第17話

「そろそろ、文化祭のライブの曲決めないといけないよね……証拠探しとかしてる場合じゃなくなってきたなあ」

掃除の後、トイレの鏡で化粧を直しながら、くるみはぼやく。

「……やっぱり無理よね、そもそも先生がいない時間がほとんどないから、動きようがないもの」

前髪を上げて脂取り紙を額に当てながら、祐華が小さなため息をつく。

「偶然を装うというのも難しいものですね……諦める方がいい気がしてきました」

ミチルが手櫛でツインテールを整えながら肩を落とす。

「……清水さん、あの後、大丈夫だったかな……」

色付きリップを塗り終えると、くるみはそれをポケットにしまいながら目を伏せる。

「心配よね、……何もされてなければいいんだけど……」

「興津先生のお話で、なんとかお気持ちを持ち直されていればよいのですが……」

三人は鬱々とした気分のままトイレを出て、部室に向かう。

途中で待ち合わせていた太陽と合流して、くるみたちは階段を上り始めた。


麗とのセッションから三日経っていた。

興津や部員たち――特に、あの日長いこと後ろの方で話し込んでいた隆玄の励ましで、どうやら次の日も彼女はなんとか音楽室に行ったようだが、その先まではクラスが違うこともあって、様子はうかがい知れなかった。

『また、吹けないなら来るな、って追い出されてたりしないよね……』

渡り廊下の先にある音楽室の前を通るとき、くるみは中の音に耳をそばだてる。

既に顧問は来ているのだろう、全員で何か捉えようのない曲を演奏している気配がある。

『先生からやり方のことであれこれ言っても、あのセクハラおやじが素直に聞くとは思えないなあ、……わたしにも、何かできればいいんだけどなあ……』

かといって、まさか殴り込むわけにもいかず、そもそも自分がしゃしゃり出たらなおの事状況は悪化するだろう。

問題を一気に解決できるような良い方法は全く浮かばない。

今のところ、成すすべはないのだ。

『ごめんね、清水さん。がんばって。……また何かあったら、部室まで逃げてきてね』

くるみは音楽室の前を足早に通り過ぎた太陽たちを、同じ速度で追いかけた。


「お疲れ様です」

「おー、みんな来たか」

先に部室の中にいた上級生三人が、くるみたちに笑いかけた。

「お兄ちゃん、先生はまだ?」

「今日は会議があるから遅くなるってさ。四時半まで来なかったらそのまま帰っていいって」

「ふーん、……じゃあ、今日は『外で練習』が出来そうね」

「おう、四時前に一旦ここに帰ってくる算段で動くぞ」

兄と会話しながら机の上にギグバッグを置く祐華の隣で、

『そっか、今日は先生に会えないかもしれないのか……』

くるみは思わず意気消沈する。

「くるみちゃん、がっかりしすぎだよ」

「はっ!?いいいいやいやいや、そんなそんなそんな!!!」

ストレートに出過ぎた表情を太陽にからかわれて、くるみははっと顔を押さえる。

「ホント、わかりやすいなぁ。下手すると変な奴に目ぇ付けられるから気を付けなよー」

「わ、わかってますっていうか、なんで気を付ける必要があるんですか!!わたしと先生は、別に何でも……」

隆玄の冗談交じりの忠告を全力否定しようとしたその時、がらりと部室の引き戸が開いて、

「隆玄先輩……!」

髪を振り乱し、乱れた制服の麗が倒れ込むように中に入ってきた。

「麗ちゃん!!」

稲妻のように走り寄って、隆玄は彼女を支える。

「……」

何が起こったかわからずに、他の部員たちは息を呑んでそこに凍り付いた。


「……!清水さん、脚……!」

「怪我してるじゃないですか、……血が……」

数秒の後、我に返ってふと見た彼女の右の太腿に、範囲の広い擦り傷が出来ていることに気付き、くるみとミチルは慌ててハンカチを取り出す。

「ここじゃ何もできない、とりあえず保健室行こう!」

「わたし、先生呼んでくる!」

そう言って戸口に向かおうとする紘輝と祐華を、

「待ってください!先に、渡したいものが、……」

麗は涙を堪えながらそう言って止め、ポケットから四角い黒い物体を取り出した。

「……先輩に頼まれた、暴力とパワハラの音声です……これがあれば、あの先生を確実に追い詰められます……!」

「りゅーげん、お前……!」

一瞬で事態を察した太陽が、髪の毛が逆立ちそうなほどの勢いで隆玄に噛みつく。

「その話はあと。……麗ちゃん、あの野郎に何された?具体的に教えてくれ」

「……変拍子のところで間違えたら、メトロノーム投げられて、それが顔に当たって、……それから、いろいろ言われて、頭を叩かれてから、椅子ごと突き倒されて……背中とお腹を、何回か蹴られました……」

「!!」

隆玄の目に、殺意にも似た色が浮かんだのをくるみは見た。

「……ひどい……相手は女の子なのよ、どうしてそんなことができるの!?」

怒りで祐華の声は震えている。

麗の頬には、投げつけられたプラスチックの塊の痕と思しき、薄い痣があった。

「目はやられてないな。口の中は切れてない?どこか、身体の中が痛むとか、そういうのは?」

隆玄の声掛けに、彼女は目を閉じて首を横に振る。

「……よし、救急車呼ぼう。行先指定して俺んちで診てもらって、親父に診断書作ってもらうぞ。その前に先輩の言うとおり、保健室で応急処置だけしてもらおう」

極めて冷静に、そして怒りを隠さずに隆玄は言葉を発した。

「清水さん、歩けるかな?肩貸すよ。紘輝先輩、反対側いいですか?」

「おう」

太陽と紘輝に支えられて麗は立ち上がるが、

「……あ、あれ?……すみません、立てない……」

そこにくにゃりとくずおれてしまった。

「あー、腰抜けちゃったかぁ。よし、俺がおんぶしてく。乗っけて」

さっと隆玄がひざまずいて、紘輝と太陽の手で乗せられた麗を背中に立ち上がる。

「落ちるなよ、しっかりつかまって」

走るとまではいかなくともかなりの速足で歩き始めた隆玄を追うように、全員が部室を後にした。


「救急車呼んでいいわよ。そこの電話使って。荷物は私が取りに行くわ」

太腿と顔の怪我を処置した後、事情を聞いた朝比奈が戸口でくるみたちにそう呼びかける。

「わかりました」

紘輝が机の上の固定電話を取り、救急隊員と話を始める。

「……」

くるみは、引きつるような浅い息をしながらベッドで横になっている麗の手を、そっと取る。

「……清水さん、……怖かったよね……」

「……」

「ごめん……何かしてあげたかったのに、何も出来なくて」

「……別に大丈夫。わたしがやりたくて、やったことだから……」

麗はくるみに微笑んで見せた。

それでもやはり相当の恐怖だったのだろう、いまだに手は震えている。

その手を握るくるみの指先に、思わず力が入る。

『……私も小学校で叩かれたことはあったけど、こんなひどいケガさせられたことはなかった。……おかしいよ、ここまでのことをされても、どうして誰も声を上げないの……?誰か一人くらい、麗ちゃんを追いかけてくる人がいてもいいのに、なんで誰も来ないの?』

脅されているのか麻痺しているのかはわからないが、あまりの異常さにくるみは身震いした。


「……りゅーげん、詳しく聞かせろ。お前、清水さんに何頼んだ」

やや落ち着いた太陽が、改めて隆玄に詰め寄ると、彼は怒りを殺して淡々と答える。

「レコーダー渡して、あの野郎の暴言か暴力の証拠を、自分の演奏を録音するって体で記録してもらうようにお願いしたんだ。できるだけ鮮明な音声を、誰があいつにやられてるかわかるように。……まさか、麗ちゃん自身がやられることになるとは思わなかったけど……」

麗が気丈にも、体を起こして会話に割り込む。

「……昨日と一昨日、ばれないようにスカートのポケットに入れて録音したんです。でも、他の子が怒鳴られてても、遠くてよく聞こえなかったから……だから、そのうちわたしがこうなることは、予想がついてたんで、それを待ってたんです……」

「……無茶だよ……なんで自分のこと犠牲にするかなあ、良くないよ」

先だって電話を終えた紘輝が、麗を哀し気な目で見た。

「俺もまさか、ここまでやられるとは思わなかったっすよ。……ごめん、辛い思いさして」

隆玄がベッドの側に来て麗の頭を撫でると、くるみの手の中にある彼女の身体の震えはようやく収まった。

「大丈夫です。……あの日、先輩がわたしに話しかけてくれなかったら、あのまま吹奏楽部を辞めてたと思うし、みなさんとセッションしなかったら、音楽が嫌いになってたかも知れません。……みなさんは、わたしに、音楽が楽しいものだって思い出させてくれた。わたしも吹奏楽部のみんなに、それを思い出してほしいんです。だから……」

隆玄に撫でられながら、麗はそう言って疲れ果てた様子で目を瞑った。


「……隆玄先輩、その音声、先生に渡すんですか?」

ずっと黙っていた祐華が口を開く。

「いや、俺はそれは考えてない」

「え?どうしてですか?清水さんが暴力を受けたという、何よりの証拠になるのに……」

隆玄に即答され、ミチルが困惑したように彼を見る。

「こんなの素直に提出したって、どっかでもみ消されて終わりだ。……考えてみなよ、あんな奴が何年ものうのうとしてられたんだぞ、ここ。先生っちの中にあいつの味方してるやつが絶対いるから、そいつんとこで証拠隠滅されたら、麗ちゃんがしたこと全部が無駄んなる」

「……確かにな。本当ならもっと早い段階であいつを追い出せたはずだ。そんな奴が偉そうな顔して教師名乗ってるとか……やっぱ大人って汚ねえな……」

紘輝が苦虫をかみつぶしたような顔をした。

「じゃあ、どうするんだ?このまま持ってるだけじゃダメだろ」

太陽が困惑した様子で隆玄を見る。

「どうしようかねぇ。マスコミに流してもいいけど、そうしたら少なくとも俺と麗ちゃんは、転校しないといけなくなるなぁ……」

ため息をつきながら、隆玄はポケットから出したレコーダーを眺めた。

「とりあえず、先輩に渡しとくっす。部長権限でどう使うか決めてください」

「……わかった」

手渡されたレコーダーを、紘輝は手の中でしばらく見つめた後、ポケットにしまった。


「お待たせ、荷物持ってきたわよ」

朝比奈が扉を開けると、麗が薄目を開けてそちらに顔を向けた。

「まったく、腹立っちゃうわね。おたくの部活の生徒が怪我したんですよって言ったのに、『ふーん、それで?』ですって。何事もなかったみたいに練習に戻ってるし、生徒も無反応で誰一人心配しないし、いったい何なの?」

彼女は怒り心頭といった様子で麗のカバンを荷物用のかごに置いた。

「清水さん、無理して部活、続けなくてもいいのよ。別に強制じゃないし、吹奏楽をやりたいなら、市民楽団に入るっていう方法もあるからね」

「はい……」

朝比奈の言葉に麗は力なく答え、再び目を瞑ってしまった。


遠くから救急車の音が近づいてくる。

「あ、付き添いは俺が行くんで、カバン取ってくるっす」

「わかった。……俺たちも部室に戻ろうか。じゃあ清水さん、お大事にな」

部員たちは口々に彼女に労りの言葉をかける。

くるみは最後にもう一度、麗の手をぎゅっと握った。

「……」

しかし、戸惑う麗にかける言葉が見つからず、

「……お大事にね、清水さん」

それだけ言って、彼女の側を離れた。


部室に戻るまでの間、くるみたちが口を開くことはなかった。

ただ、音楽室の前を通りがかった時に、みんなが扉を見て嫌悪の表情を浮かべた。

『……わたしたちにできること、ないかな……みんなが「今の吹奏楽部はおかしい」って、わかってくれるような……』

彼らだって音楽が好きなのだ。それは中庭ライブでもらった拍手と笑顔でわかっていた。

『せめて何か、きっかけがあれば……』

くるみはまとまらない考えを胸に、階段を上った。


「じゃ、俺このまま帰りますね。お疲れっす」

「おう、頼んだぞ」

紘輝に頭を下げた隆玄が廊下を走り去る音を聞きながら、くるみはため息をついた。

「……で、どうするのお兄ちゃん、その録音データ」

「どうしようかなあ、正直俺には扱いきれん。隆玄ほど頭が切れるわけじゃないからな」

紘輝はレコーダーを見つめながらぼやく。

「やっぱり、事情話して、素直に興津先生に渡したらいいと思うんですけど……念のため、こっちでコピーもとっておけば、途中でどっか行っても何回でも提出し直せますし」

太陽の言葉にミチルがうなずく。

「わたしもそのほうが間違いないと思います。清水さんの診断書と一緒に出せば、これ以上ない武器になります」

「でもなあ、隆玄の言ってたこんも一理あるから、どんなに興津先生が頑張ってくれても、無駄になる気もしてくんだよなあ……」

頭を抱えてしまった紘輝に、祐華があまり気の進まない様子で声をかけた。

「とりあえず、一度聞いてみましょう。音声がちゃんと入ってるかだけでも、確認しないと」

「そうだな。……えーと、これで選択か……よし、聞こう。……嫌だなあ……」

音量を上げて机に置かれたレコーダーを、憂鬱な顔で全員が覗き込んだ。


そこに録音されていたのは、あまりにも生々しいものだった。

自由曲の演奏が途切れ、メトロノームが飛んできたと思しき硬い音の後、耳を塞ぎたくなるような罵詈雑言と、何かがひっくり返る音に、周りで沸き起こる悲鳴。

ぼすっ、ぼすっ、という、レコーダーに何かが当たる音と同時に、麗のうめき声がする。

それが止んだ後、『出ていけ、お前など必要ない』という声が聞こえ、音楽室の扉が閉まる音に混じって『誰にも言うな。次はお前らがこうなる番だ』という脅し文句まできっちり入っている。

そこで廊下に出た麗が電源を落としたのだろう、再生が止まった。


「畜生……あの野郎、最悪だ。力のない女の子に何てことすんだよ、胸糞悪りぃ……!」

太陽が怒りに爛々と燃える目で、吐き捨てるようにつぶやいた。

「……部員の皆さんも、脅されてますね」

顔面蒼白のミチルが、信じられないといった様子で声を絞り出す。

「だから誰も追いかけてこなかったのね……部員みんなが、被害者なんだわ……」

涙目の祐華は胸の前でこぶしを握り締めて、苦悶の表情を浮かべた。

「警察に持って行っていいレベルですよ、これ」

あまりのことに吐き気を堪えながらくるみがこぼした言葉に、全員がうなずく。

「……うん、やっぱり先生に提出する方がいいな。原音と、ボリューム調整してからノイズ消ししたmp3作って、両方のコピーを俺らでも持っておこう、それなら間違いない」


紘輝のその言葉に、くるみの脳裏に一つの考えが閃いた。

「mp3……!」

その単語で、彼女はある曲を思い出していた。


「どうしたの、くるみちゃん」

「あの……ちょっと、思いついたこんがあって……」

「なに?」

「……絶対に揉み消されずに、偉い人にもこれを聞いてもらう方法。でも、後ですごく怒られると思う。下手したら停学だし、興津先生にも迷惑かかるかも知れない……」

くるみは言うのをためらってうつむく。

それが諸刃の剣であることはわかっているが、一番効果があるだろうという予感もしていた。

『もしかしたら、先生に嫌われちゃうかもしれないな……』

胸が苦しくなって、彼女はほんの少しだけまぶたを閉じる。

『……でも、こんなにひどいことが起こってるのを、見過ごすわけにはいかないよ』

くるみは覚悟を決めて目を開き、顔を上げる。


「くるみちゃん、まずは話してくれ。出来るか出来ないかはそれから判断しよう」

紘輝の言葉に頷くと、彼女は頭の中で考えたことを話し始めた。

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