第6話

チャイムが鳴り、生徒の下校時刻三十分前を告げる。

反省会などと紘輝が言っていたものの、「すでに十分反省しているから」と興津が不問に処したおかげで祐華が危惧していた空気になることもなく、最後にもう一度全員で『夜に駆ける』を演奏してから、彼らはただただ楽しい思いを胸に楽器を片付け、帰り支度を始めていた。

あらかた事が済んだとき、紘輝が声を上げる。

「はーいみんなー、スマホ持って集まってー。チャットのグループ作るからー」

「くるみちゃん、スマホ持ってる?」

「あ、はい」

太陽に言われて、くるみは買ってもらったばかりのスマートフォンをカバンから取り出す。


グループに参加すると、さっそくミチルから先ほどの動画が送られてきた。

『この動画はわたしのお守り。鬼リピ決定』

サムネイルだけで思わず知らず顔がほころんでしまう。

ダウンロードのボタンをタップして、くるみは高校生活最初の甘い思い出にハートを付ける。

きっと今夜はこれを見ながら眠ってしまうだろう。夢の中でも興津に逢えることを願いながら、くるみはスマートフォンをしまった。

『「夢で逢えたら」なんていう歌もあったなあ』

浮かれついでに母のiPodに入っていたその歌を、軽くハミングする。


「明日と明後日は休みだ。みんなしっかり休んで、月曜からの授業に備えなさい。その日の放課後から本格的な活動を始めよう」

興津の声に、はい、と全員が返事をする。

『次に会うのは月曜日かあ』

彼に会えない二日間、何をして過ごそうか。

『とりあえず、ピアノを弾いて、動画サイトでまたいろいろ検索して……ヒトカラでいろいろ歌ってみるのもいいかも』

寂しさを埋めるために出来ることを探しながら、くるみはふっと息をついた。


その時、興津がふと思い出したように続けた。

「……ああ、そうそう。それから、今年の『中庭ライブ』でやりたい曲を、各自で二曲くらい考えてきてくれ。さっき歌ってもらったから、みんな納得してくれたと思うけど、牧之原をボーカルにしたいもんで、出来ればガールズバンドの曲を選んでくれるとありがたい」

「中庭ライブ?」

唐突な単語に、くるみとミチルが目を白黒させると、紘輝が笑いながら答える。

「ああ、そっか、学校説明会じゃ言わないもんで、二人は知らないのか。毎年、文化部が総出で出演する屋外ミニライブが六月の頭にあるんだよ。いろんな大会に出る前のトレーニングとしてね。まあ、プチ文化祭みたいなものかな」

「え、ちょっと待ってください、入学して二か月目なのにいきなり人前で歌うんですか!?」

思いがけない話にくるみはうろたえた。

「中学だって合唱発表会あっただろ、一緒一緒。気楽にやろう」

そう言って、太陽がにこにこと笑いながらギグバッグを背負う。

「いや、あれは人数がそもそも違いますし、集団だから出来たわけであって……えっと……」

降って湧いたような話に若干涙目になりつつ、くるみが祐華とミチルを振り返ると、

「人前で演奏してこそ軽音楽部よね。頑張らなくっちゃ……!」

「ええ。コンクールみたいに点数を付けられることもないでしょうし、そういう意味では気が楽ですね」

あっさり受け入れて目を輝かせている。

『うああ、なんで二人ともそんな素直に……!』

くるみは困り果てて興津を見遣るが、彼は彼女の視線を無視してみんなに呼びかける。

「前期の中間試験の前にあるイベントだから、そこまで日曜以外の休みはないぞ。明日明後日が、最後の土曜休みだと思っておきなさい」

「いや、それはむしろありが……いえいえ、あの、……先生、どうしても、ですか……?」

うっかり洩れそうになった本音を誤魔化しつつ、興津にだめ押しで質問してみるが、

「大丈夫、牧之原ならきっとできるから」

そう言われてにこりと微笑み返され、くるみはとうとう退路を断たれてしまった。

『あああ、そもそも軽音楽部ってそういう部活なの、先生のことで頭がいっぱいですっかり抜けてたよ……この教室の中だけでわちゃわちゃして、文化祭の準備やってれば済むと思ってたけど、見通しが甘かった……』

しかし、今さら辞めますというわけにもいかない。

「……が、がんばります……」

くるみは軽音楽部のそもそもの趣旨を理解していなかった自分を呪いつつ、興津に返事をした。


全員が部室を出ると、興津が扉に施錠して、部員たちは三々五々廊下を歩きだす。

「じゃ俺、この後、予備校だから先帰るっす。お疲れさまでーす」

言うが早いか、隆玄はさっさと廊下を走り去り、階段を下りていってしまう。

「……あいつも大変だな、家が病院だし、親から言われて、東大の理Ⅲに現役でいかなきゃいけないとか言ってるもんでさ。ほんと、この部は超人しかいねーよ」

紘輝がぽつりとぼやく。

「何言ってるんですか、先輩。先輩だって実家継ぐんでしょ?すごいじゃないですか、和菓子職人なんて。うちのおじいちゃんとおばあちゃん、先輩んちの和菓子大好きですよ」

「それとこれとは話が別だ。俺、しんどいよ、毎日煎餅焼いたり、寒天の流し込みさせられたり、親父と一緒に練切作らされんの。向いてないって思うんだけどなあ……」

後ろを歩く太陽からの言葉に、紘輝は頭を抱えた。

「でもわたし、お兄ちゃんの作る練切、綺麗だと思うわ。センスあるわよ」

「そうかー?途中で何作ってるかわかんなくなることの方が多いぞ?」

「そのよくわからないのがいいんじゃない」

「お前、褒めてねーな?ったく、最近あんこの炊き方、習い始めたばっかのくせして」

兄に軽く頭を小突かれ、祐華はくすくすと笑う。

その後ろを歩きながら、

「こんなにたくさん……土日で消化できるでしょうか……」

グループチャットで送られてきたおすすめ動画やアーティスト名を眺めながら、ミチルがわずかに戦慄する。

「焦らずにひとつずつでいいよ、一気に見ると絶対、消化不良起こすから」

「……はい、お気遣いありがとうございます、先輩。ゆっくり観てみます」

歩くペースを落として隣にやってきた太陽の優しい言葉に、ミチルは品の良い微笑みを返した。


『うああ、どうしよう……さっきはああ言ったものの、なんかもう今からどきどきする……いきなりこんな大役が来るなんて思ってなかったよ……』

和気あいあいと話す部員たちから少し離れたところを、興津が追い付いてくれるのを期待して、くるみはとぼとぼと足を運ぶ。

『先生に、ちょっとだけ甘えたいな……』

果たしてその思惑は当たり、

「牧之原」

背中からやわらかな低い声で呼びかけられ、くるみはそちらを振り向いた。


「さっき、随分古い歌を歌ってたね」

『夢で逢えたら』のハミングを聴いていたのだろう、興津は少し驚いているようだった。

「あ……あの、お母さんの形見のiPodに入ってたんです」

「……形見か……」

彼の瞳がほんのりとい愁いを帯びた。何か思うところがあるのだろう。

しかし、会話をここで止めてしまう気にもなれず、くるみは静かに話を続ける。

「はい。いつもはお父さんが使ってるけど、ときどき貸してもらって聴くんです」

「そうか。……他には、どんな曲が入ってるのかな?ああ、嫌だったら答えなくていいよ」

「ぜんぜん嫌じゃないですよ。……そうですね、ロックも演歌も入ってるし、クラシックやシャンソンもあるし、昔のボカロもあります。アニソンもいっぱい入ってたなあ。あとジャズとか、オールディーズとか、ゲーム音楽やソウルやラップも……なんか闇鍋みたいです」

くるみが笑ったのにつられて、興津も笑う。

「随分音楽の趣味の幅が広かったんだね」

「先生と一緒です。いいと思ったものは、何でも聴く人だったんだと思います」

彼女の言葉に、彼は少し照れたような笑みを返してくれた。

「でも、『夢で逢えたら』はオリジナルの人と、別の人たちが歌ってるのが二つ入ってて、さすがに笑っちゃいました。どんだけ好きだったのって」

再び二人の間に和やかな笑いが起こる。

「お母さん、お父さんとすごく仲良かったから、夢の中でも一緒にいたかったのかな……」

「……」

「あ、……なんかすみません、湿っぽくなっちゃった」

「いいよ、気にしなくて」

二人はそれからしばらく、黙って廊下を歩いた。


「……あの、先生」

彼の優しさゆえの沈黙が胸に痛くて、くるみは口を開く。

「うん?」

「さっき、ミチルちゃんがピアノを弾いてくれた時、お母さんのことを思い出したんです。……お母さんが死んじゃってから、わたし、ピアノやめてたんですけど、もしも今もお母さんが生きてたら、ミチルちゃんみたいに弾けたのかな、って……」

彼は黙って、話に耳を傾けてくれている。

くるみは心の赴くままに言葉を続けた。

「でも、そしたらわたしはきっと、ここに来てなかったと思うんです。……お兄ちゃんから聞いてるかもですけど、うちの家族って、ちょっと変わってるでしょう?だからちっちゃい頃から、周りの人にいろいろ言われたりされたりして、なんとなく肩身が狭くて。……部活動も、中学までは学校に誰もわたしの味方がいなくて、ちょっとしんどかったんです。……でも、文化祭で先生の歌を聴いたとき、すごくどきどきして、あったかくて優しい気持ちになって……ここならきっと、大丈夫って思えたんです。先生と一緒にいたら、もっと楽な気持ちでいられるんじゃないかなって。それで、勉強も頑張ったけど、軽音楽部にも入りたかったから、ピアノもまた弾けるようになろうと思って、昔の教則本おさらいして……だから今、こうしていられるの、なんだか夢みたいです。……お母さんがいないのは、やっぱりどうしても寂しいけど、先生がいれば、大丈夫……」

そう言ってくるみは一歩だけ、隣を歩く彼との距離を詰める。

「今日、わたし、軽音楽部に入ってよかったって思いました。誰もわたしのことを指差して笑わないし、ひそひそ話もしない。……あんなにたくさん褒めてもらえたのなんて、初めてです。恥ずかしかったけど、すごく嬉しかった……」

「……そうか」

ぽつりと彼は応える。

「わたし、先生に出逢えてよかった。先生はわたしの人生を変えてくれた恩人です」

その言葉にまた照れたのか、彼はくすりと笑った。

「ずいぶん大袈裟だな」

「大袈裟じゃないですよ。本当にそう思ってます。……あの日からずっと、先生はわたしの中で、いちばん大切な人、です」

つい本音が漏れてしまって、くるみは真っ赤になりつつも、彼を上目遣いに見上げた。


興津は足を止めて、優しい眼差しで見つめ返してくれる。

『……先生……』

暗い茶色の瞳に、吸い込まれそうな気持ちになる。

きれいに通った鼻筋に、年不相応な口髭に、その下の唇に、指を触れてみたくなる。

初めて逢った時から日毎夜毎に思い返しては消えていた記憶の輪郭が、くっきりと形を取る。

『……今すぐ、魔法で大人になれたらいいのに』

抱き着いて甘えたい気持ちと、それができないことへの寂しさで、心がはち切れそうになる。

自分の想いが彼を困らせることはわかっていても、彼女にそれを止める術はなかった。


「……ありがとう。君に良い影響を与えられたのなら、教師冥利に尽きるよ」

敢えて核心に触れるのを避けながらも、興津ははにかんだ少年のような笑顔を浮かべる。

自分の言葉がさり気なく受け取ってもらえたことに、くるみも満足して微笑んだ。


「ところで、……中庭ライブ、いけそうか?」

「え、……」

彼は急に真面目な顔をする。

くるみが人前で歌うことにひどく戸惑っていることを気にしているのだろう。

「本当に無理だったらボーカル抜きで、インストの曲をやってもええけどさ……」

「そんな……あの、……大丈夫です、たぶん……」

くるみは俯いて、指をもじもじと動かした。

「……自信がない?それとも、怖いかな?」

低く優しい声が、耳を撫でていく。

「……どっちもです。だから、今から緊張しちゃって……」

思い切って本音を吐き出すと、ふっと胸の奥が軽くなったような気がする。

「正直だな、君は」

興津は少しだけ何かを迷った後、ジャケットの内ポケットに手を入れ、

「はい、正直者の君にご褒美だ。手を出して」

そう言って何かを取り出すと、くるみの左手に、銀色の紙につつまれた小さな飴をひと粒乗せた。

「のど飴。さっき歌って、声が少し枯れただろう。……他の皆には内緒だよ」

「……」

「ほら、今食べて。証拠隠滅」

「は、はい、……いただきます」

彼に急かされ、慌てて口の中に入れたそれは、甘酸っぱい蜂蜜とレモンの味がした。

それに肩の力を抜いたのを見て安心した様子で、彼は楽しそうに話し始めた。

「ビートルズ、知ってるかな?そのメンバーのジョン・レノンがあがり症で、緊張をほぐすために、ガムを噛みながら歌っていてね。私も緊張しやすい質だから、高校の時にそれを真似しようとしたけど、上手く歌えなくて……じゃあ、と思って、のど飴にしたんだよ」

「……」

「大事な会議やライブの前にはいつもその飴を舐める。そうするとスイッチが入って、『少しくらい失敗しても大丈夫だ』って思える。不思議なもんで、そう思ったほうがミスしにくくなるんだよ。……まあ、おまじないみたいなもんだね」

「……おまじない……」

「君にこれが効くかはわからないけど、よければやってごらん。不向きだと思ったら、自分なりの方法を何か見つけるといい」

「いえ、……あの、先生。この方法、いただいてもいいですか」

快くうなずいてくれた彼に、くるみはぺこりと頭を下げた。

「ありがとうございます」

「こちらこそ。……私が言うのも難だけど、くれぐれも、今日みたいな無理はしないようにね。辛くなったらすぐに言いなさい」

「はい」

きっと彼といれば何も辛くはない。

そんな気がして、くるみは彼の瞳を真っ直ぐに見てうなずいた。


「さあ、急ごうか。この後、私も会議なんだ」

彼はそう言って、自らも一つ飴を口に含むと、残りを胸ポケットに入れて歩き出す。

『先生も、お菓子食べるんだ。……なんか、かわいい』

口の中でゆっくりと溶けていくお揃いの甘酸っぱさを、くるみは幸せな気持ちで味わう。

「……先生。わたし、社会の授業頑張りますね」

「ああ、頑張れ。でも他の教科もちゃんとやるんだぞ」

「はーい」

既にみんなが帰ってしまった廊下で他愛無い会話を交わしながら、指が触れそうで触れない距離を、二人は並んで歩いた。


慣れない市中を自転車で漕ぎ、途中のコンビニでさっきと同じのど飴を買ってから、街はずれの自宅にたどり着くと、くるみは制服から部屋着に着替えてベッドの上で動画を再生する。

「ふふふ」

もう誰の目も気にしないで、思いっきり頬を緩めて画面を見ていられる。

『カッコいいなあ……』

何度か巻き戻して、彼の姿がいちばん近くの正面を向いた瞬間で止め、スクリーンショットを撮り、画像を切り出して保存する。

『……誰も見てないよね』

念のため辺りを見回してから、そっと彼が映るスマートフォンに唇を押し当てる。

『……うああ、やだ、わたし何やってるんだろ……』

はっと我に返って赤面する。そこに、

「ねーちゃん、おやつない?」

「はへっ!?」

智がノックもせずに部屋のドアを開けて入ってきた。

「れ、冷蔵庫に昨日買ってきたクリームどら焼き、あるでしょ」

見られてはいないが行動が行動だけに後ろめたいものを感じながら、くるみは体を起こす。

「もう昼ごはんのデザートに食っちゃった」

「はあ!?あんたカロリー摂りすぎ!まさかわたしの分まで食べてないでしょうね?」

くるみは呆れながら、弟と一緒に部屋を出た。

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