第16話

「……?」

部室に向かう途中、空き教室から誰かの声が聞こえたような気がして、隆玄は足を止めた。

「こんな校舎の隅っこまで、誰が来たんかな」

独り言をつぶやいて、彼は部室とは反対方向に歩を進めようとする。

その途中で、聞き覚えのある楽器の音ががらんどうな空間に響いた。

『……クラリネット』

彼は足を止め、そこに佇んだ。

しかしその音色は、途中で震えて綺麗に伸びず、ぷつんと途切れる。

『吹奏楽部だよな、……個人練習?』

突き当りの教室の扉が開け放たれている。

『なんか、話が聞けるかもしれない』

隆玄は期待を抱いて、教室の入り口まで歩きだした。


軽音楽部が『外での練習』を始めて、半月が経過していた。

もちろん思ったように成果が上がることはなく、勤勉に毎日部室にやってくる興津の目を盗んで行動する機会も少ない上に、テストまで挟まったおかげで『現場』は全く映り込まない。

しかし、興津が言葉通りに他の教員と一緒になって動いてくれたおかげか、彼らの周りの環境は変わりつつあった。


まず、ミチルは特例として、藁科から報告を受けた教頭の措置により、音楽の授業を『別室授業』という形で、しばらくの間、保健室で受けることになった。

興津がその話を持ち帰ってきたとき、彼女は安堵のあまり泣いてしまった。

無論、部室への行き帰りは太陽が必ずミチルの側にいて、不測の事態に備えている。

何よりも恐ろしかったのは、同様に特例措置を受ける女子生徒がほかにも数名いたことだ。

軽音楽部員が声を上げなければ、ずっと沈黙していたかもしれない。

そうならずに事態が進展したことを、誰よりも付きまとわれていた本人たちが喜んだ。


そして、テストが終わった週の真ん中、藁科の名義で生徒全員に『部活動に関する意識調査』という匿名のアンケートが配られた。

その内容を見た時、くるみたちは明らかにこれが『吹奏楽部で起こっていることの聞き取り調査』だということを察し、そして安心した。

自分たちの味方は興津だけではない。それがわかっただけでも、非常に心強かった。


これまで事なかれを通してきた教員たちも、そうはいかなくなってきたことを察し、件の音楽教師に対する厳正な処分を求める嘆願書に、水面下で次々と署名していった。

知らぬは亭主ばかりなり、とはまさにこのことだった。

その間、当の本人は自分の気に入りの女子生徒が、最近体調不良を理由に全く教室に現れないことに疑問を抱きながらも、またそれに激しく苛立って、これまで以上に他の生徒の歌と演奏を、感情の赴くままに激しく批判し続けた。

それは吹奏楽部でも同じだった。

すでにコンクールへのエントリーは済み、課題曲と自由曲の選曲に加え、メンバーの選抜も終わっている。今年も全国大会へ行き、今度こそ金賞を取る。そのためにはわずかな間違いも決して許さなかった。

ミスをしたら隅々まで罵倒し、時には物を投げつけ、椅子や譜面台を蹴って生徒を律する。

理想の音が出るまで妥協することはない。

毎日、日暮れを過ぎるまで、音楽室では息の詰まるような『指導』が行われていた。


今日もそんな音楽室の前を足早に通り過ぎて、隆玄は部室に向かっていた。

職員室で鍵を借り、途中の自販機でパックのコーヒー牛乳を買い、手の中でひょいひょいと放り投げながら廊下を歩き、二段飛ばしで階段を上る。

他の部員が来る前に窓でも開けて換気するか、と思いながら階段を上りきった時。

彼の耳は、そのかすかな声を捉えた。


隆玄が戸口に立つと、

「ひっ」

中にいた人物が、小さな悲鳴を上げて体を竦ませた。

今は使っていない教室の椅子に腰掛けていたのは、どんぐりのような丸い目に、短く切ったさらさらの黒髪が印象的な、痩せた身体の少女だった。

「あ、驚かしちゃった?ごめんっけね。そんなつもりなかったよ、悪かったっけね」

「……」

彼の笑顔と明るい声にほっとしたのだろう、少女はわずかに表情を和らげた。

「吹奏楽部、だよね。そのネクタイの色ってこんは、一年生?」

「……そう、ですが」

胸元のスカイブルーのそれを弄りながらそう言うと、すぐに彼女は沈んだ表情でうつむいてしまう。

「お、そんじゃあ一個下かぁ。クラリネット吹いてんの?すごいねぇ、俺そういう吹く系の楽器、ぜんぜんダメだからさぁ、吹いてる人って尊敬しちゃうよ」

「……」

「ねぇ、今、個人練習中?どんな曲やってんの?見せて。こう見えて俺、楽譜読めるんだ」

「……」

隆玄は黙りこくっている彼女の前に置かれた机から、パート譜を手に取った。

「うわぁ、変拍子だらけじゃん、すげー難しそうだねぇ。こんなむずい譜面やるんだ。……もしかしなくても、コンクールの曲?」

彼女はずっと唇を噛んだままクラリネットを握りしめて、無言でこくりとうなずく。

「……あー、俺、ジャマしてる?ごめんっけね、……ほら、音が、元気なかったもんでさ」

そう言った瞬間、俯いたままの目が怒りを帯びた気がして、隆玄は焦りで言葉が止まらなくなる。

「あの、ほらさ、なぁ、個人練習するにしてもさ、もっと音楽室の近くでも良かったんじゃないの?何でここまで来たのかなぁって……全体練習に戻るの、こっからだと遠くない?」

「……れたんです」

「うん?」

「……追い出されたんです。全部間違えずに吹けるようになるまで、戻ってこなくていいって、全体練習から……!」

彼女は絞り出すような声でそう言うと、クラリネットに縋るようにして、大声を上げて泣き始める。

「……そっか」

さすがにそれ以上言葉をかけることをせず、隆玄は彼女の涙が落ち着くまで、隣の机の上に腰掛けていた。


しばらくして、彼女が目元の涙をぬぐい、大きなため息をつく。

それを見計らって、隆玄はずっと気になっていたことを口の端に乗せた。

「あのさ、いっこ聞いていい?……これ、渡されたのいつ?」

「……テスト明け、です」

「はぁ!?先週じゃん!!おかしくね!!?」

彼は思わず大声を上げる。

隆玄が見る限り、これは非常な難曲だった。プロでもない高校生が一週間もかけずに間違えず吹けるような代物ではない。

『あの野郎、やっぱ頭イカレてるわ。ありえねぇ』

頭の中で毒づくと、隆玄は彼女にパート譜を返す。

「こんなバカむずい曲、相当練習しないと無理だよ、どう見たって殺しに来てる譜面じゃん」

「……いえ、……吹けないわたしが悪いから……」

彼女はそう言うと、唇をかみしめる。

「んなこんない、絶対ない。これ、プロでもかなり厳しいと思うよ。俺らみたいなど素人の高校生だったら、みっちり二か月とか、半年とかは練習しないとダメなやつじゃん」

隆玄は首を横に振ると、自分の右手に持っていたコーヒー牛乳を差し出す。

「ま、これでも飲んで一息つきなよ」

「……リードがカビるから、要らないです」

彼女は足元のカバンから水の入ったペットボトルを出し、ごくごくと中身を飲み干す。

『意地っ張りだなぁ、この子』

彼は苦笑して、パックにストローを刺した。


「……で、音楽室に戻れそう?」

パックの中身を半分飲んでから、隆玄は彼女に問う。

「もうカバンも持ってきてるし、ケースもあるし、譜面台も持ってきてないみたいだし、そのまま帰れる状態だよね。……むしろ、『帰れ』って言われたんじゃない?違う?」

「……」

「黙ってるってことは図星かぁ。……相変わらず嫌な奴だねぇ、吹奏楽部の顧問は」

「!」

隆玄の言葉に、彼女は身を竦ませた。

彼は柔和な笑みを浮かべて彼女の顔を覗き込む。

「俺の友達も去年、吹奏楽部にいたんだけどさ。あいつのせいでなかなかひどい目に遭って、今は俺らと一緒に別のことやってるよ」

彼女は丸い目をさらに丸くして、隆玄の顔を見る。

「このまま帰るのもつまんないでしょ。……折角だから覗きに来る?軽音楽部」

「あ……」

その言葉に、彼女は何か思い出したようだった。

「『中庭ライブ』で、ドラム叩いてた……」

「そう、俺でーす」

おちゃらけてピースサインをする隆玄を見て、彼女の顔からやっと張りつめていたものが消える。

「そう言えば、まだ名前聞いてなかったっけね。なんていうの?」

「……清水しみずれいです」

釈然としない様子の返事が返ってくるが、隆玄は気にせず続けた。

「レイちゃんかぁ、俺は伊東隆玄。よろしくね。……軽音楽部はこの教室のちょうど真反対の突き当りが部室なんだ、一緒に行こう」

彼は空いている方の手で、床の上からクラリネットのケースをひょいと持ち上げる。

「あ、あの、ちょっと……!」

「いいからいいから。……あ、やっべ、もう紘輝先輩待ってるっけ」

言うが早いか、隆玄はさっさと廊下を歩いていってしまう。

クラリネットを丁寧に抱え、空いている方の手で慌ててカバンを持ち、麗は隆玄を追った。


「あの、わたし練習しないと……!」

「焦ったって上手くなんないよ、俺だってそうだったもん」

「でも!」

「きょう一日くらいサボったって影響は出ないって。なんだったら、うちの部室で吹いたらいいっけやあ?」

「遠慮します、ケース返してください!」

麗はすっかり怒ってこちらを見上げるが、

「ダメダメ、一人ぼっちで自分を追い詰めながら練習したって、いい音は出ないよ」

隆玄の言葉に何も言い返せなくなる。

彼は彼女に、にっ、と歯を見せて笑うと、

「お疲れっすー、すんません紘輝先輩、待たせちゃって。今開けますんで」

部室の前でギグバッグを背負って待っている紘輝に声をかけた。

「……誰?」

きょとんとしている紘輝に、隆玄は鍵を開けつつ、へらへらと笑いながら答える。

「彼女っす」

「!!……う、噓言わないでください、さっき会ったばっかです!!」

麗は怒りと恥じらいの両方で顔を真っ赤にして、隆玄の言葉を全否定した。

「あはは、ごめんって。冗談冗談。……この子、吹奏楽部なんすよ。あいつに音楽室追い出されて、ちょっと今、行くとこないみたいなんで、見学に誘ったんです」

「……吹奏楽部か。なるほどね」

それ以上の言葉を封じるかのように微笑んで、紘輝は麗を見た。

「いいよ、折角だから音出ししてもいいし、先生が来るまで好きにやってて」

「……でも……」

紘輝の言葉に戸惑う麗の背中を、隆玄がぽんと押す。

「ほら、入った入った」

「うわっ」

軽く躓きそうになりながら、彼女は戸口から部室の中に吸い込まれた。


「お疲れ様です。……?」

くるみたちが部室に入ると、ひとりの少女がクラリネットを抱えて窓際の椅子に座っている。

『クラリネット……吹奏楽部の子?なんでここにいるんだろ』

なんとなく見覚えのある彼女の姿に小首をかしげたくるみを、紘輝と隆玄が見た。

「みんなお疲れ、今日は特別ゲストをお迎えしてます」

「!……やめてください、そういうの」

懲りない隆玄の冗談をきつい口調で跳ね返すと、彼女は窓の外に目線をやる。

「……吹奏楽部?さっき音楽室の前を通ったときは、全体練習してたみたいだけど……」

祐華の言葉に彼女はびくりと体を震わせる。

「いろいろあってね、今ここで休憩してる。この子も一年生だよ、クラス一緒?」

「いえ……あの、はじめまして。三組の菊川ミチルと申します」

紘輝に聞かれて、ミチルがあいさつをする。

「はじめまして、わたしは二組の牧之原くるみ。こっちは同じクラスの藤枝祐華ちゃん」

「藤枝祐華です、初めまして」

「俺は二年の島田太陽。……そっか、吹奏楽部か」

それぞれが挨拶をしてきて観念したのだろう、彼女はくるみたちに体を向けると、

「……一年一組の、清水麗です」

それだけ言って、再びそっぽを向く。

「清水さん、よろしくね。もうすぐ先生も来ると思うから、せっかくだしクラリネット、吹いて見せてね」

「……」

麗はくるみをちらと見て、盛大にため息をついた。

『……ん?やらかした?』

くるみの口元がひきつったその時、

「みんな、お疲れ様」

背後から興津の声がして、全員がそちらを見る。そして、

「……清水?なんでここにいるんだ」

窓際の麗を見て、彼はひどく戸惑った。


「……これはまた恐ろしい難曲だね。吹奏楽コンクールの伝説の一曲だよ」

渡された楽譜のタイトルを見て、興津が唸った。

「さすが先生、知ってるんですね」

隣から譜面を覗き込むくるみの言葉に、彼はかすかに照れ笑いを浮かべてうなずく。

「一応ね、演奏したことはないけど。……というか無理だよ、これは。並の吹奏楽部じゃあ歯が立たない。こんな曲を今から課題曲と一緒に仕上げるなんて、授業の時間まで練習に充てないと、この間のライブの演奏を聴く限りでは、うちのレベルだと厳しいだろう」

「……難しい曲って、高得点になりやすいんですか?」

そこまで楽譜が読めるわけではない祐華が、興津の手の中にあるパート譜を見て、すぐさま顔をしかめる。

「そんな噂もあるにはある。強豪校と呼ばれるところは、みんなグレードの高い曲を選んでくるからね。……でも結局、そのバンドのいいところがしっかり出ているか、ミスを恐れて消極的になってないか、そういうところが審査の基準だな。だから易しい曲でも金賞を取るチャンスは十分にあるし、難曲を演っても失敗したら減点だ」

「やはりそこは、完成度の高さに依存するんですね……それにしても、本当に難しい曲……変拍子が多くて大変ですね」

ミチルが祐華の後ろから楽譜を覗き込んで、眉根を寄せた。

「清水、本当にあの先生は、この曲を演ろうとしてるのか?」

「はい。……でも、演れる自信がないです」

麗はうつむいて、ぎゅっと体を縮こまらせる。

「……わたし、ほんとのこん言うと、ちゃんと楽譜が読めなくって……耳で聴いて覚えるか、いつも他の人の音や参考演奏を聴いてから、音符にドレミを書き込んで吹いてるんです。……でも、これは本当に全部ぐちゃぐちゃで、何度聴いても、何もわからなくて……」

「なるほど。これは譜読みが出来ても厳しいから、それは大変だ」

「中学から今までずっと、そうやってごまかしながら吹いてたんです。……クラは好きだから部活辞めたくないし、ずっと続けたいって思ってます。でもわたし、絶対音感なんてないし、変拍子が入るとリズムが取れなくなったりして……他の皆は頑張って吹いてるのに、わたしが足、引っ張っちゃって……」

自分が許せないという様子で、麗は肩を震わせた。

「今日も出だしから、何を吹いてるかわからなくて、指が動かせなくなって、……それを先生に見つかって、もう、吹けるようになるまで、全体練習に参加するなって、怒鳴られて……でも、きっと、本当に参加しなかったら、それもそれでまたいろいろ言われるんだと思うと、もうどうしたらいいか、わからないです……」

くるみは話している最中からぼろぼろと涙をこぼし始めた麗の側に寄り、ハンカチを差し出した。

「……ありがと」

それを受け取って頬を拭うと、麗は大きく深いため息をつく。

「……清水さんの気持ち、わかるわ。わたしも楽譜あんまり読めないし、絶対音感ないもの。TAB譜だって慣れるのに何か月もかかったし……」

「俺もだ。楽譜なんて見ないで、ほとんど勘で耳コピしてるよ」

「俺もマリンバの楽譜で半音上がるとか下がるとか、苦労したからよくわかります」

祐華と紘輝、太陽が同情の声を上げる。

「アカハラじゃないっすか、これ?ねえ、先生」

仏頂面の隆玄がスティックを指先でくるくると回しながら、興津に問う。

「これだけでは何とも言うことはできない。私の目から見たら伊東と同意見なのは確かだが、賞レースのために難曲を選ぶなんてことはよくある。指導の一環だと言われてしまったらそれで終わりだ」

「そんなあ……どう考えたって無理なことさせられてるのに……」

うつむいたままの麗の姿に、くるみの心は痛んだ。

「……いいんです。ちゃんと吹けないわたしが悪いんです。譜読みが出来ないのを黙ってたのも、曲の構成がわからないのも、全部わたしがいけないんです」

「それは違うよ、清水」

麗の自虐的な物言いに、興津が歯止めをかける。

「譜読みが苦手な吹奏楽部員なんてざらにいる。だからこそ、こういった難曲に挑むには、まずは譜読みが出来る力をつけて、それから、構成がわかるまで曲の細部を見て、全体像を仕上げる方がまとまりやすいはずなんだ。なのに、いきなり完璧に吹けなんて滅茶苦茶もいいところだよ。わからないものをわからないまま演らせようとすること自体が間違ってる」

「……」

「どんな曲も、最初は完璧に演奏できなくて当たり前だ。だから練習するんだよ」

クラリネットを膝の上で握りしめたまま、麗はまた涙を浮かべる。

「心無い大人の言うことに惑わされて、自分を責めるな。君は何も悪くない。……あの先生に効果があるかはわからないが、私からも指導方法について進言してみるよ」

興津の言葉に再び泣き出した麗の背中を、くるみはそっと撫でた。


「ねー、レイちゃん。なんかジャズとかポップスで吹ける曲ある?」

「え……」

麗の涙がおさまったころ、隆玄が彼女に声をかけた。

「このまま湿っぽく帰るのも嫌でしょ、せっかくだからちょっとセッションしようよ」

隆玄はそう言うと、部屋の隅にまとまっていたドラムセットを並べ始める。

「いえ、そういうのは……」

「いいな、久しぶりにやろうか。最近即興で演奏してなかったし、トレーニングになる」

麗が断ろうとしたのを紘輝が遮り、ギグバッグからクリップチューナーを出す。

「大丈夫、ここの音は音楽室まで届かないから、バレたりしないよ」

いたずらっぽく笑って、太陽も自分のギターを用意し始めた。

「え、ちょっと……」

あっけにとられる麗に、隆玄がにっこりと微笑んだ。

「一曲演奏して、すっきりして行きなよ。その方が明日、音楽室に行くとき自信が持てると思うよ?『自分はこの曲が出来るんだから、何言われても大丈夫』ってさ」

「ははは、たまにはいいこと言うね、りゅーげん」

「たまにはって何だよ、いつもいいこと言ってるだろ。俺の発言は名言だけで出来てる」

「迷う方の『迷言』な」

「えー、紘輝先輩ひどくないっすか?」

げらげらと笑い合う上級生たちに唖然としている麗に、興津が声をかける。

「伊東の言うとおりだ。気分転換だと思ってやってごらん、こういうときは一度リセットしたほうがいい」

「……はい」

興津に言われて、麗はやっと椅子から立ち上がる。

「レイちゃーん、何にする?」

一瞬考えてから、彼女は思い切ったように答えた。

「……シートベルツの『Tank!』、お願いしていいですか」

「すげー!あれ吹けるの!?」

紘輝と太陽が色めき立つ。

「好きなんです。中一の時に文化祭でやってから、ずっとクラで吹きたくて練習してたんで、サックスパート全部吹けます」

「うわあ、カッコいい!」

くるみと祐華も目を輝かせる。

「一年も弾けるなら一緒に演ってごらん、練習になるから」

「「はい!」」

興津の掛け声にくるみたちも立ち上がって、楽器の準備に取り掛かる。

「ミチルちゃん弾ける?」

「だいたいでよければ大丈夫です。最近サブスクで聴きましたから」

祐華の問いに、ミチルが任せろと言わんばかりの頼もしい笑顔を見せる。

「ミチルちゃん、変わったねぇ。いいこんだ」

隆玄がにやにやと太陽を眺めながら笑う。

「……だから、なんでいちいち俺を見るんだよ、りゅーげん」

「べっつにぃー」

部員たちの間から、くすくすと小さな笑いが沸き起こる。

「……」

目の前でどんどん組み立てられていくステージに、麗はしばらくぼんやりとしていたが、やがて我に返ったように頭を振ると、管を温めるためにクラリネットに息を吹き込んだ。


軽音楽部は麗をセンターに、それぞれの位置につく。

「キーボードの音色、ブラスの方がいいですか?」

「そうだな、……パーカッションがこれしかないのが少し寂しいけど、まあ、しょんない」

そう言いながら興津はくるみの隣に立つと、

「清水、準備が良ければ合図してくれ。そうしたらリズムを取るから」

麗に声をかけて、戸棚の奥から出したシェイカーとモンキータンブリンを構えた。

「わかりました。……よろしくお願いします」

彼女は部員たちに一度お辞儀をしてから、正面に向き直って大きく深呼吸をすると、マウスピースを咥える前に首だけ振りかえって、隆玄と目線を交わした。


まるでこれまでの鬱憤を晴らすかのような、アドリブまみれの激しい音色の演奏が終わると、開け放っていた窓の下から拍手と歓声が聞こえた。

「!」

「誰か下にいたみたいだね」

太陽の言葉に焦った麗がそこから顔をのぞかせると、金色の日差しの中でテニスバッグを背負い、真っ黒に日焼けした少女が三人、自転車を止めて手を振っている。

「……」

「あはは、吹奏楽部じゃなくてよかったっけねぇ」

いつの間にか隣に立っていた隆玄に驚いて、麗は後退った。

「カッコよかったわ、清水さん」

「クラリネットであのサックスソロ、ここまで吹けるもんなんだな」

「とっても迫力ありました!」

その場にいた全員が、麗に拍手を贈る。

「すごかったよ、清水さん!わたし感動した!!」

くるみの言葉に、彼女は照れくさそうな微笑みを返す。

「清水、どうだった?」

興津の問いかけに、

「……なんか、楽しかったです。すごく久しぶりに、クラ吹くの、楽しいって思いました」

麗はようやく心から笑うことができたようだった。


「どう?レイちゃん。また明日から、音楽室行けそう?」

片付けを終え、部室を後に廊下を歩きながら、隆玄は隣の麗に尋ねる。

「……行きたくないけど、行くしかないですよね」

クラリネットの分だけ重くなったケースの持ち手をぎゅっと握り、彼女はうつむいた。

「大丈夫、今日これで自信がついたっしょ?レイちゃんは努力すればちゃんとできる子なんだよ。……問題は、その努力のための時間が与えられない環境にある」

それまでのおちゃらけた口調が、ふっと隆玄の喋りから消え、麗は息を呑む。そうして、

「……なぁ、レイちゃん。今の吹奏楽部、ぶっ壊したくなんないか」

「えっ……」

彼の口から発せられた過激な響きに、彼女は目を見開いたまま立ち止まってしまった。

「ふざけるのもたいがいにしろって話だよ。コンクールのためだけに、演奏できそうにないほど難しい曲をやらされて、毎日あいつにキレられて、いじめられて……それって、間違ってると思わないか?そんなつまらん部活、一回跡形もなく、きれいに吹き飛べばいい」

「先輩、何言ってるんですか……」

「割とマジだよ。俺、もともとあいつなんて大っ嫌いだけどさ、今日でさらに嫌い度が増した。……太陽もあの野郎に、話すのも嫌んなるくらいひどいこんされて、部活辞めさせられてるんだ。だから、レイちゃんのさっきの話聞いて、もう絶対許さんと思ったよ。……音楽を楽しめない吹奏楽部なんて、何のために存在してるんだよ……!」

「……」

「難しい曲やるこんを悪いとは思わんし、コンクールで賞とるのも大事かもしれんけどさ、音楽って人生の財産だって俺は思ってんの。レイちゃんは、つまんないって思いながら演奏した曲を好きになれるか?俺はなれない。嫌な思い出がある音楽は心の負債になる。……このままじゃ、コンクールの曲のこと思い出すたび、あいつ絡みの嫌な記憶しか出てこないだろ?」

「……それは、……」

ずっと背を向けていた隆玄は、麗を振り返り、じっと真剣な目で彼女を見つめる。

「レイちゃん、会ったばかりでこんなこと言うのも難だっけが、力を貸してほしい。君っちだけじゃない、俺らも含めて、生徒みんながあいつに苦しめられてる。今、先生っちが頑張ってくれてるけど、きっとどれだけ追い詰めても、あいつはあの手この手で逃げようとするはずだ。だから絶対に言い逃れなんてさせないで、抜け穴も逃げ道も全部塞いで、あいつをぶっ潰してやるんだ。そのための『証拠』が、俺たちは欲しい。……協力してくれるか?」


夕闇を背にした、眼鏡の奥の鋭く射貫くような眼差しに、麗は小さく息を飲む。

それを同意と受け取った隆玄は、かすかな微笑みを浮かべ、彼女の肩を叩いた。

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