第5話
「緊張する……」
背中にリュックサックのように背負えるセミハードケース――ギグバッグから、パステルピンクのプレシジョン・ベースを取り出しつつ、祐華がぽつりとつぶやいた。
「うああ、こんな色のベースもあるんだ……かわいいねえ」
くるみは祐華のベースに釘付けになった。
「こういう楽器、間近で見るの初めてです。素敵ですね」
ミチルが感嘆のため息をつく。
「や、やだ、あんまり見られると余計に緊張するから、二人ともやめて……」
祐華は真っ赤になって両手を振る。
「藤枝、先にチューニングしておきなさい」
「あ、はい!」
興津の声に、祐華はバッグから、ヘッドに挟んで使うクリップチューナーを取り出す。
「牧之原と菊川も、指をほぐしておくといいよ」
そう言われて、二人も慌てて手指を回し始める。そこに、
「お待たせっすー、持って来ましたー」
「久しぶりに持つと結構重いな、いいトレーニングになった感あるよ」
裸のキーボードとスタンドを手に、隆玄と太陽が戻ってきた。
「二人ともありがとう、じゃあこの辺にこう、八の字に向かい合わせでいこうか」
「ういっす」
二人は部室のちょうど真ん中あたりにキーボードを設置し始める。
「コード届くかな?」
「こっちはいけるよ、りゅーげんの方は?」
「おっけ、余裕余裕」
「コンセント、アンプの分あるか?」
「後ろから引っ張れるっしょ」
二人は楽しそうに、慣れた手つきで準備を進めていった。
「牧之原、喉の調子は大丈夫か?」
興津がくるみに声をかける。
「あ、はい。大丈夫です」
「発声練習もやっておけよ」
「はい……」
そう言われて、くるみは教室の中を見渡した。
黒板と教壇の前に、さながら小さなステージが出来上がっている。
一番手前に二台置かれたキーボードの片側にミチルが立って、ぽん、ぽんと軽く音を出しながら鍵盤の重さを確かめている。
窓際でピンクのベースを抱え、チューナーとにらめっこする祐華の奥で、青いギターのペグをいじる紘輝がいる。
さっき自分たちがセットしたドラムの椅子に座り、スティックを使って腕のストレッチをする隆玄の隣で、太陽がバッグからモノトーンのギターを取り出す。
みんなの足元にはアンプやキーボードから延びたコードが、コンセント目指してぐねぐねと絨毯の上に横たわっている。
その手前で、彼らを真ん中から見渡せる位置に座った興津が、やはり自分の真新しいベースを持ち出してチューニングしている。
『うああ、なんかわくわくする……!』
くるみはまるで小さな頃に戻ったように胸が弾んだ。しかし、
『……発声練習、みんなの方向いてやるのは恥ずかしいな』
不意に羞恥心に襲われ、彼女はこそこそと廊下側のいちばん隅まで移動して、ステージに背を向ける。
『でも、もう、大きな声出しても、誰にも変な目で見られないんだ……』
合唱部では発声練習だけでも先輩や同級生に指を差され、陰口を言われてばかりだった。
しかし今は、彼女たちはどこにもいないのだ。
『よーし、思いっきりいこう!』
身体の力を抜き、鼻から息を思い切り吸って、横隔膜を下げる。
そして、習ったとおりに声を出し始めた。
「あ……え?」
3フレーズ目を歌い始めたところで、背後が急に静かになった。
何事かと振り向くと、みんなが手を止めてこちらを見ている。
「……あ、う、うるさかったですか?すみません……」
身体を縮こまらせたくるみに、興津が首を横に振る。
「違う違う、……ちょっと、こっち向いて続けてくれないかな」
「……はい……」
頬が熱くなったが、彼の言うことはできる限り断りたくない。
くるみは先程と同じように息を吸って、続きを歌い始めた。
歌っている間、誰も自分の楽器を鳴らそうとはしなかった。
いちばん上の音階まで上がりきった時、さすがに居心地が悪くなって歌うのをやめる。
『……なんだろ、この空気……』
かつて感じた、まるで針のむしろのような空気とは全く違う、不思議な沈黙がそこにはあった。
と、手前に座っていた興津が拍手を始める。
それに呼応するように、他の皆もぱちぱちと拍手を始めた。
「……はい?」
訳の分からない展開に、くるみは面食らったまま動けなくなる。
「牧之原、いいよ、素晴らしい」
「へっ!?」
突然興津に褒められて、目の前がくらりと揺れる。
「くるみちゃん、すごい!あの、可愛い声だって思ってたけど、なんか歌うと違う……!」
祐華が興奮して目を輝かせている。
「……これは、マジで革命が起きるな」
紘輝はそう呟いて、くるみの顔を満足そうに眺める。
他の三人も、笑顔でうなずいている。
「……あ、えっと、あはは……なんか、どうも……おそれいります……」
くるみは早くこの場から逃げ出したい気持ちを抑え込みながら、尻すぼみに声を潜めつつ、笑ってごまかそうとした。ところが、
「牧之原」
優しい声の興津に手招きされてしまって、混乱した頭のまま、くるみは彼に吸い寄せられる。
「自分の歌声を、はっきり録音して聴いたこんはあるかな?」
「いえ……」
「じゃあ、この後録画して見せてあげよう。……合唱部で、ソロの経験は?」
「ありません」
「君の中学の顧問は見る目がないな、まったく」
興津は呆れたように笑う。
「牧之原、君の歌声は本当に素敵だよ。声の出し方も基礎がしっかりできているから、安定感があって完璧だ。合唱には不向きだったかもしれないけど、それはもう忘れていい。これからは自信を持って歌いなさい」
彼はそう言って、まっすぐな目でくるみを見つめた。
とくん、と心臓が甘い脈を打つ。
まるで興津に背中を押され、目の前が拡がったような感覚に体の中が痺れる。
悪目立ちしないように、それだけを必死に心掛けながら生きてきた自分に、やっと安心して空気が吸える場所が出来た気さえする。
浮かされたような心持で見つめ返すと、彼は微笑んでうなずいてくれる。
許されるなら彼に抱き着いてしまいたいくらいの幸福感に、くるみも頬を染めてうなずき返した。
「……よし、それじゃ、みんな準備が終わったら始めよう。伊東、出来るだけでいいから伴奏に参加してくれ」
「はーい」
「先生、俺たちも参加したほうがいいですか」
太陽がストラップを体に掛けながら聞く。
「悪いけど、ベースの時はちゃんと音が聴きたいから遠慮してくれ、それ以外はじゃんじゃんやってくれていい」
「わかりました」
「了解です」
「菊川は……とりあえず、自分の番以外は他の皆のやることを見ていようか。……そうだ、自分用のパソコンはあるかな?」
「はい、あります」
「じゃあ、後でいくつか、みんなでおすすめのバンドやアーティストを教えるから、君は今日から動画サイトで、PVやライブ映像を出来るだけたくさん見よう」
「はい」
ミチルはいたずらを企んでいる子供のような顔で、こくりとうなずいた。
「しかし、いまどきクラシック以外禁止だなんて、なかなか厳しいご家庭だね」
「……お祖父様が、そういう方だったので……お父様とお母様も管弦楽団にいますし、どうしても馴染みが薄いんです」
困ったように笑うミチルを見て、
『うわー、リアルでお父様お母様っていう子、初めて会ったっけ……!』
くるみは謎の感動を覚えていた。
チューニングを終えた祐華が、ステージの真ん中に立って礼をする。
「お願いします」
「こちらこそ。何を演奏するのかな?」
「……『夜に駆ける』を演ります」
「了解。伊東、8ビートで頼むよ」
「ういっす」
「牧之原も、弾けるなら伴奏で参加してくれるかな。アタマだけでもいいから」
興津が声をかける。
「あ……簡単でよければ、全部いけます。弾いたことあるもんで」
頭の中にバイエルの併用本の譜面を思い起こしながら、くるみは応えた。
「よし、じゃあ頼むよ」
「はい!」
くるみは廊下側のキーボードの前に立つ。
電源を入れて『ラ』の鍵盤を押すと、ピアノと同じ重さの手応えが感じられる。
『先生の前で初めて演奏するんだ……がんばろうっと』
目の前に座っている興津を見ると視線に気づいたのか、ふっと目線が合う。
励ますような微笑みを浮かべた彼に、くるみはうなずき返した。
興津はすぐに視線を祐華に戻す。
「藤枝、緊張しなくていいからな。楽しくやろう。ミスっても止まらないでラストまで突っ走れ!」
「はい!」
彼の言葉と瞳は、深い熱を帯びている。
『うああ、ヤバい、カッコいい……!』
斜め前から見えるその凛々しい顔に、くるみの胸はきゅんと甘く高鳴った。
「祐華ちゃん、くるみちゃん、いいー?いっくよー!」
隆玄がスティックでリズムをとる。
くるみはそれに合わせて鍵盤を叩き、メロディとコードを紡ぐ。
やがてそこに合わせてバスドラムとハイハットが重なり、二人の音の上に祐華のベースが、ずん、と乗った。
ボーカルの代わりにメロディを鍵盤で叩きながら、くるみは祐華のベースを聴いていた。
彼女はかなり緊張しているのか、Aメロで少々指がもたついてしまう。
その失敗が身体の動きにも表れ、後半はほぼ直立不動で手元を見ながら演奏していた。
文化祭やクリスマスの時に見た兄のような、弾むようなノリは全くない。
『祐華ちゃん、頑張って』
硬直したまま必死で音を追う祐華に、くるみは心の中で声援を送り続けた。
どうにか全部弾き終えたところで、
「ありがとう、お疲れ様、藤枝。伊東と牧之原も手伝ってくれてありがとう」
興津が拍手をすると、周りの皆も彼に倣って拍手をする。
「藤枝、人前で演奏するのは、今日が初めてかな?」
「……はい……」
「上出来上出来、素晴らしかったよ。ただ、ちょっと緊張しすぎかな。今すごく疲れてるだろう、身体中に力が入り過ぎだ」
「はい……」
「もっと気楽に、自分で思うよりも大袈裟なくらいリズムを取っていい。うちの先代のベーシスト……牧之原のお兄さんだけど、もしかして知ってるかな?」
「はい、……何回か、教えてもらったことがあります」
顔が浮かんだのだろう、祐華は頬を染めてうなずく。
「なら話は早い。彼のリズムのとり方を思い出してごらん。……いや、あんなふうに暴れろという意味じゃないけどね。うーん、例えが悪かったかな」
去年の文化祭での兄の荒ぶり方を思い出して、くるみも上級生と一緒に小さく笑い声を立てる。
「あそこまで行かなくてもいいから、もっと音楽自体にノって演奏できるといいね。無理に飛び跳ねる必要はないけど、まずは楽しもう。うまく弾こうなんて思わなくていいし、間違えないようになんて気を張る必要もない」
「はい」
「こんな難しい曲をほぼ完璧に弾けるんだから、君は技術的に充分実力はある。自信をもって演奏しなさい。プレッシャーをかけるわけじゃないけれど、この部のベーシストは君一人だ。一年生だからって遠慮はいらない、堂々と構えてくれ」
「……はい!」
あからさまに落ち込んでいた祐華が瞬く間に元気を取り戻したのを見て、くるみは胸をなでおろす。
『励まし方が上手いなあ、先生』
穏やかさの中、どこか鋭い熱を持った暗い茶色の瞳に、彼女はまるで自分も励まされたかのように胸の中が温かくなるのを感じた。
「人前で演るのが初めてなのに、最後まで止まらずによく頑張ったね、藤枝。いい演奏をありがとう、お疲れ様。みんなもう一回拍手!」
ぱちぱち、という音の中で、祐華は深々と頭を下げる。
緊張がようやく解けたのか、彼女は兄の隣まで行くと、その場に足を崩して座り込んだ。
『祐華ちゃん、お疲れさま』
達成感と安堵に満ちた表情の祐華を見つめながら、くるみは手指を振ってほぐした。
「じゃあ次。……どっちからいこうか」
興津はくるみとミチルを交互に見やる。
「菊川さん、どうする?」
「え、……どうしましょうか」
「じゃんけんで決めたら?勝った方が先行ってことで」
太陽の鶴の一声で二人は向かい合う。
「「せーの、さーいしょーはグー!」」
そこから三回あいこが続いた後、くるみが負けた。
「よろしくお願いします」
楽譜も持たずに、ミチルがキーボードの前でお辞儀をする。
「こちらこそ。楽譜はないみたいだけど、何を弾くのかな?」
「ドビュッシーの『月の光』です」
「そんな難しい曲を暗譜してるのか、すごいね」
純粋に興津が驚きの声を上げた。
「……はい、ありがとうございます」
ミチルは素直に誉め言葉を受け取った。
「それじゃ、準備ができたら自分のタイミングで弾いてくれ。ああ、椅子はいるかな?」
「大丈夫です、立ったままで」
「わかった。じゃあよろしく」
興津に頷いて答えると、ミチルは軽く肩と首をほぐして、まっすぐ鍵盤に向き合った。
『普通に上手い……』
迷いのない指運びと、キーボードらしからぬ強弱と緩急のついた演奏に、くるみはうっとりと聞き惚れる。
『……わたしも、お母さんが生きてたら、このくらい弾けてたのかなぁ……』
寂しさと一緒に、懐かしさが胸の内に蘇る。
最後に母と連弾したのは、いったい何時だっただろうか。
『……だんだん、お母さんのこと、忘れてっちゃうな……どうして記憶って、大事なものから消えていくんだろう』
ほんのりと、目の奥が熱くなる。
『もう、お母さんの声が思い出せなくなってきてる。毎日話してたのにな』
ミチルのピアノの音色は、心の奥に埋めた悲しみを掘り起こすような、優しい痛みを運んでくる。
『だめ、考えちゃ。少なくとも、先生の前では泣かないようにしないと』
瞬きで涙をごまかして、興津の方を見る。
『あれ……先生、なんか悲しそう……』
彼の目はさっきまでの情熱を失い、どこか遠くを見るように、深い影が差している。
いったい何が見えているのだろうか。
『……知りたいな、もっと。先生のこと』
愁いを帯びたその表情すら綺麗に見えて、くるみはほう、とため息をついた。
演奏が終わる。
辺りから拍手が沸き起こり、ミチルは優雅にお辞儀を返した。
「ありがとうございました」
「こちらこそありがとう。とても良かったよ」
興津の言葉に、くるみもうなずきながら拍手を続ける。
「他には、何か空で弾けたりするかな?」
「いえ、この曲だけです……」
「なるほど、……」
彼は何か言おうとしてやめた様子だった。
「音を介した表現力が素晴らしいね。とても懐かしい気持ちになった」
「ありがとうございます」
もう一度お礼を言いながら、ミチルがツインテールを揺らして軽く頭を下げた。
『……先生も、同じ気持ち……懐かしかったんだ……』
胸の奥を掴まれたような感覚に、ぎゅっと手を握る。
『何を思い出してたのかな』
今日のことを覚えていたら、いつか訊いてみよう。
そう思いはしたが、
『……きっと、これも忘れちゃうんだろうな』
くるみは自嘲の笑みを浮かべる。
「クラシックもロックもポップスも、形は違えど根っこは同じ『音楽』だ。あまり気負わないで、まずはギターやドラムのサウンドに慣れることから始めよう。難しく考えないようにね。ああ、それと、今度でいいからバイオリンも聴かせてもらえるかな」
「はい。では、次の活動の日に持ってきます」
「うわー、生バイオリンが聴けるのか!じゃあ俺、あれ弾いてほしい、『情熱大陸』!」
「俺も俺も!今度譜面ダウンロードしましょう、みんなでセッションしても面白そうだし」
紘輝と隆玄が目を輝かせる。
「こら、気が早いぞ」
興津が笑いながらそれを諫めた。
「いい演奏をありがとう。お疲れ様。じゃあみんな、菊川にもう一度拍手!」
ぱちぱちという音の中、再び頭を下げたミチルは壁際の椅子に腰かけた。
「さ、トリだぞ、牧之原」
「う……」
なぜか意地悪くプレッシャーをかけられて、くるみはたじろいだ。
「何を歌うか、みんなに教えて」
「は、はい。……aikoの『初恋』です」
「あ!くるみちゃん、わたしそれ弾ける!」
祐華が立ち上がって、ベースをもう一度構える。
「俺も参加していいですか?折角チューニングもしたんで」
その隣で待ってましたとばかりに、紘輝も肩にストラップをかけ直した。
「有名な曲っすね、ざっくりでいいなら最後まで演れますよ」
隆玄が大きく伸びをして、ウォーミングアップにそのリズムを刻み始める。
「コード弾きでいいなら、俺もいけます。いいですか?」
「いいぞ、どんどんやろう、遠慮するな」
興津に促されて、太陽も自分のギターを持った。
「藤枝、ベースは君に任せよう。ツインじゃうるさいから、私はプラグレスで参加だ」
「うああ、なんか急に人数が……」
先ほどのミチルのように演奏するのは自分一人で済むと思っていたのに、いきなりほぼ全員が参加するムードになって、ますますくるみはうろたえる。
「音数が増えたじゃあ、生声は厳しいね。マイクが必要だな」
興津は立ち上がってベースをスタンドに置くと、黒板の脇ですぼまっていたマイクをくるみのキーボードの前に置き、高さを合わせた。
「今コード繋ぐから、電源入れて、マイクを引っ掻いて音が出るか確かめて」
「あ、はい」
スイッチを入れると、ぶつん、という音の後に、電気が鈍く身体に響く感覚がする。
言われた通りに爪で軽く引っ掻いて確かめると、しっかり電源は入っているようだった。
「あの、音量とか、大丈夫ですか……?」
「気にしなくていい、どうせ校舎の隅っこだ。隣は工場だし、防風林もあるから誰にも迷惑は掛からないよ。カラオケにでも行った気分で思い切り楽しみなさい」
ジャケットを脱いで椅子に掛けながら、興津が笑った。
「カラオケ……」
あんまりな例えにくるみは苦笑いを返す。
彼はスタンドからベースを持ち上げるとストラップを身体に掛け、二、三回弦を弾いてから、口元に手をやって思案した。
「動画は……菊川、スマホ持ってたら、撮影頼めるかな。私ので撮影すると、君たちに共有できなくなるからね」
「わかりました」
ミチルがポケットからスマートフォンを取り出して、横向きに構える。
「悪いがよろしく。もう撮影ボタン、押していいよ」
「はい」
ぽん、という軽い音がして、撮影が始まった。
「よーし、みんな準備はいいか」
興津の呼びかけに、各々からはい、という返事が返ってくる。
「藤枝、音は出さないけど、私の弾き方を目の端っこに入れながら演奏してごらん。お手本というわけじゃないが、参考にしてほしい」
「え、あ、はい!」
祐華の返事が飛んでくる。
「牧之原、間違えても止まるな。折角だから最後まで通すぞ」
「は、はい」
隣に立つ興津の気配に、鼓動が駆け足を始めた。
『ああ、だめだめ、落ち着いて、わたしの心臓……!』
大きく深呼吸をして、気持ちを何とか切り替える。
「くるみちゃーん、オッケーだったら言ってー、リズムとるからー」
そうして背中から聞こえた隆玄の声に、
「お願いします!」
くるみはマイク越しに答えた。
歌っている最中のことを、くるみはほとんど覚えていなかった。
ひたすら隣にいる興津に、歌詞を通して自分の思いのたけを精一杯ぶちまけていたような気がする。
受け取ってもらえたのかはわからない。
ただ、突き返された気もしない。
彼の纏う優しい空気と、鼻をくすぐるコロンの匂いが、まるで自分を包み込んでいるような、歌っている間ずっと肩を抱いてくれていたような、そんな感覚がした。
『……意識しすぎ、っていうか、近すぎ……』
演奏の後、拍手をもらってから一気に恥ずかしさが込み上げる。
『わたし、間接的にだけど、告っちゃった……よね……』
再会して二日目だというのに、我ながら気が早すぎる。
『気付いてほしいような欲しくないような……ああでも、今は気づかないで欲しいかも……』
歌っておいて今さらだが、爆弾のような選曲をしたことに気が付いて、冷や汗が流れる。
『……でも、変なの。スッキリするかと思ったのに、なんだか前よりもっと、好きって伝えたくなる。……歌いたくなる……』
とめどなく湧き上がってくる想いが、またくるみの頬を染めた。
「牧之原、お疲れ。楽しめたか?」
振り向いた興津の微笑みに、また心臓がひとつ大きな音を立てる。
「は、い……」
自分でその音に驚きながら、くるみはどうにか返事をすると、はっと思い出して慌てて頭を下げる。
「み、みなさん、ありがとうございました」
「こちらこそ、素晴らしい歌を聴かせてくれてありがとう。みんな、牧之原にもう一回拍手!」
再び起こった温かい拍手に、ふっと肩の力が抜ける。
『わ、こんなに緊張してたんだ……』
今日いちばんの大仕事をやり遂げた達成感で、そのまま倒れてしまいたくなるのをどうにか堪えて、くるみは頭を上げる。
「動画、止めますねー」
拍手が止むと、ミチルの声の後に、ぽこん、と録画を止める音がした。
「じゃあ、さっそくみんなで聴いてみようか。菊川、音量を最大にして再生して」
「はい」
ミチルが机の上にスマートフォンを置き、再生ボタンを押す。
くるみたちは額を寄せ合って、それを覗き込んだ。
【よーし、みんな準備はいいか】
興津の声から動画が始まる。
いくつかのやり取りの後、スティックの刻んだリズムを挟んで、ピアノの音が聞こえてくる。
「祐華、さっきより身体の力抜けてるな。良くなってる」
紘輝が前奏の間に感想を述べる。
「くるみちゃん、ピアノも上手ね」
祐華の誉め言葉に、
「いやいや、わたしなんて菊川さんと比べたら……」
くるみは思い切り照れた。
「しーっ、静かに。歌が始まる」
興津がくるみの隣から画面を覗き込みながら、二人の会話を止める。
『ちょっ、待って、先生、近っ……!』
さっきよりも強く香ったコロンの匂いにくらりと脳が揺れ、まるでブレザーの袖越しに彼の身体の感触がするようで、くるみの心拍数は再び跳ね上がってしまった。
「……」
くるみは初めて、録音された自分の歌声を聴いた。
カラオケで聴く声と同じで、自分にはどこがどう良いのかさっぱりわからない。
ただ、このとき、彼に想いを伝えたくて、必死に言葉のひとつひとつにそれを詰め込んでいたことだけはよくわかる。
そして、自分の視線が時折、隣の彼に向いてしまっているのが映るたびに、
『バレませんように……』
くるみは心の中で必死に祈った。
画面の中のみんなの姿を眺める。
さっきよりは緊張感の抜けた祐華が、軽く身体を揺らしながら懸命にベースを弾いている。
その後ろで妹を気遣うように時折目線を送りながら、紘輝がアドリブで楽しそうにギターを奏でている。
真ん中でドラムを叩く隆玄の動きは、余裕が感じられつつも要所要所できちんと引き締まっている。
そこより少し廊下側にいる太陽が、コード弾きで全体をまとめている。
そして、いちばん手前でピアノを弾きながら必死で歌う自分の隣に、優しい表情を浮かべ、身体をゆったりとリズムに合わせながらベースを爪弾く興津が映っている。
『……やっぱりすてき。優しくて、カッコよくって』
隣にある彼の腕の中に抱きとめられたら、どれだけ温かいのだろう。
『先生、好き。……片想いでもいい、わたしずっと、先生のこと好きでいたい』
動画を共有してもらったら、宝物にしよう。
この恋が叶わなかったとしても、今日感じた想いはずっと大切にしたい。
くるみは画面の中で並ぶ自分と彼を見つめながら、幸せな痛みに浸った。
演奏が終わり、拍手が起こったシーンでミチルが動画を止める。
「……いい、くるみちゃん、すごくいい。とっても素敵……」
身体を起こして、祐華がうっとりとくるみを見る。
「いやいや、……あの、お粗末様です……」
ここまでストレートに褒められた経験がないおかげで、くるみはリアクションに困った。
「可愛くて歌も上手くてピアノ弾けるとか、チートもののラノベの主人公みたいっすね」
茶化しながらも感服した様子の隆玄が、眼鏡のブリッジを抑えながら紘輝に話しかける。
「それ、学年一位のリアルチートのお前が言うか?……でも、すごいな、くるみちゃん。俺、反省した。ボーカル舐めてたっけ」
「俺もっす」
「反省するタイミングが遅いぞ、二人とも」
興津の言葉に紘輝と隆玄は肩をすくめて、顔を見合わせた。
「いやー、弾きながら歌えてる時点で次元が違うな、俺には無理だ」
太陽が腕組みをしてため息を付く。
「簡単にあきらめるな、島田。為せば成るって言うだろう」
「いや俺、マルチタスク人間じゃないもんで……」
「剣道と並行してギターもやってるお前がよく言うよ。ったく、この部には俺みたいな凡人はいないのかー?」
興津と太陽の会話を拾って、紘輝が嘆いた。
「いないんじゃない?」
「うるせー、お前には言われたくねーぞ」
容赦ない言葉を浴びせる祐華を紘輝が小突く。
「それにしても、本当にいい歌い方だ。ビブラートもきれいだし」
また興津から褒められて、くるみは目いっぱいに照れてしまう。
「いえいえ……ビブラートは、家族とカラオケに行ったときに、たまたま面白がってやったら、それが癖になっちゃっただけです」
「それでこんなに歌えるんだから、やっぱりすごいわ、くるみちゃん」
祐華がすっかりただのファンの顔でくるみを見る。
「もう、みなさん、あんまり褒めないで、わたし、すぐ調子に乗るもんで……」
矢継ぎ早に飛んでくる称賛の言葉にさすがに居心地が悪くなってきて、くるみは明後日の方を見て縮こまった。
「ミチルちゃん、どうだった?」
さっきからずっと黙っているミチルに、太陽が声をかける。
「あ、……あの、なんていうか……聴いていて、どきどきしました。本当にどなたかを想って歌われているような感じがして……」
ミチルのその言葉に、くるみは思わず固まる。
「わかる……!なんか、好きな人に歌ってるって感じ、すごく伝わってくる……!」
祐華がミチルの手を取る。
「ですよね!とっても切ない感じがしました!」
二人はきゃあきゃあとはしゃぐ。
「何、くるみちゃん好きな人いるの?それとも彼氏持ち?」
隆玄が面白そうだと言わんばかりにくるみに問う。
「はへっ!?な、何言ってるですか、彼氏いない歴=年齢です!そんなもんいたことないです、あれはUMAです、伝説上の生き物ですよ!!」
動揺したまま脳内に浮かんだことを、くるみは勢い込んで思わず口走ってしまった。
その場にいた全員が吹き出し、辺りは笑いに包まれる。
『うああ、やってしまった……!』
興津に妙な子だと思われてしまっただろう、と、心の中で頭を抱えてうずくまる。
隣を見遣ると、彼は必死で笑いをこらえながら口元を抑え、顔を逸らしている。
『いや先生、変なとこ我慢しなくていいから!いっそ大爆笑してください!!』
くるみはどうしたらいいかわからなくなって、いたたまれない気持ちのまま彼を見上げた。
『なにを安心してるんだ、馬鹿!!』
こみ上げてくる安堵に思わず緩んでしまった口元をどうにか隠して、興津は身体の震えを止めようとしていた。
『子供なんだから彼氏なんていなくて当たり前だろう!冷静になれ、大地!何浮かれてるんだ、本気になったら絶対に駄目だ、最悪首が飛ぶし、社会的に詰む……!』
外的要因でどうにか色めいた心を洗い流そうと、彼は無駄な抵抗を試みる。
『……だけど、……』
話のついでに独り身であることをさりげなく伝えたり、彼女の近くに佇んでみたり、何の気なしに見つめてみたり。
これまで出来得る限りは身の上を生徒に教えまい、悟られまいと振舞ってきたというのに、この一時間ほどの間に、自らの行動が狂い始めていることは逃れようのない事実だった。
『いや本当に、くだらないことを考えるのはやめよう。……ごっこ遊びだ、こんなのは。そして遊びで身を滅ぼすほど、僕は馬鹿じゃない』
やっと顔の筋肉が思い通りに動くようになって、彼は口元から手を離す。
まだ笑いの止まらない部員たちとは裏腹に、くるみが心配そうな顔をしてこちらを見上げている。
『こんなに可愛い子だ、きっと彼氏なんてすぐできるだろう』
そう、彼女に恋人ができれば、この遊びは終わる。
もしかしたらそれは明日かもしれない。
『早く、そうなってくれ。僕がこれ以上おかしくなる前に』
ようやく教師としての心を取り戻した興津は、出来るだけ冷静を装ってくるみを見た。
それでもひとつだけ、彼女を本心で褒めなければいけないことがある。
「いや、みんなの言うとおりだ、牧之原。君の歌には、伝えたいことがしっかり感じられる。……誰か好きな人を想って歌ったのだとしたら、その気持ちはきっと、相手に届くよ」
『ありがとう、僕を想って歌ってくれて。嬉しかったよ』
苺のように赤く頬を染めたくるみに、彼はうぬぼれと愛おしい気持ちを悟られないように抑え込んで、仕事用の笑顔を返した。
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