第15話

「……話してくれてありがとう。……辛かったな、島田。……悔しかっただろう」

「……」

懸命に涙を呑みこむ太陽の背中を、ミチルが撫でる。

「俺も知ってて、ずっと言わなかったのがいけなかったです。……すみませんでした」

隣に立つ隆玄が、身体を深々と折り曲げる。

「……先生、りゅーげんは俺に頼まれたから、言わなかっただけなんです。何も悪くない」

「わかってるよ、そのことで君たちを責める気はない。……むしろ、島田が退部した理由を、私が最初に疑うべきだったんだ。君がそんな不誠実な人間じゃないということはわかっていたはずなのに、部員が増えるということだけに喜んで、何も聞かずに鵜呑みにしてしまっていた。……気付いてやれなくて、本当にすまなかった」

頭を下げた興津に、太陽は慌てて手を伸べる。

「謝らないでください、先生。俺が最初から正直に話していればよかったんです」

身体を起こした興津は、首を横に振った。

「でも、あのときは無理だったんだろう?……私も吹奏楽部にいたから、島田の気持ちは痛いほどわかる。自分一人のせいで、他の部員の頑張りや目標を奪うことになるかも知れないと思うと、飲酒喫煙を見かけて、それを相談するだけだって、相当な覚悟と勇気が要ったはずだ」

「……はい……」

「見てみぬふりだって出来たはずなのに、そうしなかった君は偉いよ、島田」

「……」

ぼたぼたと両目からこぼれた涙をミチルが渡してくれたハンカチで拭きながら、太陽は嗚咽を堪えている。

くるみたちは彼らの背中を、少し離れたところから黙って見ていた。


土曜日、紘輝は太陽と隆玄それぞれの家に行き、ミチルから聞いたことをあらためて本人たちの口から確認して、興津に真実を話すよう説得した。

太陽は最初ためらっていたものの、ミチルが自分のことを想って憤り、涙まで流したということを聞いて、ようやく決心を固めた。

隆玄もずっと事実と気遣いの板挟みになっていたのだが、太陽が興津に話をすると決めたことを受けて、長い間、心に抱えていたものを手放すことができたようだった。


「先生、これからどうするんですか?」

紘輝に訊かれて、興津は口元に手をやりながら思案する。

「……そうだな、もう一年前のことだし、今から飲酒喫煙の証拠を出そうとしても無理だろう。出来れば吹奏楽部の部員に聞き取り調査をした方がいいんだろうけど、それで事実を話してくれる生徒がどれだけいるかわからないし、それこそコンクール出場を餌に口封じをされてしまう可能性だってある」

「他の角度から攻めたほうが良さそうっすねぇ。例えば……」

「……あの、セクハラなら、証拠を集めることはできると思います」

涙を拭いた太陽が、隆玄と目を合わせ、深呼吸してから口を開いた。

「セクハラ?」

興津が言葉の不穏さを咎めて聞き返す。

「……先生にはまだ言ってませんでしたね。ミチルちゃん、あいつに付きまとわれてるんです。俺がこないだ、ちょっと強気に出てからは何もされてないんですけど、放課後になると、いつも音楽室の前でこの子が通りかかるのを待ってるんですよ」

太陽の話に、一瞬で興津の表情が極めて険しくなる。

「……菊川、本当か」

「はい……あの、伊東先輩が教えてくださったんですが、管弦楽を嗜んでいる女の子に、とても執着するそうなんです……バイオリンが弾けることがわかってしまってから、授業中も、髪の毛や身体に触ろうとしてきたり、ずっと近くに立ってたり……すごく気持ち悪くて……」

思い出しただけで怖気立ったのだろう、ミチルの顔色が悪くなる。

「うわ、そんなことするの……サイアク……」

「わたしたちはみんなの前で歌わされて、下手くそとかうるさいって言われるだけだけど、ミチルちゃんのは完全にアウトじゃない」

くるみと祐華も嫌悪感を隠さずに言葉を吐き捨てる。

「いや、ちょっと待て。祐華もくるみちゃんもえらいひどいこんされてるじゃねーか。あの野郎……男子だからって、ガン無視されてるだけの俺らがかわいく思えるっけ」

二人の発言に、紘輝が盛大に怒りをぶちまけると、太陽が続けて口を開く。

「吹奏楽部の指導中も、間違えた生徒はかなりひどいことを言われました。死ねとか、音楽やめちまえとか、何時間も正座とか、そういうのは割と日常的でした。暴力を振るわれることも多かったです。譜面台を蹴倒されたり、チューナーが飛んできて顔に当たった子もいました。俺も、うっかり間違えたときに、指揮棒を顔に向かって投げられて、寸止めしたこんがあって……でも、みんな、全国大会に行けると思って我慢するんです。俺もそうでした。先生の言うとおりにしてれば間違いはないんだ、先生の思ったとおりの音も出せない、こんな簡単なことも出来ない、自分の実力の無さが悪いんだって……」

そう言って俯いた太陽を見て、興津は腕を組み、深刻な面持ちでつぶやいた。

「……どうも、私ひとりの手に負える問題ではなくなってきたな……」

重苦しい沈黙が、部室の中に漂う。


「……昔のことは無理だとしても、今、起こってることを、録画か録音できれば……」

くるみがぽつりと言うと、部員たちはにわかに色めき立った。

「あの先生、吹奏楽部の個人練習、毎回見廻ってるよな?」

「こっそり後付けて録画、っていう手があるわよね」

「授業中、スマホで隠し撮りとかしてもいいかもしれないなぁ」

興津が彼らを慌てて制止する。

「こらこら、ちょっと待て。確かに証拠は必要だが、盗撮は駄目だ。君たちの方が校則違反で処分を受けることになるぞ」

「じゃあ、どうしたらいいんですか。明確な証拠がない限り、学校だって動いちゃくれないでしょう。黙ってあいつの好き勝手にさせとけって言うんですか。現に太陽はあいつに嫌がらせじゃすまないレベルのことされてるし、ミチルちゃんは危ない目に遭ってるんですよ」

すっかり憤った紘輝が興津に嚙みついた。

「それは……」

言葉に詰まってしまった興津に、紘輝はなおも畳みかける。

「……先生が見かけたっていう、泣いて練習してた生徒だって、もしかしたらあいつからひどいことを言われたりされたりしたのかもしれない。放っておけませんよ」

「……よし、わかった」

興津はほんのわずか何かを考えたようだが、すぐに腹をくくった様子で全員を見た。

「我々教員の方で何か出来ないか、他の先生に相談してみる。幸い、協力してくれそうなアテはあるからね。それなら少しは事態が改善するかも知れない。とにかく、生徒の身の安全だけでも優先してどうにかならないか、上の先生っちに掛け合ってみるよ。……だから、君たちはくれぐれも余計な真似はしないように。下手なことして停学になったら、うちの学校はそれ自体が自主退学勧告だからね。そうなったら目も当てられない」

「でも、そんなこんでうまく解決しますか?あっちは全国に行ったって実績があるから、そんな簡単にあの先生をどうこうしようなんて、偉い人たちは思わないでしょう?」

「他に方法がないよ。……じれったいかもしれないが堪えてくれないか、藤枝。セクハラは論外だが、吹奏楽部の指導に関しては、その厳しさを良しとしている親御さんや生徒がいる可能性もある。困ったことに、全国に行くためなら何をされてもいい、暴言や体罰も構わないという考え方はまだ根強い。そういう時代にそぐわないものの考え方をする人たちや、子供のいうことを真面目に聞かない大人を納得させるには、色々な手順を踏まなくちゃならないから、時間がかかるんだ。こればっかりはしょんない、いきなり物事を変えるのは無理だよ」

「……」

申し訳無さそうに自分を見た興津に、紘輝は何も言い返せなくなってしまった。

「じゃあ、今から行ってくるから、君たちは自主練してなさい。時間が来たら部室を閉めて、鍵は職員準備室に返しておくようにね。頼むよ」

彼はそう言って椅子から立ち上がり、荷物を手にして部室から出ていこうとする。


「先生……」

くるみはいてもたってもいられず、荷物を持って戸口に立った興津の側に歩み寄った。

「どうした、牧之原」

「いえ、……そんなことして、先生は大丈夫なんですか?」

「大丈夫、これが私の仕事だからね。何も心配するこんはないよ」

「……それなら、いいですけど……」

困り果ててもじもじと指を動かすくるみに、興津は優しく笑いかける。

「ありがとう、気にかけてくれて」

彼の笑顔に、くるみはほんのりと顔を赤らめ、肩の力を抜いた。

が、興津はその様子に小さくため息を吐くと、ふと寂しい目をして独り言のようにつぶやく。

「……本当はもう少し、一緒にいたかったんだけどね」

「えっ……」

くるみがその言葉の意味を測りかねているうちに、彼は部員たちに背を向けて去って行ってしまった。


「……なあ、先生はああ言ったけどさ、じっとしてていいと思うか?」

廊下の奥で階段を降りていく足跡を聞いてから、紘輝は部員たちに問いかける。

「いいわけないわ。でも、どうするの?校則違反になるようなこんは駄目なんでしょう?」

祐華が困って首をひねる隣で、すぐさま隆玄が何かをひらめいた顔で指を鳴らした。

「……盗撮はダメでも『たまたま』吹奏楽部の練習風景が映り込んじゃうようなこんがあったら、それは別にお咎めはないんじゃないっすかねぇ?」

「え?」

「ほら、俺らだってたまには『部室の外で気分転換するために練習』するときだってあるし、『どこで使うかはわからないけど、MVの撮影をする』なんてのも、したりしますよねぇ?」

にやりと笑った彼の言葉に、その場にいた全員が言わんとしていることに思い至る。

「ああ……」

「確かにね」

「ちょっとくらい校内をうろちょろすることなんて、普通にありますよね」

くるみたちは顔を見合わせ、言うことを聞かない子供の顔で笑い合う。

「……じゃあ、今日は『外でMVの撮影』でもしようか」

「ういっす」

「了解」

果たして五分後、施錠された軽音楽部の部室に部員の姿はなかった。


そうして校内を歩き回り、一時間が経過したころ。

「……だめだ、疲れた……もー俺、階段上り下りすんのやだ」

「ま、そうそううまく行き会わないもんですよね……」

「ゲームみたいに、何時にどこにいるとか、パターンが決まってればまだやりようがあるけど、完全ランダムエンカウントは、やっぱキッツイなぁ……」

軽音楽部員は全員が疲れ果て、西館の空き教室で休憩をとっていた。

「でも、撮れた動画はとても面白いですよ、ほら」

ミチルがそう言って、再生ボタンを押してからスマートフォンを差し出すと、部員みんなで頭を寄せ合い画面を見る。

遠目に駐輪場が見える校舎前、ポケットに手を突っ込んで『MUSIC VIDEO』を歌いながら歩く紘輝の両脇から、真顔の太陽と祐華がひょいと出てくると、全員が噴き出した。

「あっはは、いいなあ、このチープな感じ」

「このままこの歌、まるっと作っちゃうのも面白そうね」

「いやいや、分身どうすんだって話」

ひとしきり笑ったところで、彼らはぐったりとため息をつく。

「……今日はもう、部室に戻ろうか」

紘輝の一声で、彼らは今日の遭遇を諦めた。


『……さて、まずはどうしようか』

廊下を歩きながら、興津はひとり考えを巡らせる。

『勤続二年目の、何も実績のない僕に力を貸してくれそうな人たちか』

そう思ってすぐに頭に浮かんだのは、バンドのメンバーだった。

『でも、相手が相手だし、話をしても巻き込まれてくれるかな……藁科先生と朝比奈先生は家族がいるし、安倍先生にも無理は言えない。独り身とはいえ、将之もどうだろうな……』

最終的には自分だけが泥をかぶる覚悟はできているが、彼らも生活や立場がある。

『結局、一人で戦うしかないのかもな……でも、ここまで生徒が被害を被っているのに、黙っているわけにはいかない。首になる覚悟でやろう。それから先のことは、あとで考えればいい。あの子たちの高校生活は今しかないんだ。たった三年しかない貴重な時間を、大人の都合で嫌な思いをさせるのは本意じゃない』

心を決めると、彼はまず大井と話をするため、武道館へと足を向けた。


「……なるほど、いいよ。俺もその話に乗った」

「え……」

大井からあっさりと同意の返事が得られたことに、興津はきょとんとする。

「え、じゃない。生徒がそんな目に遭ってるのになんもしないなんて、教師じゃないだろ。そもそも俺は島田道場の門下生だ、太陽のことは生まれたときから知ってる。弟みたいなもんだよ。あいつがそんなことされてたって知って、見過ごすことなんて絶対にできん。むしろ、俺もあいつが転部したときに、もっと詳しく話を聞くべきだったんだ。責任はある」

そう言って大井は、興津の目を真っ直ぐに見た。

「……いいのか、最悪首になるぞ」

興津の言葉に、大井は平然として答える。

「そうなったら親父の遺した工具使って、工務店の立て直しでもするよ。それに、前からあの野郎には腹が立ってしょんなかったっけ、自分の中でけじめを付けるにいい機会だ。いっつも偉そうにふんぞり返って、あからさまに運動部の生徒を見下してくるもんでね、気に入らん」

大井は傍らの竹刀を持つと、上段に構えて振り下ろす。

その先では、武道館に立ち込める汗臭い空気の中、彼の指導する剣道部の生徒が懸命に足さばきの稽古をしている。

「ホントのこと言うと、仕事だからって思ってずっと我慢してたんだよ。でも、大ちゃんに言われて目が覚めた。部活の指導だけじゃなくって、授業の評定まで歪めるようなひどいことになってるのに、見ないふりしてちゃ駄目だ。もしも理事会がそれをもみ消そうとするなら、こっちからここで働くのなんて願い下げだ」

素振りを繰り返しながら話し続ける大井に、興津は最後の確認をする。

「……本当にいいんだな?」

「大ちゃんこそ、まだ勤め始めたばっかなのに、いいのか?」

質問を質問で返されて少し困惑したが、

「……いいよ、仕事なんてまた探せば。塾講や非常勤だったら、そこそこ募集もあるだろう」

そう言って笑うと、興津はもたれかかっていた壁から離れる。

「ありがとう、将之。……悪いっけね、巻き込んで」

大井は素振りを止めて、興津を振り返る。

「謝んなよ。……大ちゃん、すぐそうやって自分だけを悪者にしようとするんだもんなあ。良くないぞ」

痛いところを突かれて、興津は肩をすくめた。

「……で、どうする。他の面子に話をすんなら、今から行っちゃったほうがええだら?手は早いうちに打った方がいいっけやあ」

竹刀を下ろし、大井はジャージを脱いで腰に巻く。

「いいのか、まだ練習中だら?」

「大丈夫、俺が見張ってなくてもうちの部員は自主稽古するよ。……さーて。職員室だと奴が戻ってくる可能性があるけど、体育教官室ならビビって入ってこないだろうから、みんなにはそこまで御足労願うことにしようか」

壁に立てかけてあった竹刀バッグの中に手にしたものを入れつつ、大井はその秀麗な顔に、涼やかな笑みを浮かべた。


「以前から決していい指導者だと思ってはいませんでしたが、いよいよ許しがたいですね」

普段穏やかなぶん、安倍の静かな怒りは肌がひりつくほどすさまじいものがある。

「部員の監督不行届きに不当な退部要求と脅迫、女子生徒へのわいせつ未遂に執拗な付きまとい……懲戒解雇でも生温い」

その怒りのオーラを上回るほど藁科が腹を立てていることは、彼の声の低さでわかる。

「本当に、話を聞けば聞くほど酷いわね。なんでまだあんな人が雇われてるのかしら。私が保護者だったら、とっくに警察に駆け込んでるレベルよ。ここまでとは思わなかったわ」

ショックを受けた朝比奈が、辛辣な言葉を吐く。

「興津さん、これは私たちだけでどうこうしてはいけません。ちゃんと情報共有して、他の教員にも声をかけましょう。教員と生徒が一丸になれば、校長も理事会も何もしないわけにはいかなくなる。それで動かなければ、私学協会に持ち込めばいいだけの話です」

安倍の提案に、藁科と朝比奈もうなずく。

「吹奏楽部に抜き打ちでアンケートを取ろう。カモフラージュのために、全校でという形にしてもいいかもしれないな」

「興津君、その付きまといにあってる子、しばらくの間、音楽の時間だけ保健室に避難させてあげられるかしら?担任は誰?他にもそういう子がいたら、声をかけてあげて欲しいわ」


目の前でどんどん自分の想像を超えていく事態に、興津は言葉が出ないまま立ち尽くしていた。

隣で大井が、あっけに取られている彼を見て、にっと笑う。

「……大ちゃん、一人で戦おうって思ってただろ。大丈夫、仲間ってちゃんといるもんだよ」

大井にぽん、と肩を叩かれて思わず安堵したせいだろう。興津は目の端ににじんでしまったものを、慌ててまばたきで誤魔化す。


「……皆さん、ありがとうございます」

興津は深々と頭を下げる。

「いいのよ、むしろ動くのが遅すぎたくらいだわ。他にも被害に遭った子がいたかもしれないと思うと……」

朝比奈は頬に手を当て、深いため息をついた。

「これも仕事だ、なんて汚い言い訳をして、あの傍若無人さを見てみぬふりをしてきた我々に責任がある。こうなったら徹底的にやろう。そうでなければ生徒に示しがつかない」

藁科が後悔の滲む声でそう言って、深い顎髭を撫でながら興津を見た。しかし、

「……ただ、今年の吹奏楽部は、コンクールを辞退することになるかも知れませんね。指導者不在となると出場は難しいでしょうし、全国大会に出たいがために吹奏楽部に在籍している生徒も、少なくはないでしょうしね……」

安倍の言葉に、その場にいた誰もが沈黙する。


「……しょんないよ、そんときはちゃんと、誠意をもって頭を下げるしかない」

それを破ったのは、藁科のきっぱりとした言葉だった。

「それが不満で辞めていくような生徒は、受験のためのトロフィーが欲しいだけで、そもそも『音楽が好き』で吹奏楽をやっていた人間じゃないんだ。厳しいことを言うようだけえが、今回の事態でどちらに重みがあるかは、誰にだってわかるだろう。そこで駄々をこねるような生徒や保護者に気を使って、取り返しのつかない事態になってしまうことの方がよほど問題だ。コンクールの出場に関しては、連盟にどうにかならないか働きかけることは出来るかも知れないが、それと『今年も賞が取れるかどうか』は別問題だよ。だいいち、生徒を脅してまで賞にこだわるような奴の音楽が、これから先も通用し続けるとは、私は思わないからね」


長年吹奏楽に関わってきた彼の言うことだけに、四人は納得してうなずくことしかできない。

「……そうですね。恨まれはするでしょうが、そもそもの原因はあの人にある。出場辞退になってしまったら、今年の三年生は可哀想ですが、致し方ないですね」

安倍がため息交じりに、自分を納得させるかのような口調で言葉を吐いた。

「きっと、保護者への説明が一番大変でしょう。まあ、そこは理事会に頑張ってもらうしかない。……あの人への不満表明と改善要求を理事会に届かないように止めてたのは、多分校長ですね。教頭先生はこっちについてくれると思いますけど、どこまでこちらの要望が通るかは、わかりませんね……場合によっては、向こうから名誉毀損でやり返される可能性だってある」

大井が腕を組み、この先起こるであろう事態を思って目線を落とした。

「何しろあっちは、万年地区銀賞を全国に連れてってる実績があるからな、手強いぞ」

「署名と生徒からの証言だけでは、もみ消される可能性もなくはないわよね……」

「せめて吹奏楽部の顧問だけでも辞めさせられれば良いんですが、それ以上のことは……」

全員の口から大きなため息が漏れる。


『本当にこの人達を巻き込んでいいんだろうか……これは完全に負け戦の空気だ』

自分ひとりで収めておけばよかった気がして、興津はひどく後悔した。

これだけの実害が出ているのに、生徒が声を上げず、教員たちが今まで見ないふりをしてきただけの理由はやはり大きい。

それでも正義と名誉を天秤にかけたとき、

『僕は正義を取りたい。いや、正義こそ名誉でなければ、生徒に示しがつかない。僕はそれを、ちゃんと生徒に教えないといけないんだ』

そうして己を奮い立たせ、最後に自らの首を差し出す覚悟で前を向いた。


「……ひとまず、これからどう動きますか?」

興津は眼前の四人に問う。

「私が部活動に関するアンケートを作成しよう。早めに実施して、吹奏楽部の生徒の証言を得たい。教頭先生には話をつけておく」

「わかりました。藁科先生、よろしくお願いします」

頭を下げた興津に、藁科は頼もし気に頷いた。

「書面での証拠もだけど、映像か音声があるとなおいいわね。でも、私たちが見学に行ったら、絶対普段と同じこんなんてしないでしょうし……」

「さすがに盗聴器を仕掛ける、なんちゅうこんはできませんからね。まあ、一旦それは置いておきましょう。アンケートだけでも威力はあるはずです」

朝比奈と安倍が顔を見合わせて、ふむ、と息を吐く。

「教職員には直接署名を募りましょう。普段から嫌味も多いし、なんだかんだで被害を被っている人はいますから、みんな間違いなく記名してくれますよ。本人にバレないようにだけ、しっかり気を付けましょう」

大井の提案に全員がうなずくと、

「……よし、段取りは決まったな。そのセクハラ被害に遭っている生徒には、興津君からも保健室の話をしておいてくれ。出席扱いになるように、教頭先生に私から掛け合っておこう。安心するように言っておいてやって欲しい。頼むでね」

藁科がそう言って、興津の肩を叩いた。

「はい。……何から何まですみません。よろしくお願いします」

仲間がいてくれる心強さに胸が熱くなるのを感じながら、興津はもう一度頭を下げた。

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