第7話
田舎にありがちな広大かつ雑草だらけの庭に、瓦葺の昭和を思わせる和風建築の母屋と、今はもう使われていない木材加工用の機械がいくつか置かれた、トタン壁の倉庫が立っている。
どんな騒音を出そうと誰も文句を言わない環境の、その建物の中に、
「よいしょっと」
女性らしからぬ力でキーボードを小脇に抱え、大きなトートバッグとスタンドを手にした、花柄のワンピースを纏った人物が入ってきた。
「んー、まだ早かったかしん。ま、いいわ」
彼女はさくさくと自分の持ってきた楽器を組み立て、床に落ちていたケーブルタップから電源を取り、スイッチを入れる。
ピアノの音から、広がるようなストリングス、はじけるブラス、柔らかなフルート、といった具合に一通り音を確認すると、彼女は一旦電源を落とした。
「指慣らしは後にしましょ」
壁に立てかけられていたサビの目立つパイプ椅子を持ってきて座り、トートバッグから赤いマイボトルを出してお茶を飲む。
「いい天気。日に焼けないんだったら日向ぼっこしたいわね」
ひとくくりに束ねた明るい茶色の長い髪を揺らして、彼女は楽しそうに独り言ちた。
「ああ、
ギターケースを背負い、スピーカーアンプとスタンドを持った安倍勇志が、大きく開け放たれたままの入り口から入ってきた。
「安倍くん、おはよう。また新入生の受け持ちなんですって?大変ね」
キーボードの前でくつろぐ女性――朝比奈
「いや、今年は去年に比べたら、ぜんぜんおとなしいですよ。まあ、うちのクラスには歓迎会で堂々と居眠りしてた、肝っ玉の太い子がいましたけどね」
「いいじゃない、倒れられるよりは眠ってくれてる方が助かるわ」
彼女はもう一度電源を入れると、モーツァルトのピアノソナタを奏で始める。
「そう言えば今年はいませんでしたね、途中退場」
「おかげで雑務が捗っちゃった。みんな元気っていいことよ、win‐winだわ」
よどみなくソナタを弾き続ける朝比奈にうなずくと、安倍はスピーカーアンプを床に置き、自身もパイプ椅子を取りに壁際に足を運んだ。
安倍がチューニングを終えたとき、
「おはようございます」
今度は入り口に、バスドラムを抱え、髭面に髪を後ろで束ねた大柄な男性が現れた。
「
「ああ、私、手伝いますね」
安倍が慌てて椅子から立ち上がり、赤いストラトキャスターをスタンドに立てかける。
「私も」
朝比奈も椅子から立ち上がる。
「ありがとう、悪いっけね、毎回」
「いえいえ」
三人は和やかに会話しながら、庭先に停まったワゴンから次々にドラムセットを運び出す。
「大井君と興津君はまだ来てないのか」
ロータムを持って、藁科
「はい。大井君はまだ寝てるんじゃないかしら」
隣の母屋を見ながら朝比奈が笑う。
「起こして来ましょうか」
ハイハットをバスドラムの側に置いてから、安倍は母屋の玄関に向かった。
押しっぱなしになったまま音のならないインターフォンには触らず、彼はいつも鍵がかかっていない、田舎ならではの不用心さ丸出しな玄関の引き戸を開ける。
「大井くーん、起きてますかー」
正面にある二階への階段に呼びかけると、上でがたん、と大きな音がした。
「今起きたな」
安倍はくくっ、と笑うと、
「準備できたら頼みますよー」
そう言い残して玄関から出る。
その時ちょうど、庭に一台の黒いSUVが乗り入れてきた。
「おはようございます、間に合いましたか?」
運転席のドアを開けて現れた興津に、
「大丈夫です、大井君は今しがた起きました」
安倍は半分笑いながら事実を述べた。
「あはは、あいつ、朝弱いからなあ……」
「もうちょっとかかりますかね」
二人は母屋の二階をちらと見てから、小さく笑って二手に分かれた。
興津は後部座席からスピーカーアンプを下ろし、スタンドを上に乗せてドアを閉め、助手席に載せていたベースの入ったギグバッグのシートベルトを外して背負ってから、鍵をかけた。
『……眠い……』
大きなあくびをすると、黒いデニムのポケットからミントタブレットのケースを取り出して、ひと粒口に放り込む。
昨日は帰宅してから持ち帰りの仕事をこなした後、眠れない徒然に動画を見ながら練習をしていたのだが、一息つくたびに、くるみのこちらを見る熱っぽい黒の瞳や、耳に残る甘い歌声が脳裏に蘇って、酷い後悔に襲われ続けた。
『まだ再会して二日だぞ、なのに……』
半年前に会った時も可愛らしいと思ってはいたが、その時よりも少しだけ大人っぽくなり、加えてあのときは何も手応えの無かった会話が、今はたしかに自分の心をとらえ、温かい手触りに満ちていることに、彼は強く惹かれていた。
『……僕に会いたくて、話がしたくて、自分の人生をかけてまで来てくれたのか』
昨日のくるみの言葉を思い出す。
『あの子は、あの日からずっと、僕のことを好きでいてくれたんだ……』
ずき、と幸せな痛みが胸を刺す。
『ここまで想ってもらえたのは、生まれて初めてだ』
孤独なまま終わると思っていた自分の人生に、ひとひらの淡い花びらが舞い降りたような心持になる。
『天使みたいだな、まるで』
地獄とまではいかないが、どこまでも続く暗黒の中から彼女の手が自分を掴み、光の差すほうへと救い出してくれたのは確かだった。
彼女が自分に向けてくれる純粋で柔らかい気持ちに、思わず素直に応えてしまいそうになる。
理性では突き放すべきだとわかっていても、感情は言うことをきいてくれない。
今はもう、まっすぐに自分を慕ってくれるくるみが愛おしくてたまらない。
彼女を想うたびに心に浮かぶ、まだ馴染んでいない制服の背中を、そっと抱きしめたくなる。
もちろん、たとえ彼女に望まれたとて、そうするつもりは毛頭ないのだけれど。
『……駄目だ、ぼーっとするんじゃない。早くしないと
今頃大慌てで身支度をしているであろう幼馴染のことを思い出し、不埒な考えを追い払ってから、彼はスタンドを脇に抱えてからアンプを持ち上げた。
「皆さん、おはようございます」
「興津君、おはよう」
朝比奈が朗らかに返事をする。
「おはよう……目の下のクマがすごいな、また徹夜で練習でもしたのか?」
藁科が彼の顔色の悪さを見咎めた。
「あ、いえ、三時間くらいは寝ました」
「いやいや、もっと寝てください、修学旅行じゃないんですから」
安倍の言葉に引率の過酷さが蘇り、その場にいた全員が苦笑する。
「あまり根詰め過ぎるなよ。ホント、音楽のこんになると、君は見境がないからな」
「すみません、気をつけます」
藁科に釘を刺されて心の中で肩を竦めながら、興津はアンプをコンクリートの床に置き、スタンドを開いた。
「今日、セトリのスコア全員分用意してきたんで、面子が揃ったらお渡ししますね」
「ありがとう興津君、後でお金渡すから」
「いいですよ、大した金額じゃないですし」
「ダメダメ、こういうのはきちんとしとかないと」
朝比奈が笑って財布をトートバッグから取り出す。
「後でがだめなら今渡すわ。いくら?」
「……わかりました、練習終わったら計算しますんで」
興津は観念して笑うと、ダークブルーのジャズベースをバッグから取り出した。
興津がチューニングを終えた頃、
「おはようございます!すみません遅くなって!」
ジャージ姿にギグバッグを引っ掛け、スピーカーアンプを持った、無精ひげにぼさぼさ頭の青年――大井将之が、サンダル履きで現れた。
「うわ、将之、お前その恰好、もうちょっと何とかしろよ……せめて髭剃って靴を履け」
綺麗な顔をしているのにもったいない、と心の中で思いながら興津は声をかける。
「別に今日はエフェクター使わないからサンダルでいい。てか、大ちゃんがきちんとしすぎなんだって、休みだってのにワイシャツなんか着てさ」
「うるさいな、服装考えるの面倒なんだよ。お前だってそれ、上は仕事着だろう」
「これは自宅用」
「そんなの区別がつくか」
決して生徒の前では見せない、気心の知れた友達同士の会話が倉庫の中に響いた。
この倉庫は、もともと大井の父が経営していた工務店の作業場だった。
しかし彼の父親が三年前に急逝し、工務店は解散することになる。
幼い頃から剣道に明け暮れ、実家を継がずに体育教師として聖漣高校で働いていた大井は、長男というなりゆきだけで引き継いでしまったこの倉庫を持て余していた。
最初は潰して跡地を賃貸住宅にすることも考えたが、幼い頃からの思い出もそれなりにあるこの建物を簡単に無くしてしまうことは何となく惜しくて、雨漏りの修繕以外に特に何をするでもなく、父が倒れた当時のまま残していた。
そんな折、幼馴染の興津が、同じ学校の教師として聖漣高校にやってきた。
物心ついたころから、一つ年上の彼と兄弟のように関わってきた大井には、彼の育った環境が翳りに満ちていることをよくわかっていた。
興津大地が家族を失ったのは、彼が小学三年生の夏だった。
家族で映画館に行った帰り、彼の父の車は、反対車線から突っ込んできた、携帯電話のゲームでながら運転をしていたトラックに正面衝突され、両親と彼の姉が即死した。
右足の大腿骨を折る重傷を負いながらも生き残った彼は、その傷も癒えないうちにマスコミに追いかけられ、退院後のリハビリもままならない生活の間に、賠償金目当ての親戚中をたらいまわしにされた挙句、彼をいちばん案じていた父方の祖父母に引き取られた。
ただ一人奇跡的に助かった興津が再び喋れるようになるまで、数か月の時間が必要になった。
幸せだった日常が一瞬で奪われた辛さと、その傷も癒えないうちに周りの大人から弄ばれる不幸は、とても自分には推し量ることなどできない、と、大井は子供心に感じていた。
冬の初めに、やっとひとことだけあいさつを返してくれた時、彼は嬉しくて泣いてしまった。
そこから一年ほど経って身辺が落ち着いた興津は、再び大井の家へ遊びに来るようになり、ある日たまたま、居間に置いてあったウッドベースに興味を示した。
大井の父が趣味で始めたジャズバンドで演奏していたものだったが、それを内緒で爪弾いたときに、興津の表情が今までになく輝いたのを、大井は今でもよく覚えている。
だから、中学校で彼が吹奏楽部に入り、コントラバスを弾き始めたのも合点がいった。
大井は父に反抗してエレキギターを弾き始めたが、そんな息子のことはさておいて、興津が自分と同じ楽器を弾くことを、父が自分の子供のことのように喜んでいた記憶がある。
事故に遭う前まで、音大の出だったという母からピアノを習っていたおかげもあるのだろう、彼はめきめきと頭角をあらわし、高校に進学してからは、そこの吹奏楽部で一年生ながらパートリーダーを務めるほどの腕前になっていた。
その高校一年の春の終わり、興津はエレキベースを買ってもらっていた。
聞けば、学校に気になる女の子が現れて、しかも高校生だてらにポール・マッカートニーが好きだという少し変わった子らしく、それなら左利きの自分がベースを弾いたら少しは仲良くなれないか、と考えてのことだったようだ。
どうもその子にはすぐに振られてしまったようだが、当初の目的はどこへやら、彼はその後も勉強や身体のことが心配になるほど、吹奏楽と並行してバンド活動にのめり込んだ。
幼い頃に失ったものを埋めるように、興津は全身で音楽を貪欲に飲み込んでいった。
郵便局のアルバイトの給料と貯金で中古のジャズマスターを手に入れ、ギターまで弾き始めた興津に、大井も強烈なライバル心が燃え上がり、剣道と並行してギターの腕を磨いた。
互いの大学受験が終わったら一緒にバンドを組もう、そう約束をした。
そして興津が無事、隣町の国立大学に合格した矢先に、彼の祖母が亡くなった。
つつがなく葬儀を終えたところまではどうにかなったが、問題はその後だった。
祖母を失くしたことで箍が外れたのか、彼の祖父は認知症を発症してしまったのだ。
興津の大学生活は、勉強と祖父の介護とですべて埋まった。
平日は毎朝デイサービスに祖父を送り出し、その帰りに合わせて帰宅して、課題を合間合間にこなしながら世話をする。
休日はヘルパーと訪問看護を呼んで、朝から晩までアルバイトをして生活費を稼ぐ。
友人も作らず、祖父の介護に時間を取られ、目に見えてやつれていく興津を心配した母は、東京の体育大生になった大井が休みで地元に戻るたびに、食べ物を持たせて彼を訪ねさせた。
自分たちの気遣いに、「ありがとう」と微笑んだ瞳の優しさと昏さが、いつも胸に痛かった。
もしもこの世に神というものがいるのなら、どうしてこんなに一人の人間に不幸を狙い撃ちするのか――興津がぼろぼろになっていく姿を見て、あまりの理不尽さに、大井は腸が煮えくり返るような思いだった。
そして、彼がそれでも音楽を手放さず、時間を見つけてはベースやギター、そして母の形見のピアノを弾き続けていることに、一種の畏怖すら感じた。
やがて、興津の祖父の症状は進み、自宅での介護が出来なくなった。
彼は凄まじい丹力で高校の教員免許を取り、採用試験に合格したことを報告しに来たそのすぐ後、祖父と一緒に住んでいた古い家を潰して、持っていた土地を全て引き払い、誰にも何も言わずにこの街から去った。
そこから先は、どうなったかわからなかった。
携帯電話の番号にかけると、知らない人が出て、メールも届かなかった。
ただ一通、自治会の脱退届と短い侘びの手紙だけが残され、彼はまるで初めからこの街に存在しなかったかのように、跡形もなく消えた。
せめてどこかで再び会えるように、と願いつつ自分も教員になってはみたが、長男であることを理由に地元を離れることをきつく止められ、結局は今の職場に就職するしかなかったことに歯噛みしつつ、不動産屋の看板だけがぽつんと立つ雑草だらけの更地になった家の前を通るたびに、大井は彼の幸福を願った。
そんな興津が一昨年の秋、唐突にこの街に戻ってきたうえ、奇跡か偶然か同じ学校に就職したのだ。
それが何を意味するのか、言葉にするのはあまりにも不謹慎ではあったが、ただ一つ確実に言えるのは、彼にはたっぷりと時間が出来たということだった。
そしてその時間は、彼の心を蝕むだろうことも想像がついた。
悲しみと孤独が彼を支配してしまう前に、どうにかそれを紛らわせようと、再会したその日に大井は突き動かされるように、彼に話を持ち掛けた。
「約束通り、一緒にバンドをやらないか」と。
練習場所は言うまでもなく確保できた。
あとは教員仲間に片端から声をかけ、同志を募った。
中学時代から吹奏楽を続け、いまも市民楽団で打楽器を弾いている教務の藁科と、離婚を機にギターを始めたという数学担当の安倍、ピアニスト志望だったが、指の怪我でその夢を諦めて養護教諭として働いていた朝比奈。
興津の身上についての事柄は伏せたが、大井の提案に彼らは快く賛同してくれた。
同時に興津は自身がベーシストであるということが学校に知れて、ならばと軽音楽部の顧問を任されることになり、大井の思惑通りに、仕事でもプライベートでも音楽漬けの日々になったのだった。
「いくら休みだからって、お前さ……もうちょっと、こう、何とかしろよ」
髪を手櫛で雑に整えてから、真新しいモノトーンのテレキャスターのチューニングを始める大井を見て、興津が嘆く。
「別に学校じゃないんだ、好きな格好させろ」
その学校と大差ない格好の大井は、打ちっぱなしのコンクリートの床にそう吐き捨てた。
「いや、そのジャージ、昨日も着てただろ。覚えがあるぞ」
「同じの三着持ってんだよ、悪いか」
「ほんと、お前は子供の頃からジャージしか着ないな……僕のこん言えないだろ」
自分以上にものぐさな幼馴染に興津が呆れると、
「二人とも、もうちょっとおしゃれしたらいいのに。楽しいわよ?」
朝比奈がワンピースをつまみ、首元からかけたビーズの三連ネックレスを手にして笑う。
「まあ、服にかけるお金があったら、お二人は機材に使っちゃうでしょうね」
安倍が興津の新しいジャズベースと、大井のぴかぴかのテレキャスターを見て微笑む。
「ははは、楽器に金がかけられるのなんて独身のうちだけだぞ、家族持ちになるとそうもいかんでね。機材貧乏なんてぜいたくな悩みだ」
タムの位置を調整しながら藁科が苦笑する。
「いやいや、私は他に趣味がないだけで……あ、しまった。スコア、車の中だっけ。ちょっと取ってきますね」
興津はスタンドにベースを置いて、駆け足で倉庫を出ていく。
その背中を横目に見て、
『大ちゃん、自分で車に乗れるところまで、元気になったんだよな。……本当によかった』
遠足や修学旅行が近づくたびにひどく落ち込んでいた彼の姿を思い出し、大井は息をついた。
「今年も演奏順は、軽音楽部が先ですか」
戻ってきた興津に渡された楽譜の確認をしながら、安倍が訊く。
「多分そうなると思います」
「去年の牧之原くん、ベースの弾き方すさまじかったわね」
朝比奈が思い出し笑いをしながら、譜面台に楽譜を置く。
「ああ……あれはあの子なりのフリーの真似です。おかげでボーカルが悲惨でしたけど」
つられて笑いながら、興津はストラップを体に掛ける。そして、
「あの子の妹、今年の新入生にいるんでしたっけ」
大井の言葉に思わず、ぎくりと身を竦ませてしまった。
「ああ、うちのクラスですよ。さっき朝比奈さんには言いましたけど、昨日の歓迎会で居眠りしてた子です。そう言えば、お兄さんと同じで、軽音楽部に入るって言ってましたね。あの子、来ましたか、興津さん」
「え、ええ」
顔が赤くなりそうな気配を、冷や汗が押さえ込んでくれていることに彼は安堵した。
「何の楽器弾くのかしら?やっぱりお兄さんと一緒でベース?」
「いえ……あの子はボーカルをメインに、キーボードをやってもらうことになりまして……」
「なるほど。……あの子が自己紹介を始めたとき、少し声に特徴があるからか、教室がざわつきましたね。ある意味向いてるんでしょうか」
昨日のくるみの憂いた横顔が胸に蘇って、興津は苦しくなった。
『教室にも、あの子の居場所が出来ればいいのに』
そこまで手助けしてやれないのが、歯がゆくてもどかしい。
「……向いてると思いますよ。昨日試しに歌ってもらいましたが、とても魅力的でした」
「ほう、期待できそうな感じかや?」
藁科がからかうような口調で言う。
「ええ、まあ……」
歓迎会の生暖かい空気を思い出して、興津は苦笑いした。
「六月の『中庭ライブ』で初お披露目ですか?」
「そうですね」
「ふふ、今から楽しみだわ」
ちらほらとそれぞれが音を出しながら、会話が弾む。
「入学したてなんだから無理させるなよ」
「大丈夫だよ、いざとなったらインストに曲を変えて、藤枝になんか弾かせるで」
悪癖に釘を刺す大井に、昨日のくるみの様子ならばそんなことはないという確信を持って、興津は応えた。
「お待たせです、チューニング終わりました」
「じゃあ、そろそろ始めますか」
「まずは一曲目……これ、この人数でやると寂しくなりそうね」
「観客あってこそ、って歌の代表だっけね」
「ソロは安倍先生のギターの方がいいでしょう、色も似てますし」
「ふむ、初見でどこまで弾けますかね。ピックも十円玉の方がいいでしょうか」
「ははは、そんなことしたら弦が傷むぞ。……とりあえず合わせよう。興津君、いけるか?」
「いつでもどうぞ」
藁科がスティックでリズムを取った後、バスドラムのペダルを力強く踏み込む。
その音に合わせて、全員がハンドクラップでリズムを取り、やがて興津の伸びやかな歌声が倉庫の中に響いた。
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