第8話
「おはよ、くるみちゃん」
自転車置き場で、くるみは背中から祐華に声をかけられた。
「……おはよう……」
「えええ……どうしたの、なんかすっごく空気が重いけど……」
振り向いたくるみの目の下に濃いクマがあることに、祐華が目いっぱい引く。
「……土曜日に、お母さんのiPodに入ってた倉橋ヨエコの歌を聴いてから、なんかこう、ずっと、心がずっしり来るというか……うん……」
「えっ、聴いたの!?うわあ、嬉しい!これでくるみちゃんともヨエコ語りが出来る!」
「テンション高いですねえ、祐華さん……」
本当に嬉しそうにはしゃぐ祐華を見て、今度はくるみが引く番だった。
「それで、何聴いたの?」
「あー、えっとね、『涙で雪は穴だらけ』……だったかな……歌詞が、歌詞がですね……?心にぐさぐさと刺さって……いろいろとこう、えぐられてですね……」
「うんうん、あの歌ね。いいでしょう?あれを落ち込んでるときに聴くと沁みるのよ……!」
「……あの、歌聴いて泣いたの、めちゃくちゃ久しぶりなんですけど……?」
「大丈夫!暗い歌ばっかりじゃなくて可愛い歌もいっぱいあるから、あとで教えてあげる!」
しんなりしたくるみと、対照的にいきいきと目を輝かせる祐華は、並んで昇降口に向かう。
そこでは数名の教師が、生徒に挨拶をしながら、持ち物や身だしなみのチェックをしているようだった。
「あ」
その中の一人の姿に、思わず声が出る。
『興津先生だ』
遠目で見ても一瞬でわかる背の高いシルエットに、くるみはふらふらと吸い寄せられる。
そのくるみの背中を、
「あ、くるみちゃん待ってよ!」
慌てて祐華は追いかけた。
「お、おはようございます」
淀みなく挨拶するつもりが、気恥ずかしくてうまくいかない。
「おはようございます、先生」
「おはよう、牧之原、藤枝」
朝らしくさわやかなトーンの返事が返ってくる。
『……やっば、今日もカッコいい……』
丁寧に整えられた髪と、きちんと手入れされた口髭に、糊の効いたワイシャツ。
すらりとした体躯を包むグレーのスーツと深い青のネクタイが、実に様になっている。
『なんか、ちょっと元気出たかも』
こちらを見る穏やかなまなざしが、土曜日から晴れない心のもやを少しだけ晴らしてくれた。
くるみは彼に笑顔を返すと、靴箱に向かおうとする。
その時、
「あ、ちょっと待て、牧之原」
興津に声をかけられて、くるみはそこに立ち止まった。
「顔、見せなさい」
そう言うと興津は背をかがめて、くるみの顔に自分の顔を軽く近づけた。
「はひっ!?」
突然のことで反射的に目を瞑ってしまう。
彼のコロンの匂いがふわりと香る。
『だから、近いってば、先生……!』
このままキスをされるような気までして、じわりと頬が熱くなったのがわかった。
彼は数秒そのままの姿勢でいたのちに、ふっと身体を元に戻す。
「……?」
顔が離れたのを確認してから、くるみはおそるおそる目を開ける。
「よし、今日はすっぴんだな」
「!……あ、は、はい」
何のことはない、入学式の前科があったためにそれを検められただけだったのだ。
本当は日焼け止めと薄い色付きのリップは塗っているのだが、そこまでは気が付かれなかったようである。
「クマがひどいな。ちゃんと寝たか?」
「……い、一応……」
今頃になってコンシーラーを塗ればよかったと後悔するが、もう遅い。
興津は小さく声を立てて笑うと、くるみを優しい目で見つめた。
「牧之原、君はメイクなんてしなくても、素顔のままで充分綺麗だから、自信を持ちなさい」
彼はそう言い残すと数歩離れて、また別の生徒に声をかけ始める。
「……」
ぼうっとしたまま目線を泳がせると、祐華が扉の前で手招きしているのが見える。
くるみは興津の背中に一礼してから、急いで祐華のところに走った。
狐につままれたような気分で、靴箱の前まで歩く。
そこまで来て初めて、
「!!」
自分が今しがた言われた台詞を思い出し、くるみは上靴を取り落とすほど動揺した。
午前中の授業はつつがなく終わり、昼休みになる。
それなり真面目に授業を聴きつつも、くるみは繰り返し、今朝、興津に言われた言葉を思い出していた。
『……わかってないなあ、先生。今の世の中、お化粧は女の子の身だしなみなのに』
校則違反であることは承知していても、一度知ってしまった楽しみを止めるのは難しい。
『「すっぴんの方がいい」なんて、そのへん価値観古いなあ……でも、十六歳も違うんだもんね、当たり前か……』
もう一度、彼の年齢を計算してみる。
何度数えても、自分がいくつ年をとっても、その差は決して縮まらない。
自分の倍の年齢を、彼は生きているのだ。
『……やっぱ、子供扱いされてるよね……』
深いため息をつく。
『でも、今朝みたいなこと言われたりすると、期待しちゃう……』
彼の目に自分がどう映っているのか、良くも悪くも想像して、くるみは胸の奥になかなか溶けない甘ったるい飴玉が石のように詰まったような心持になった。
「くるみちゃん、お弁当?」
古典の教科書を片付けた祐華が、振り向いて声をかけてきた。
くるみは慌てて心に浮かんでいたもやもやを隅に追いやる。
「あ、うん。祐華ちゃんは学食とか行くの?」
「ううん、私もお弁当よ。飲み物だけ自販機で買おうかなって」
そう言いながら、祐華は財布を手に取る。
「あ、わたしもそうする」
くるみもカバンから財布を取り出して立ち上がる。
二人は揃って廊下に出た。
三組の前を通りがかった時に、くるみは何気なく中をのぞいた。
『ミチルちゃん、他の子とお昼してるかな……って、あれ?』
窓際の席に、見覚えのあるツインテールの少女はひとりで座っている。
「祐華ちゃん、待って」
「?……あ、ミチルちゃん……」
祐華にもミチルの姿が見えたようだった。
「声かけよっか」
「そうね」
顔を見合わせ、二人は微笑んだ。
くるみは一瞬ためらったが、
「ミチルちゃん!」
迷いを振り切って、ミチルに向かって呼びかける。
はたして、彼女は名前を呼ばれたことに驚いて振り向くと、次の瞬間には嬉しさと安心の入り混じった笑顔を浮かべた。
「お昼、一緒に食べよ!」
自分の声に教室の中がざわつくのを、くるみはもう気にしなかった。
「こういう時、マンガとかアニメだと、屋上が開いてたりするけどさあ、現実はそんなことないねえ」
「そうそう、そこでいつも、主人公が一人でご飯食べてて、ある日突然やってきた異世界の住人と……とか、そんなことないわよね」
「そもそも屋上の鍵は職員室でちゃんと管理されてますもんね、絶対ないです」
「……なのに、それを期待して来たわたしたちって、……完全に毒されてるよね……」
「うん」
「はい」
東棟の四階の端にある、屋上に続く非常階段に腰掛けて、三人は弁当を広げていた。
「ていうか、中庭ライブの曲選び、難しくて決められなかったっけ……」
「女性ボーカルで、私たちでも演奏できる譜面って、なかなかないわよね」
「……あの、ごめんなさい、わたし、まだお役に立てなくて……」
二人の言葉に、ミチルが肩を落とした。
「いいのよ、ミチルちゃんはこれからなんだもの」
「そうそう。あ、ねえねえ、そう言えば、この間送ったMV、何か気になるのはあった?」
「あ、……スピッツ、いいなって思いました。音が優しくて」
「太陽先輩のおすすめね」
「はい。あとは動画サイトのおすすめで、ボーカロイドの曲を初めて聴いて……」
おお、と声を同時にあげ、くるみと祐華は顔を見合わせる。
「驚きました、機械音声であんなに歌がきちんと作れるなんて」
「そうだよ、すごいんだよ、ボカロって。ちなみに何聴いたの?」
「『転生林檎』と『マトリョシカ』です」
「うああ、いいよね!」
「わかる!考察するの楽しい!ねえ他には?」
「ええと……」
三人は弁当箱の中身をつつきながら、話に花を咲かせた。
『……なんか、こういうのいいな』
くるみはしみじみと幸せに浸る。
無理矢理机を向かい合わせにさせられた、決して逃げだせない地獄のようだった給食の時間と違い、気の合う仲間と好きな場所で食べる昼食は、身体だけでなく心も満たしてくれる。
『学校って、こんなに楽しいところだったんだ』
つくづく、この環境に来るための努力の根源となった興津には、感謝の言葉しか浮かばない。
今日この後、授業と部活の両方で彼に会えると思うと、楽しみで仕方がなかった。
空になった弁当箱に蓋をしてランチクロスに包むと、くるみはペットボトルの緑茶を一口飲み、ポケットから色付きリップを出して唇に薄く乗せる。
ほんのりと鼻腔に、甘いベリーの香りが抜けていく。
『先生だってコロンつけてるもの、わたしがメイクしたってお互い様だよね』
鼻先で香った淡いシトラスの匂いを思い出して、くるみはくすくすと笑った。
予鈴が鳴るまで非常階段で話し込んだ後、くるみたちはそれぞれの教室に戻って授業を受ける体制になる。
五時限目はいよいよ興津の授業だ。
『よーし、超がんばろ』
先に授業を受けたミチルの話では、彼の授業は丁寧でわかりやすかったという。
『先生の声、いっぱい聞けるんだ……うふふ、幸せ』
とてもこれから勉強をするとは思えないような甘いときめきに、くるみはでれでれと頬を赤く染め、すっかり舞い上がっていた。
やがて彼が颯爽と入り口から入ってきて、教卓にノートパソコンと資料を置く。
「起立!」
日直の声に席を立つと、わずかに互いの目が合ったような気がした。
『うああ……一時間、天国だった……』
黒板に書かれた興津の綺麗な字が消されていくのを残念な気持ちで眺めながら、くるみはため息をついた。
こんなに社会の授業を楽しんだことがあっただろうか。
目を瞑って、スライドと板書の二刀流で教壇に立っていた彼の姿を思い返す。
授業中の興津は厳しさこそあれど、決して委縮してしまうほどの圧ではなかった。
内容がわかりやすいのはもちろんだが、何より部活の時とは違う音色の彼の声は脳に心地良く、時折重なる目線もたまらなく嬉しかった。
『幸せ……放課後また会えると思うともう、なんかこの後の授業どうでもよくなる……いや、だめだめ。先生と他の教科も頑張るって約束したんだから、まじめにやらないと』
それでも完全に頬は緩みっぱなしになる。
その緩みを周りに悟られないように、くるみは肘をついて頬に手を当て、まぶたの裏の彼の残像に酔いしれた。
「……くるみちゃん?くるみちゃんってば、ねえ、聞こえてる?」
「はへっ!?あ、う、うん、なに!?」
祐華から呼びかけられ、くるみははっと我に返る。
「次、音楽だよ。教室移動しないと」
「あ、ああ、そっか。ごめんごめん、ぼーっとしてたっけ……」
くるみは慌てて机の中から教科書を取り出し、立ち上がった。
「へええ、軽音楽部」
自己紹介で祐華が部活の名前を出した途端、音楽の教科担任は小ばかにしたような物言いをする。
彼女の拳が怒りに握られたのを、くるみは隣で見ていた。
『……この先生、吹奏楽部の顧問だよね……?』
歓迎会の時に壇上で見た顔だ。間違いない。
「軽い音楽ってくらいだから、さぞかし頭からっぽで楽しめる部活なんだろうね……あ、もういいや、座って」
教科担任はなおもその姿勢を崩さず、面倒臭そうに祐華に言い放った。
『あああああ!?なにその言い回し!!あったまくるなこの人!!!』
くるみは一気に頭に血が上り、身体が震えた。
理由はわからないが、この人は自分たち軽音楽部を蔑んでいるようだ。
その対象が自分だけならまだしも、どうも興津に対する侮蔑のニュアンスも少なからず含まれている気がする。
彼女は何よりもそれが許せなかった。
「次の人、どうぞ」
隣に座った祐華の握られた拳を二、三回撫でてから、くるみは立ち上がる。
「牧之原くるみです」
そう言った途端に、教科担任は吹き出した。
『はあ!?……この人、わたしの声聞いて笑った……!?』
ぶつり、とくるみの中で何か――たぶん堪忍袋の緒が切れた。
「人の声聞いて笑うなんて、随分失礼ですね。ていうか、わたしも軽音楽部ですが、何か問題ありますか?」
ざわ、とそこにいた生徒がどよめく。
隣から祐華の「くるみちゃん、落ち着いて」という声が聞こえたが、くるみはそれを無視して、目の前の不躾極まりない感性の持ち主をねめつけた。
「別に。……おたくも軽音楽部ね。覚えとくわ。もういいよ、次の人」
教科担任はしっしっ、という動作に近しい動きでひらひらと手を振ると、くるみに着席を促した。
『なんじゃこいつ―――――――――――!!!!』
着席してからも、今すぐにつかみかかりたいほどの怒りが腹の底から湧いてくる。
『軽音楽部の何が気に入らないの!?曲がりなりにも吹奏楽部の顧問でしょこの人!!最っ悪!!!性格悪っ!!!超感じ悪い!!!ばーかばーか!!!タンスの角に小指ぶつけろ!!!!出来れば毎日!!!!』
心の中でぶちぶちに切れまくり、大声で怒鳴る。
『……これは、わたしと祐華ちゃん、目を付けられたかもしれない。嫌がらせされるかも』
大いにあり得る状況に危惧するが、今さら後には退けない。
『ごめん祐華ちゃん、思いっきり巻き込んじゃった。……後で謝ろう……ていうか、この先生と軽音楽部、何か因縁があるの?恨みを買うようなことがあったのかな……?』
こうなってしまったら、部活動の時間に先輩と興津に訊くしかない。
安穏と過ごすはずだったくるみの高校生活に、大きな嵐がやってくる予感がしていた。
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