも見た!録画もしちゃった!何回見ても面白いわよね!」

「どんな映画なんですか?ストリーミングで見られます?」

「えっとね……」

人波を避けるように歩きつつ、くるみたちはミチルに映画のあらすじをネタバレしない程度に教えながら、舞台脇の倉庫を目指す。

『……先生、いつかまた、映画が見られるようになるといいな……』

難しいかもしれないが、バスに乗ることが怖くなくなったように、何かきっかけがあれば変われるかもしれない。

そのきっかけを二人で一緒に、これからゆっくり探していけるよう、くるみは秘かに祈った。


合唱部に拍手をしながら倉庫につくと、大きな鏡の前に軽音楽部は陣取った。

「紘輝先輩、オールバック似合いますね」

「はは、ちょっとテディ・ボーイっぽくしてみようと思ったんだけど、そんなにいいかな」

鏡越しのくるみの誉め言葉に紘輝は気を良くするが、

「なんか、だめ、オールバックって単語聞くと、あの歌がちらついて、……ふふっ……」

「あ?誰だ今『強風オールバック』っつった奴は?お前こそなんだよ、このくるんくるんは」

自分を茶化した妹の髪を引っ張って遊び始める。

「いや、マジでいい感じじゃないっすか。これからずっとそれでいいと思いますよ?」

「そうかな?ま、これで彼女とかできたら、このままでいいかもな」

いつもよりも髪を鋭く逆立てた隆玄に言われ、紘輝はまた笑ってから続けた。

「次、吹奏楽部か。去年ははっきり言ってお通夜状態だったから、今年はどうなるかな」

「藁科先生のことだから、ツボ押さえた選曲なんじゃないかねぇ」

倉庫の外で慌ただしく実行委員がセッティングするのを見つつ、彼らは話に花を咲かせる。

『あ、麗ちゃん』

揃いの厚紙が乗った譜面台と椅子の隙間を、見知った少女が歩いていく。

『演奏、楽しんでね』

背筋を伸ばし、凛としてクラリネットを構えるその姿に、くるみは心の中でエールを送った。


吹奏楽部はまず、今年のコンクールの課題曲と、麗たち部員を苦しめた自由曲を演奏した。

『本当に難しい曲。……でも、ひとつひとつの音が聴きやすいし、ちゃんと物語がある……』

生徒たちも思わず手を止め、食い入るように聞き入っている。管楽器と打楽器の掛け合いが、固唾を飲むような緊迫感と調和に満ちていて、見事としか言いようがないのだ。

「……すげえな、こんな曲、よく演奏出来るな……」

「ダメ金だったの、悔しかったでしょうね」

紘輝と祐華がいたく感銘を受けた様子でつぶやいた。


圧巻の演奏が終わると、みんながほっと息を吐き、感激の拍手が沸き起こる。

その拍手を受けて、指揮台に立っていた藁科がマイクを取って喋り始めた。

「えーみなさん、聴いていただきありがとうございます。……まあ、今年の吹奏楽部はいろいろありましたが、ここからはじゃんじゃん、明るく楽しくいきたいと思います。部員も一年から三年まで、全員参加します。みなさん、手拍子をよろしくお願いします!」

彼はマイクを置くと、再び観客に背を向けて指揮棒を振る。

はじけるような金管をパーカッションが彩る、華やかな前奏が始まった。

「「マツケンサンバ!!」」

軽音楽部員は全員顔を見合わせ、すぐさま手拍子を始める。

それは会場にいた人たち全てが心奪われるほど、明るくきらめいた演奏だった。


くるみたちと反対側の舞台袖で控えていた『教員バンド』も、手拍子をしながら笑い合う。

「さすが藁科先生、わかってますね!」

安倍が授業中には見せない満面の笑顔で、指揮棒を楽しそうに振る藁科を見遣る。

「やっぱり、文化祭はこのくらいはっちゃけないとね!」

ノリノリで手拍子を打ちながら、朝比奈が声を上げた。


客席からの大歓声と手拍子に加え、一曲終わるごとの喝采を受けながら、その後も吹奏楽部はいきいきと演奏を続ける。

『メキシカンフライヤー』『ブラジル』『シング・シング・シング』と、息をもつかせぬ構成に、生徒と観客たちは沸きに沸いた。

「あ!この『ブラジル』って曲さあ、大ちゃんが中学の文化祭で演ったやつだよな!」

「ああ、そうだよ!いやー、懐かしいっけね!」

興津も当時のステージから見た客席を思い返しながら、大井と笑い合った。


「ねえみんな、ちょっと見て!」

『シング・シング・シング』の演奏中、麗にスポットライトが当たった。

くるみの声に軽音楽部員がそちらを見ると、彼女はすっと立ち上がって、見事なソロを吹く。

「すごい!麗ちゃんカッコいい!!めっちゃクール!!」

くるみはすっかり興奮して、スマートにお辞儀をする麗へ目いっぱいの拍手を贈る。

「りゅーげん、お前の彼女、やるじゃん!」

「いやぁ、それほどでも!」

「なに、結局付き合ってんのお前ら!そういうこと早く言えよ!」

上級生たちは隆玄を真ん中に据えてわちゃわちゃとはしゃいだ。

「どうしましょう、楽しすぎて泣きそうになってきました……!」

「ミチルちゃん落ち着いて、まだまだこれからよ!」

分厚い音圧に当てられてすっかり感情が高ぶったミチルを、祐華が落ち着かせるふりで煽る。


最後の曲の入りで、藁科は客席を振り返ると、

「エル・クンバンチェロ!!」

部員たちと一緒にそう叫んで、曲名を告げる。

パーカッション全員が刻むリズムに、分厚い管楽器がどんどん乗っかっていく。

フルートが総立ちで主旋律を奏でると、それをトランペットとトロンボーンが追いかける。

体育館の中は、熱気でどうかなってしまうのではないかというほど盛り上がった。


その息苦しいまでの熱の中で、ふと、くるみは我に返る。

『……ちょっと待って。わたしたちこの後に演るの?……うああ、超やりづらい!!めちゃくちゃ盛り上がってるじゃない……!』

一気に襲い来る緊張に、手拍子どころの騒ぎではなくなってしまった。

身体が震え、口の中が乾き、冷や汗と手汗が同時に出てくる。

『あああ、待って待って、落ち着いて、落ち着いて……』

ポケットからのど飴を出して口に放り込み、深呼吸をすると、蜂蜜とレモンが甘く香る。

『……大丈夫、大丈夫。少しくらい間違えてもいいの、楽しめれば。……ね、先生……』

興津が背中から抱きしめてくれているような気がして、ふっと肩の力が抜け、異常な興奮と緊張が身体から消えていく。

『よーし、楽しもう!』

足元に置いてあったペットボトルからひと口水を飲んで、くるみはふう、と息を吐いた。


「よし、みんな集合!」

吹奏楽部に惜しみない拍手を贈った後、紘輝が号令をかけ、軽音楽部は円陣を組む。

「聖漣高校軽音楽部、今年最高のステージにしようぜ!!」

「「おう!!」」

気合いを入れてから円陣を解くと、吹奏楽部が体育館に残した熱気をそのまま全身に受けて、くるみたちはセッティングの終わったステージに続く階段を勢いよく駆け上がった。 


「みなさん!この間はどうも!吹奏楽部にいろいろやらかした軽音楽部です!」

マイクを握って開口一番、藁科の話を引っ張って、紘輝が不謹慎なMCで会場を沸かせる。

「正直あの盛り上がりの後ですげーやりづらいですけど、楽しんでいってください!」

すでに十分熱くなったステージの下から、拍手と歓声と口笛が山のように飛んできた。


『……ああ、どうしよう。わたし、今、すごく楽しい』

一年前にここで興津のステージを見た時には、まさか自分がここに立つとは思わなかった。

人から好奇の目で見られ、どうしても周囲に馴染めず、友達もいない学校に行くことが拷問のように思えていたあの日々から、確かに自分は変われたのだ。

そして、あの日一目で恋に落ち、憧れた彼と心が通じ合い、いま秘かに想いを育んでいることが奇跡のように感じられる。

『わたし、あなたと出逢えて本当に良かった』

舞台の袖をちらと見ると、ベースを手にこちらを見る彼と目が合った。

『先生、愛してる』

愛おしさににこりと微笑むと、彼もうなずいて笑顔を返してくれた。


「まずは一曲目!いくぜ!」

紘輝が後ろに下がると同時に、くるみはキーボードを前に立つミチルと目を合わせ、次いで隆玄を振り向く。

スティックのリズムの後、ミチルのピアノに合わせて、くるみは『紅蓮華』を歌い始めた。


分厚い音に乗ってステージの上で歌うくるみを、興津は切ない気持ちで見つめる。

やはりステージの上にいる彼女は、眩しくきらめいて見える。誰かの目に留まれば、彼女はどこまでも羽ばたいていけるだけの才能があるだろう。

『……君を僕の下だけに閉じ込めておくことは、出来ないのかもしれない。でも、君が僕の心を照らしてくれたことは、間違いないよ。君と出逢うまでは生きているのがやっとだったのに、今は未来を信じて、前を向いていられる。だから……』

たとえ彼女が隣にいることを選ばなかったとしても、きっとこの先もやっていける。

それでも、やっぱりいつまでも、自分の側で優しく笑っていて欲しい気持ちも消えない。

『愛してるよ、くるみ。君がどこにいても、僕の気持ちは変わらないから』

潰れそうな胸の痛みを振り払うように興津は首を横に振ると、ポケットからのど飴を出し、ひと粒口に入れた。


二曲目の『タイムマシンにおねがい』が始まる。

紘輝と太陽のギターの派手な掛け合いに、ミチルのキレのあるピアノと、隆玄の安定感がありつつも華のあるドラムプレイ、そして祐華のずしりと重く、それでいて軽快なベースが乗る。

くるみはみんなの奏でる音の中で、踊るような気持ちに任せ、モンキータンブリンを片手に跳ねながら歌った。

最後の音止めのジャンプも着地がタイミングぴったりで決まり、ステージに拍手の雨が降る。

『ヤバい、ほんとに楽しい……もう半分まで終わっちゃった……』

くらくらするような熱気に浮かされたまま、くるみは三曲目のためにマイクをスタンドに戻すと、バイオリンを持ったミチルと入れ替わりにキーボードの前に立った。

『ミチルちゃん、よろしくね』

紘輝がエレキギターをスタンドに立て、アンプのスイッチを切って、エレアコに持ち替える。

その後ろで、祐華と太陽がアンプのゲインのつまみをリハーサル通りに調整し、隆玄が水を飲んで額の汗をぬぐう中で、くるみもキーボードの音色を変えて指を置く。

センターに現れたバイオリンに、客席が期待半分、訝しみ半分でざわめき始める。

セッティングを終え、全員で目を合わせた後、ハイハットのリズムで鍵盤を叩きだす。

ラテンのリズムと覚えのある前奏に、観客がどよめき、手拍子を始める。

やがてミチルが弓を構え、凛々しい表情で前を向き、華麗にその旋律を奏でた。


「『情熱大陸』はずるいですよ、興津先生」

安倍が腕組みして笑う。

「いやあ、セトリは何でもいいって言った手前、ダメとは言えないですよ。私も持ってこられた時、『やられた!』って思いましたからね」

興津は安倍を振り向き、困り笑いを浮かべた。

「あのバイオリンの子、保健室に来てたわね。ほんと、何もされなくてよかったわ」

朝比奈が自由闊達にバイオリンを奏でるミチルの姿を見て安堵する。

「太陽、上手くなったな。二年目にしちゃ上出来だ」

弟分が楽しそうにバイオリンから引き継いだソロを演奏する姿を見て、大井が独り言ちる。

「お待たせしました。いやあ、今年はやりづらいっけね、こんなの先に持ってこられたら」

そこに吹奏楽部の片づけを終えた藁科がやってきて、大きな体をすくめた。

「負けてられませんよ、我々も」

「大人の意地と貫禄を見せてやりましょう」

教員たちは目を合わせ、各々うなずいてからまたステージに目を戻した。


「みんなありがとう!今年、時間がないからアンコールは出来んけど、最後にもう一曲!」

エレアコを抱えたまま、紘輝がマイクを持って喋る。


『ああ、本当にもう終わっちゃうんだ』

くるみはひどく寂しくなった。

文化祭が終われば、紘輝は部活を引退してしまう。

このメンバーで演奏するのは、これが最後になるだろう。

『紘輝先輩、お疲れ様でした』

外連味のない、パワフルで愉快なMCで客席を煽る彼が、これからも音楽を愛し、ギターを続けていけるように、くるみは心から願う。

『もっとみんなで演奏したかったな……でも、これで最後。全力でやりきろう』

紘輝のMCが終わると、くるみは再び前に出てマイクを受け取り、隆玄と目を合わせる。

リズムを取った後、『秒針を噛む』のイントロのピアノが始まった。


すべての曲の演奏が終わると、ステージの上には拍手と共に歓声が飛んでくる。

清々しい表情の紘輝を真ん中に、全員で横一列に立ち、客席に頭を下げる。

そのとき、誰が用意したのか、小さな花束が投げ込まれて、紘輝の足元にぱさりと落ちた。

彼は一瞬戸惑ったが、それを拾って照れくさそうに笑うと、足元の客席に向かって叫ぶ。

「……誰かわかんないけど、俺、もらっちゃっていいかな?ありがとなー!」

両脇に立つ隆玄と太陽に脇腹を肘でつつかれながら、紘輝は満面の笑みで花束を掲げる。

生徒たちの冷やかしの声を浴びつつ、軽音楽部は手を振りながらステージを後にした。


そして、くるみたちが下りたのと反対側の袖から、いよいよ興津たちが姿を現す。

「「おおいせんせ―――――――――い!!!」」

女子の黄色い歓声に、大井がやはり去年と同じ面倒臭げな表情で視線を返すと、再び甲高い声が上がった。

それを見た興津が、手に持っていたマイクを大井に渡そうとすると、大井はそれを無碍に突き返し、客席からどっと笑いが起こる。

興津が苦笑してマイクの電源を入れ、

「えー、大井先生じゃなくて申し訳ない、残念ながら私が喋ります」

そう話し始めると、もう一度辺りは笑いに包まれた。


「ほんと、興津先生すごく明るくなったよな、別人みたいだ」

「去年、MCなんてなかったですよね」

メンバーひとりひとりの紹介をしながらステージの上で快活に喋る興津の姿を見て、紘輝と太陽が安心したように言う。

「これは、女子のファンが増えるなぁ。くるみちゃん、うかうかしてたら、他の子に先生取られちゃうよ?」

「はあっ!?な、なんなんですか、もう!いちいちわたしに振らないでくださいよ!!」

「まあまあ……ほら、始まるわよ、くるみちゃん」

隆玄の意地の悪いからかいに全力で抗議するくるみを、祐華がなだめた。


やがて興津は手に持っていたマイクをスタンドに差すと、藁科に目線を送る。

スティックの軽い音の後に、バスドラムが二回、ハンドクラップが一回、のリズムが繰り返される。

「うお、『We Will Rock You』じゃん!!」

「今年も一曲目はQueenかぁ、興津先生の趣味全開っすねぇ」

笑顔で同じリズムを刻み始めた紘輝と隆玄を背に、くるみと祐華も目を輝かせて、足を踏み鳴らしながら手を打った。

「ミチル、俺の真似してリズムとってみて」

「は、はい」

太陽に促されて、ミチルも手足を鳴らし始める。

やがて体育館全体が同じリズムに揺れ始めた頃、興津は流暢な発音の英語で歌い始めた。


『!……あれ、なんか違う……』

その興津の歌声が、これまで聴いたものと変わったことを、くるみの薄い耳は捉えた。

『去年は……ううん、この間までは、どこか乾いて硬い感じがしたのに……楽しそうで、きれいで、それは変わらないんだけど……なんか、すごく色っぽいような……』

一年前とは違う意味で、心臓がどきどきと音をたて始める。

『もしかして、わたしのせい?……まさかね……』

少しうぬぼれてからそれを打ち消してみるが、あながち外れではない気がして顔が熱くなる。

『わたしのせいだったとして、……キスなんてしたら、先生どうなっちゃうんだろう』

その先の不埒な考えをかき消すように、安倍の赤いストラトキャスターがソロを奏でた。


一曲目が終わると、さきほどの軽音楽部の演奏と変わらない量の歓声と拍手が響く。

ステージの上の教員たちは互いに顔を見合わせると、すぐさま二曲目を演奏し始めた。

不敵な笑みを浮かべた興津のジャズベースから、腹に響くような重低音でイントロが始まる。

「『KICK BACK』!?」

「まじで!?これ歌いながら弾く気なのか、先生!?」

「うそでしょ、旋律追うだけでも大変なのに……」

ぶちあがる、という表現がぴったりな聴衆と裏腹に、軽音楽部員たちは彼に畏怖した。

「……合宿の時、真夜中まで練習してたもの、先生。だからできるんだよ」

ぽつりとこぼしたくるみの言葉は、興津の力強いボーカルとタイトなスラップに飲まれる。

「……ほんと、何でプロにならなかったんだろうな……」

紘輝が信じられないものを見る目で、興津を見つめる。

くるみはその言葉に、何も言えないまま笑うことしかできなかった。


「みなさん、聴いてくれてありがとう。次が最後の曲です」

一切間違えることなく演奏を終えた興津がそう言うと、えー、と落胆の声が上がった。

「あはは、気を遣わなくていいよ。去年もだけど、我々が大トリをもらっちゃって申し訳ない。……私は踊らないけど、もしかしたら大井先生が暴れてくれるかもしれない曲です!」

無茶振りすんな、というマイクに乗らない大井の声がステージに響いて、まるで少年同士のようなやり取りにまた笑いが拡がる。

その笑いがおさまった後、藁科の力強いドラムと大井のテレキャスターが奏でたイントロに、客席は最後の盛り上がりを見せた。

「『シュガーソングとビターステップ』かぁ、これは確かに踊れないっすね」

「興津先生、自分で運動音痴だって言ってたもんな」

「大井先生は期待に応えてくれるかな」

「無理だろ」

「先生、また難しい曲弾きながら歌うの……?自信なくなっちゃうわ」

「大丈夫だよ祐華ちゃん、先生の練習量がおかしいだけだから」

「くるみさんが言うと、説得力が増しますね」

「うああ、み、ミチルちゃんまでそういうこと言うのやめてよ……!」

軽音楽部員たちはおしゃべりをしつつ、袖から手拍子を送りながら、授業よりもずっといきいきとした表情でラストナンバーを歌い奏でる興津たちを眺めた。


『……以上をもちまして、聖漣高校文化祭は終了となります。保護者の皆様、ご観覧の皆様、お越しいただきありがとうございました。お気をつけてお帰り下さい』

興津たちが拍手を浴びながらステージから去ると、ふっと灯りは落ち、夕暮れの手前の日差しが差し込む薄暗い体育館にアナウンスがそう告げて、客席から人々が遠ざかっていく。

「お疲れ様でした!今年もすごかったです!!」

「お疲れ様、キミたちもサイコーだったわよ!」

階段脇の倉庫の中で、教員たちと軽音楽部員は互いにハイタッチを交わす。

「アンコール、応えてもよかったんじゃないですか?」

「いや、吹奏楽部の件でいろいろあって忙しすぎて、どうしても三曲しか合わせられなかったんですよ。時間も押してましたしね、また来年というこんにします」

祐華の質問に、安倍が少し残念そうに答えた。

「みんな、写真部が撮影してくれるっていうから、全員こっちに集まれ」

袖の奥からの大井の呼びかけに、軽音楽部員と教員たちは壁際にまとまる。

「はいはーい、三年生真ん中にして、ボーカル二人は前に膝立ちしてね」

朝比奈に押されたくるみは紘輝の隣に言われるまま膝立ちし、その反対側に興津はベースを抱えたままひざまずいた。

「はーい、行きますよー」

レトロなフィルム式カメラのフラッシュが焚かれたのち、全員が礼を言って立ち上がる。

『後でこの画像欲しいなあ……ううん、ちょっと待って!』

くるみは隣で膝を払っていた興津のシャツの袖を引っ張った。

「……なに?」

「先生、セルフィー撮りましょう。わたしのスマホで」

「あ、ああ」

興津の前に立つと、くるみはスマートフォンの画面を自分たちに向ける。

「ねえ、一緒にピースハートして」

「そういうのは万一の時に誤解を招くからダメ」

「んもう、けちー」

二人は恋人同士の顔で目線を合わせ、くすくすと笑った。そうして、

「……これでいいかな?」

興津はベースを構え、身体を斜めにして、目線をスマートフォンに送る。

「いい感じです」

くるみは人差し指と中指をそろえて頬に着けると、

「はーい、いきまーす」

汗ばんだ彼のシャツの肩にそっと寄り掛かりながら、撮影ボタンを押した。


「一応釘刺しとく。待ち受けにするなよ」

「大丈夫、こっそり眺めるだけにしますから」

後ろから覗き込む興津に返事しながら、くるみは撮影した画像にハートマークを付け、

「……やっぱり先生、ベース弾いて歌ってる時がいちばんカッコいいです」

不意に褒められて顔を真っ赤にした彼を、幸せな気持ちで見上げた。

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