第25話
【みなさん、本日は、私立聖漣高校、音楽部合同、定期演奏会にお越しいただき、ありがとうございます】
吹奏楽部の新しい部長になった少年が、音楽ホールの客席に向けて、丁寧にあいさつの原稿を読み上げている。
その声を聴きながら、くるみたち軽音楽部員は、
「よーし、撮るぞー」
楽屋の前で、隆玄のスマートフォンを持った興津に、全員で記念撮影をしてもらっていた。
「OK、一応三回シャッター押しておいたからな」
「ありがとうございます、先生」
興津の手からスマートフォンを受け取り、隆玄は画像を確認する。
「いいなぁこれ、あとでみんなに共有するからねー」
「おお、結構様になってんなあ。馬子にも衣裳ってこのこんだな」
「こんな格好するの初めてだわ……」
「手作り衣装なんて、幼稚園のお遊戯会以来かも」
「何だか申し訳ないですね、こんなに凝ったものを用意していただいて……」
「帽子まで手作りとは、手芸部恐るべしだな」
全員で覗き込んだそこには、『不思議の国のアリス』をイメージした色違いのエプロンドレスにリボンをつけた女子と、山高帽を被って、やはり色違いのカラフルなジャケットとベストを身に付けた、『いかれ帽子屋』のような格好をした男子の姿が映っていた。
「すごいなあ、ちゃんとドロワーズとパニエまであるなんて。フリルもきれい」
星の形をした色とりどりの飴が入ったかごを腕にかけて、くるみは自分の着ている桜色のシフォンワンピースの上に乗っかっている、派手なフリルのついた純白のエプロンをつまむ。
「ほんとにもらっちゃっていいのかしら、これ」
まろやかなオレンジ色のやわらかいパフスリーブをつつきながら、祐華が困惑する。
「いいんじゃね? 体育祭で余った生地で作ったって言ってたし、遠慮すんのも悪いだろ」
ぱきっとしたブルーのジャケットの襟を引っ張ってから、紘輝が飴のかごを腕に引っ掛ける。
「それにしても、わざわざ採寸までして作ってくださるなんて、本格的ですね」
淡い水色のスカートの裾を広げて、ミチルが嬉しそうにくるりとその場で優雅にターンする。
「来年の文化祭の衣装、これでよくないか?」
白い手袋を手にはめ、鮮やかな緑色の大きなリボンタイをまっすぐに直しながら、太陽が誰ともなく声をかける。
「いやいや、これでドラム叩いたら袖がちぎれるって」
ほとんど金に近い黄色のサテンで出来たジャケットの袖を撫でて、隆玄が肩をすくめた。
「みんな、そろそろ自分の位置にスタンバイしなさい」
興津の声に全員がはい、と返事をして、飴の入ったかごを手に急ぎ足で廊下を歩きだす。
「先生も飴配り、参加すればよかったじゃないですか」
その最後尾を歩きながら、くるみは真後ろの興津に話しかける。
「私はこの後、別もんをやらされるから、それでお腹いっぱいだよ」
彼はそう言って苦笑いする。
「ふふっ、楽しみ」
「やめてくれよ、結構恥ずかしいんだから、あの格好は」
リハーサルで見た彼の辟易する姿を思い出して笑ったくるみに、興津が抗議する。
「でも、教頭先生がゲスト参加するなんて、なんだかすごいですね」
「いや、なかなかないこんだと思うよ。多分曲目を聞いて、血が騒いだのかなとは思うけどね、ちょうど世代的にはドンピシャだから」
「ふうん……教頭先生、お父さんと歳が同じくらいだから、お父さんも楽しんでくれるかな」
「ああ、大丈夫だよ。きっと喜んでくれるはずだ」
そこまで喋って、ふと興津は足を止める。
「?」
その気配に振り向いたくるみが彼を見ると、興津は前方の部員たちが全員、その先の角を曲がったのを確認してから、くるみの耳元に唇を寄せた。
「……すごく可愛い。似合うよ、くるみ」
ぶわ、とくるみの顔は一瞬で耳まで赤くなる。
「ごめん、どうしても言っておきたかった」
興津も赤い顔で肩をすくめる。
「……」
わずかな間、甘ったるい沈黙が訪れ、二人は見つめ合って小さく笑う。
「……行っておいで」
「……はい」
興津が手を振ると、くるみも手を振り返してから、白い厚底のストラップシューズを鳴らして駆けて行った。
「興津先生ー」
背中から声が聞こえて、興津はぎくりとしながら振り返る。
(……今の、見られたかな)
冷や汗が額ににじむ。
しかし、その声の主は、楽屋のある廊下の突き当りの曲がり角からこちらに呼びかけている。
(ぎりぎりセーフ、か)
自分にそう言い聞かせて安心させると、
「はーい」
彼は平静を装った返事をして、そこに佇む人物のところに踵を返して歩いていった。
(どうも、興津君とあの生徒はえらい距離が
こちらに向かって歩いてくる、自分より頭一つ背の高い男を見ながら、教頭の
(ちいっと生徒と教師が親しくしただけでも、そういう報告を受ける時代だ、昔と比べたら窮屈と言えば窮屈なんだが、間違いが起こっちゃいけん。優秀な教員だから長く勤めてほしいし、あの生徒の将来も守らなきゃならん)
彼個人の中では手を振り合うだけなら全く気に留めはしないが、それさえも見咎めて他の教師に『告げ口』する生徒がいないとも限らない。
ただでさえ教員同士でバンドを組んで目立ってしまっている存在だけに、彼の行動はこちらでも気を付けてやらなければならないのだ。
(かといって、あからさまに釘を刺すのもなあ……藁科君みたいなパターンもあるし、何より俺はそういう無粋な真似は好きじゃあねえしな)
藁科が自分の教え子と卒業後に結婚して、今幸せな家庭を築いているということを考えると、その芽を摘んでしまうのは遣る瀬無い。それに、面接のときに聞いた興津の身上――交通遺児で天涯孤独であるという事も考えると、さっきの生徒と関わることは、彼自身のメンタルの安定につながっているのかもしれない。
(ここ半年で目の動きや喋り方が劇的に落ち着いたし、ブチギレるこんもなくなったから、多分そういうこんだら。……まあ、公の場じゃあ節度は保っているようだし、親御さんの信頼を裏切るような行為も今んところはなさそうだ。あまり突っつかんで、しばらく様子を見ようか。……もし付き合っていたとしても、別れさせるのは、いつだって出来るこんだしな)
瀬戸はいったんの結論を出すと、
「さっき間違えたとこ、最後にもっぺんやって確認しよう」
そう言って自分の前までやってきた興津を見上げる。
「はい」
「……やっぱり君か藁科君が、長さん演るべきじゃなかったかねえ」
「いやいや、オンタイムで見てらした方のほうが絶対にいいですって」
瀬戸と興津は、他の教員たちが待つ楽屋の中へと戻っていった。
(可愛い……可愛いかあ……)
客席に繋がるドアの外で合図を待ちながら、くるみはひとりにやにやと笑う。
(好きな人に褒められると、本当にそうなれたような気がして……うああ、ほっぺが緩みっぱなしになっちゃうよ……! 先生、不意打ちしすぎ……!)
耳の際に触れた口髭の先と、やわらかくて熱い吐息が混じった甘い囁きに、身体の芯が痺れるような気さえする。
(なんか、魔法がかかった気分……よーし、張り切っちゃお!)
ふむ、と息を吐いて、彼女は小さくガッツポーズをした。
そしてそのすぐ後に、
【それでは、まずはこちらの曲からです。『クラリネット・キャンディ』】
部長のナレーションが入り、数秒後に演奏が始まる。
くるみが目の前の扉を開けると、リハーサル通り、自分と同じように客席へと入ってきた他の軽音楽部員たちにも、スポットライトが当たっているのが見える。
彼女はすぐそばの客席に座っている小さな子供に、かごから取った星型の飴を、
「はい、どうぞ」
にっこりと微笑んで手渡した。
やがて、自分の割り当ての客席の中に家族を見つけ、くるみはわけもなく安心した。
「お父さん!」
「やあ。随分本格的な衣装だね」
「手芸部の子たちのお手製なんだ。もらっていいっていうから、帰ったらまた着て見せてあげる。これ、奥にも回して」
父の隣に座る慎と、弟の智の分も手早く飴を渡し、またその奥を見ると、
「あ、
弟の幼馴染とその両親が座っていたのに、くるみは気が付いた。
「来てくれたんだ、ありがとね」
「うん。お姉ちゃん、可愛い」
「あはは、嬉しいな。よし、サービスしちゃおう。お父さん、これ莉里ちゃんちの分ね」
「はいはい」
くるみは少し多めに父の手に飴を渡すとさっと側を離れ、その前の列に同じように配りながら、ふと客席の後ろ側に目をやる。
(あ……)
階段の上の手すりの奥に、車椅子に乗った人影と、隣に介護士らしき姿が見える。
(もしかして、浜松のおじいちゃんかな)
その人たちに、ツインテールを揺らしながらミチルが飴を配っている。
(一応招待状は出したから、来てくれてるといいな。伯父さんにも出したけど……東京からじゃ無理だよね、仕事も忙しいだろうし)
めったに会えない母の兄の顔を思い出して、くるみはかすかに息を吐いた。
「くるみ、ますます母さんに似てきたね」
早速配られた飴を口の中で転がしながら、慎が前の方の客席に同じものを配っている妹の姿を眺める。
「まあ、母さんの娘だしね。多分見た目が一番似てるのはあの子だ」
父はもらった飴を着物の袖にしまって、腕を組んだ。
「ねえ、母さんが出てた映画、オレまだ観ちゃだめ?」
もらった飴をさっさとかみ砕いて食べてしまった智が、もどかしそうに父を見る。
「うーん、高校生になるまで待って欲しいかな。父さんの書く話は難しいからね」
「えー、もう中学生なんだからいいじゃん」
「やめとけやめとけ、お前にはまだ刺激が強いよ。ゲームなんか目じゃないほど血塗れだぞ」
「血ぐらいどうってことねーよ。ったく、すぐ子ども扱いするんだもんな、兄ちゃん」
「こういうときは素直に言うこと聞いといたほうがいいよ、さーくん」
ふてくされて座席にふんぞり返った智を、隣に座っている
「でもさあ、なんかオレ、母さんのことだんだん忘れて来ちゃってんだよな。顔思い出そうとすると、ねーちゃんがちらついて邪魔なんだよ。こう、母さんだけ純粋に思い出したいわけ」
「……心配しなくても、簡単に思い出は消えちゃったりしないよ。大丈夫。ね?」
自分を素直に思いやってくれる莉里の言葉に、智はため息をつく。
「……まあ、いいよ。いざとなったら隠れて観てやるし?」
「後悔するぞー、俺は後悔した」
「うるせー、兄ちゃんがビビりなだけだろ」
「君たち、演奏中なんだからそろそろおしゃべりはやめなさい」
息子たちの会話を困ったような笑顔で遮ると、彼らの父は最前列に飴を配る娘を目で追った。
かごの中はほとんど空になり、くるみは打ち合わせ通りステージへと上がって、コントラバスとチューバの脇に立って手拍子をしながら、他の部員が上がってくるのを待った。
すぐに祐華と隆玄がやってきて、ミチルと紘輝がその後に続く。
最後に一番遠い場所から太陽がダッシュで駆けてきて、その勢いでステージのセンターにひらりと飛び乗り、客席を沸かせる。
(麗ちゃん、今日もカッコいいなあ)
曲の始まりからずっと舞台のせりでスタンドプレイしているクラリネットの中にいる、凛々しい少女の姿に目をやる。
(楽しそうに吹いてる、本当によかった)
夏の始まり頃のぼろぼろだった様子は、もうどこにもない。
(……隆玄先輩に意地悪してるけど、きっと素直になれないだけなんだろうな、麗ちゃん)
彼女が隆玄を見る瞬間だけに浮かべる、ほんの刹那のやわらかい表情を思い出して、くるみは微笑む。
(わたしも先生を見るとき、あんな顔してるのかな……いや、だったらヤバいんだけど、でも、……言葉にできない分も、他の何かで、好きって伝えられたらいいな)
今頃楽屋で出番を待っているであろう彼を想って、くるみは頬を染めた。
曲の終わりに合わせ、端から順番にターンしてから上下に手を広げ、全員でポーズを決めると、客席から拍手が起こった。
クラリネットを演奏していた生徒がお辞儀をすると、その音は一段と大きくなる。
(遊園地のキャストって、こんな感じなのかなあ……結構面白かったな)
舞台の上のみんなと目を合わせ、微笑み合う。
その拍手がおさまると、指揮台の上で客席を振り向いた顧問の藁科秀幸が、マイクのスイッチを入れて喋り始めた。
「えー、皆様本日はお忙しい中お越しいただきまして、誠にありがとうございます。……とりあえず、今配った飴は食べちゃってください、どうぞどうぞ」
その言葉を受けて、打ち合わせ通りに藁科の隣にいた紘輝が、彼に飴をひと粒渡した。
それを大袈裟にありがたがってから口の中に放り込むと、
「えー……キウイ味です」
藁科は神妙な面持ちで一言そう告げる。
客席は彼の間のとり方のうまさも手伝い、どっと笑いが沸いた。
「えー、今回は、音楽部合同の定期演奏会ということで、昨年までは我々吹奏楽部だけだったんですが、今年からは軽音楽部と合唱部もいっしょに、皆様を楽しませていければと思っております。まずは、ただいま客席で皆さんに「クラリネット・キャンディ」にちなんでご挨拶代わりのキャンディを配りましたのは、軽音楽部のメンバーです」
客席から再び拍手が湧き、くるみたちは全員頭を下げる。
「彼らには後ほど演奏してもらうので、一旦ここでお別れです。ありがとう、用立てして悪りぃっけねえ。出番来るまで後ろでお茶でも飲んでて」
再び起こった笑いと拍手の中、くるみたちは手を振りながらステージの下手に入って行く。
緞帳のにおいがする暗い袖の中を非常口の緑色の明かりを頼りに進み、廊下に繋がる扉を押し開けると、LEDの白い光が目に飛び込んできた。
「やれやれ、とりあえずひと仕事終わったな」
帽子を脱ぎながら紘輝が大きく息をついた。
「また着替えないとですし、早く楽屋戻りましょう」
太陽はジャケットを脱ぎながら歩き出す。
「麗さん、とても楽しそうでしたね」
「うん、クラリネット大活躍だったわね」
「クラリネット吹いてるときの麗ちゃん、カッコいいよねえ」
くるみたちの会話に、隆玄が嬉しそうにほほえみながら三人を追い越していく。
(麗ちゃん、音楽やめなくてよかったなぁ)
隆玄は帽子を取り、黒縁眼鏡のブリッジを押さえる。
彼女を『放送室ジャック事件』に巻き込んでしまった申し訳無さも手伝ってはいたが、隆玄は麗のことをずっと気にかけ、なにかと構っていた。
棘のある言葉で冷たく突き放されることばかりだが、本当に嫌われたり鬱陶しがられてはいないという手応えはある。むしろ、自分が相手だからこその振る舞いなのだと感じてさえいた。
(あのキーホルダーもさり気につけてくれてるし、それなりに俺に気がある、って思ってもいいんだよな……多分)
自分でもセンスのない贈り物だという自覚があったからこそ、麗が合宿土産をカバンにつけてくれているのを見た時、隆玄は柄にもなく舞い上がってしまった。
それは彼の中で、麗への好意をはっきり自覚した瞬間でもある。
(個チャも一応、時々は返事くれるし、既読は付くし、……ウザがられてないよな? あんましつこくしないように気を付けなきゃだけど、あの子、他の子とつるんでるとこ見ないし、かまってやらないとどっか行っちゃいそうで、なんか不安になるんだよなぁ……)
麗の部活以外の背景が今一つはっきりしないことも、隆玄の不安に拍車をかけていた。
(……吹奏楽部だって居心地よくなさそうというか……いやまぁ、俺らがそうしちゃった部分はあるんだけど、なんであんな意地になってまで……いっそ転部してきたっていいのになぁ)
隆玄は手早くジャケットを脱いで、リボンタイを外しながら男子の楽屋に入る。
(俺的には付き合ってるつもりなんだけど、麗ちゃんに無理させてたら嫌だなぁ)
自分のカバンの上に乱雑に衣装を置くと、鏡に向かって制服のシャツの襟を整え、ポケットに入れていた深緑のネクタイを取り出し、きちんと結び直す。
(ストレートに「付き合ってるよな?」って聞いたら、絶対否定されるから、……怖いな)
彼はそこで考えるのが嫌になり、テーブルに置いたかごの中からピンク色の飴をひと粒取って口に入れる。
「あ、俺も食べよ」
隆玄がつまみ食いしたのを見て、太陽も飴に手を伸ばす。
「りゅーげん何味食べた?」
「わかんね」
舌の上で甘酸っぱく溶けていくその味が、どこかほろ苦く感じられて、隆玄は心の中でため息をついた。
吹奏楽部はコンクールで演奏したマーチと自由曲を終え、『ブルーリッジの伝説』を演奏し始めた。
舞台の袖では合唱部がスタンバイし、くるみたちも楽器のチューニングを終えてその後ろに控える。
「本格的なホールで演奏するのは初めてだから、結構緊張するな」
「わたしも久しぶりですから、ちょっとドキドキします」
モノトーンのギターとスタンドを持った太陽と、楽譜を抱えたミチルが、小声で囁き合う。
「紘輝先輩、アコギ持ちましょうか」
肩からスモーキーな青のストラトキャスターを下げ、手にはエレアコを持った紘輝に、隆玄がひそひそと声をかける。
「あ、いい? 悪いな隆玄」
「いえいえ、ぶつけてどっちも傷がついちゃったら嫌でしょ、特にストラト」
エレアコを受け取った隆玄の言葉に、紘輝は嬉しそうに新品のストラトキャスターを撫でる。
「ふふ、お兄ちゃんよかったわね、お父さんがお金出してくれて」
いつものパステルピンクのベースを手にした祐華が小さな声で笑う。
「まさか買ってくれるなんて思ってなかったよ」
「道具はいいものを使えって、おじいちゃんもよく言ってたものね。お父さんもなんだかんだでお兄ちゃんのこと、応援してるのよ」
「どうかな、見限ったから適当に金出して、厄介払いしたいだけかもしれないぞ」
紘輝はぼそりとそう言って、肩をすくめる。
一番後ろから彼らを眺めつつ、くるみはポケットの中に入れてあったはちみつレモンののど飴スティックを取り出し、ひと粒口に入れる。
(またここで歌うことになるとは思わなかったなあ……しかも、生徒じゃなくてお客さんを目の前にして歌うなんて、なんだかすごいことになってる……)
中学校の合唱コンクールでこのホールに立った経験はあったが、あくまで学校行事として内々で行われることだったため、今よりずっと緊張感は少なかった。
(……でも、大丈夫。今日は先生も一緒だから)
先ほど廊下で甘く囁かれたこそばゆさが蘇って、くるみは耳を撫でた。
(ヒゲ、くすぐったかったな……キスされたかと思った……)
胸の奥がとろけるような感覚に、思わず知らず頬は緩む。
(……先生とデュエットするパートもあるし、嬉しいな。今日も楽しもう)
のど飴のスティックが入ったポケットを上からぽん、とたたいて、くるみは深呼吸をした。
そのとき、後ろに誰かが立った気配がして、彼女は振り向く。
思ったとおり、そこにはエレアコを持った興津が優しい目でこちらを見ていた。
念のためさっと前後左右を確認してから、くるみは半歩だけ彼との距離を縮め、暗闇に紛れてその大きな手に指先を触れる。
誘われるように二人の手は繋がれ、二秒後に離れる。
(先生、好き)
触れそうで触れない距離に戻った二人は見つめ合い、お互いの気持ちに安心したように笑うと、演奏の続くステージへと視線を送った。
やがて、勇壮なトランペットとトロンボーンに軽やかなグロッケンの音が乗り、管楽器とティンパニが爽やかかつ壮大なフィニッシュを決めると、客席から盛大な拍手が起こった。
くるみたちも袖から、彼らに拍手を贈る。
指揮台の上で振り返り、客席を向いた藁科がマイクを持って喋る。
(どうもありがとうございました。では、ここからは合唱部にバトンタッチです。顧問の
楽器と譜面台を持って、ぞろぞろと退場していく吹奏楽部員と入れ替わりに、合唱部員がステージに出ていく。
その引っ込んできた人波の中に麗の姿を見つけ、隆玄が笑顔で手を振る。
麗はそれを一瞥しただけで何も応えず、他の部員と一緒に楽屋へ続くドアに飲まれていった。
「……お前ら、ほんとに付き合ってんの? なんか見てて心配になってくるんだけど」
紘輝の言葉に、隆玄は曖昧な笑みを返すだけで終わった。
ステージの上にずらりと合唱部員が並び、指揮台に部長の少女が立つと、その前に真っ黒に日焼けした、派手な格好の男性教員がエネルギッシュな足取りで躍り出る。
彼は指揮台の隣に立つと、マイクの電源を入れて爽やかに喋り始めた。
「皆様、本日はお越しいただきありがとうございます。先ほどご紹介に預かりました合唱部顧問の古和土です。とりあえず長々喋るのもアレなんで、まずはこの曲から。『翼をください』です、お聴きください」
彼はお辞儀をすると、堂々と両手を上げ、伴奏の生徒が合図をもらおうと目線を合わせる前から両手を振り下ろし、大いに慌てさせた。
がたがたと走り出した前奏が持ち直し、どうにか形になった歌を聴きつつ、
「……古和土先生、ライトの下だとより一層色が黒く見えたな」
「休みの日は一日波乗りしてるらしいっすからね」
「県の最南端に住んでるだけありますよね、なんかサーフィンするためだけにそこに引っ越したって言ってたし。まあ、そのせいでよく遅刻してくるって噂ですけど……」
上級生たちはぼそぼそと会話を交わす。
「くるみちゃん、この歌うたったことある?」
祐華が興味深げに小声でくるみに訊いた。
「ううん、合唱コンクールで他のクラスが歌ってたのは聞いたことあるけど」
「もう半世紀前の歌なんですよね……いい歌って、いつまでも歌い継がれていくんですね」
「そうそう。ビートルズとかね。ね、先生」
ミチルの言葉を受けて、くるみは傍らの興津に話を振る。
「えっ、……ああ、そうだね」
自分が会話に混ぜられると思っていなかったのだろう、興津は軽く驚いた後、笑顔を返す。
そこで言葉は途切れ、くるみたちは黙って合唱部の紡ぐハーモニーに耳を傾けた。
歌い終えたところで指揮台からマイクを拾うと、古和土はお色気、と呼ぶには少し濃すぎる下ネタ交じりのトークをはじめ、若干会場の空気を冷え込ませる。
「あちゃー、まーたやらかしてる……」
「保護者も来てるってのに、よくこの空気でこういう話できるなぁ……」
太陽の言葉に、隆玄が苦笑いしながら舞台を見やる。
そしてそれは部員たちにとって、かなりのダメージになってしまったのだろう、二曲目、三曲目と歌ううちに、徐々にハーモニーの中に落ち着きのない雑味が混じり始める。
「指揮、完璧に走ってるな……」
「なんだかちょっと可哀想ね……いつもは部長さんが指揮してるのに、どうして今日に限って、古和土先生がやってるのかしら……」
「リハーサルより明らかに進みが早いね、こっちも早めに準備しよう」
「引っ張られず、落ち着いていきましょうね、休憩もはさみますし」
軽音楽部員はにわかにざわつき始めた。
「……牧之原、大丈夫か」
「はい」
興津の声かけに、くるみはこくりとうなずき、彼にだけ聞こえる大きさの声で続ける。
「わたしは平気。先生が一緒だから、大丈夫です。……でも、合唱部、なんか可哀想……」
頭の上から同意のため息が降ってきて、大きな手が彼女の細い背中を優しく叩いた。
ぐだぐだになってきた空気の中、ひとり満足そうな古和土が楽しげに喋り始める。
「えー、皆様ごらんのとおり、僕は年がら年中サーフィンばっかりしてるもんで、一年中夏みたいな感じなんですが、これからお聞かせするのはそんな僕がどうしても夏の海の歌を歌ってほしくて、彼らにお願いすることにした歌で、とてもいい歌です。どうぞ聞いてください」
それだけ言い残して、曲名も言わずに古和土はまた部員の方を向き、間髪入れずに腕を振り下ろした。
「古和土先生も完全にテンパってるな」
「曲名とんじゃってましたね、舞い上がり過ぎですよ」
伴奏の生徒はすっかり戸惑った様子でそれを目で追い、どうにか拍子を取ると、降り注ぐライトをつややかに跳ね返すグランドピアノから、美しいアルペジオを奏で始めた。
(これ、歌いたかったけど、伴奏が難しいからって選ばれなかったんだよね……)
中学時代のクラスの合唱発表会を思い出して、くるみは胸の中で独り言つ。
(海かあ……そう言えば今年、山に入ったけど海にはいかなかったな)
合宿で富士山の反対側に行ったものの、浜辺に足を運んでいなかったことに改めて気が付く。
(来年はみんなで行きたいなあ、海。麗ちゃんも紘輝先輩もお兄ちゃんも呼んで、……先生も誘ったら、来てくれるかな)
自分の頼みだったら断らずについてきてくれる気がして、彼女は急に嬉しくなり、興津にそっと身体を寄せる。
(先生と、もっといろんなところに行ければいいな。あんまり遠出は出来ないけれど)
彼が幼いころに負った心の傷を思い、くるみはもう少しだけ近くに寄り添う。
(……ずっと一緒ね、先生。わたし、いつまでもそばにいるから)
祈るような気持ちで隣を見上げると、その気配に気が付いて、彼は幸せそうに微笑んだ。
最後のハミングと、きらりと光るピアノの音色の後、優しい拍手が客席から沸き起こった。
部員はどうにかやり遂げたことに安堵した様子で、客席に向かってお辞儀をする。
「なんか、ぐちゃぐちゃで見てて可哀想でしたね。古和土先生じゃなくって部員が指揮するっていう選択肢、なかったのかな」
太陽がため息混じりに、部員たちに同情しながら拍手する。
「まあ、たぶん目立ちたかったんだろうな、あの先生の性格じゃ。音楽ホールで演るとなったら、文化祭とは規模が違うから、黙ってられなかったんだろう」
「素人目に見てこんだけひどい指揮なのに、よく歌えましたよねぇ。……ちゃんと指導が出来る先生が顧問になったら、大会とか出られると思うんすけど、難しいかなぁ」
拍手をしながら紘輝と隆玄がステージの上を見遣る。
合唱部が全員でお辞儀をすると、贈られてくる拍手は同情も含んで、大きさを増した。
そこで緞帳が下り、客席は十分間の休憩に入る。
分厚い布の奥からくぐもったざわめきが聞こえてきて、くるみたちはようやく声のボリュームを元に戻した。
袖に引っ込んだ途端におしゃべりが始まる合唱部員たちのしんがりについて、反対側の袖にいた古和土が戻ってきた。
「お疲れ様です」
義理だけなのがわかる声色で興津が声をかけると、古和土は大袈裟に肩の力を抜いてうなだれる。
「いやー参った、こんなでかいとこでお客さん前にしてやるの初めてだもんで、死ぬかと思ったっけ」
「いえいえ、みんなとても良く歌えてたと思いますよ。来年大会とか出てみたらどうです? 中庭ライブと文化祭だけじゃもったいないですよ」
「そうかー? いやでも、俺がよくわかってねえもんでさ、合唱。正直、
古和土は新しくやってきた音楽教師の名を挙げ、満面の笑みを浮かべて頭をかく。
「吹奏楽部の副顧問になられましたからね、望みは薄いですよ」
「やっぱそうだよなー、でも俺がやるより、絶対にいいと思うっけなあ。大会に出るならなおさらのこと、音楽慣れしてる人のほうが間違いはねえら。なんなら興津先生、兼任してもらえないだかね? 簡単だよ、適当に顔出して、あとは生徒に任せとけばいいから」
「あはは、さすがに無理ですよ。顧問やるなら、どっちも中途半端にはできませんからね」
口では笑い声を立てつつ、最後の発言に愛想笑いが尽きた興津の頬はひきつる。
「いや、やってやれないことはねえら。文化祭も随分盛り上がってたしよ、やっぱ才能ある人に変わってもらったほうが絶対にええら。な、牧之原」
「うえっ!?なんでわたしに話振るですか!?」
突然話題に巻き込まれ、くるみは返答に困ってあたふたする。
「そこにいるからに決まってんだろー。ていうかお前なあ、兄貴の方もそうだったけどな、芸能人の娘だからってあんま調子乗って派手なことすんなよ? 放送室の件だって普通なら停学もんだったんだからな。ちょびちょび目立つことばーっかしてっと、進路指導の先生に目ぇ付けられて、大学行けんくなるぞー」
そう言い残して、快活に笑いながら古和土は歩き去って行く。
「……だああ、家族のことであれこれ言われるの、ほんっとやだ!! むっかつく!!」
古和土が扉の向こうに消えたのを確認してから、くるみは思い切り顔をしかめて歯を剥いた。
くるみは古和土のことを密かに敵認定していた。
苦手な教科である英語の教師であるということも関係はしているが、生徒と友達のように接する体育会系の馴れ馴れしさが不快で、彼を慕う生徒が本名である『古和土ガルシア
それもそのはず、彼は興津と正反対の性格をしているのだ。
興津が生徒と接するとき、相手の心情を慮ってゆっくり様子を伺いながら、優しい言葉を選んで話をするのとは違い、古和土は自分がオープンな質ゆえに、相手の心にもずかずかと勢いよく踏み込むような、良く言えば垣根のない、悪く言えばデリカシーの無い性格だった。
特に、善悪の概念がはっきりしない年頃の子供のように、純粋な興味に基づいた、ともすれば無神経な物言いが、それを好まないくるみにとってはひどく鼻につく。
何よりも最初の授業で開口一番「お前、小説家と女優の娘なんだよな?」とクラス全員の前で聞かれたことに、彼女はずっと腹を立てている。
兄や父から「この先生にだけは絶対に気をつけるように」と言われていたため警戒はしていたが、くるみがそれを二人に話した時、「入学直後に全く同じことをされた」と兄が憤り、父から抗議の電話はしたものの、一度広まってしまった情報は消すことが出来ず、不必要に居心地が悪くなったことで、くるみの古和土に対する嫌悪は決定的なものになった。
明らかにコンプライアンスに反することをして、理事会から再三の厳重注意を受けておきながら、今でもこうして平然と学校に勤めている図太さもさながら、それが全く悪気のない発言であることも、ずっとそのことを引っ張り出しては面白がる姿勢も、冗談めかした謝罪の言葉も、すべてが非常に気に入らなかった。
ハーフゆえの目鼻立ちのくっきりした顔と、この距離感や遠慮のなさが親しみのように感じられる生徒もいるのだろう、古和土は一部から絶大な人気のある教師だったが、自分たちが首にした音楽教師とはまた違った意味で、くるみにとっては厄介な存在だった。
「こらこら、気持ちはわかるけど、もう少し声を抑えなさい。聞こえてたら大変だ」
後ろから興津が、くるみの背中をぽんぽんと叩く。
「だって本当にしつこいんだもの! 生徒のプライベートのこといつまでも引き合いに出して、ネタみたいに面白がって、頭おかしいですって!! お兄ちゃんにもおんなじことして注意されてるはずなのに、何でまだやるのか、ホント意味わかんない!!!」
すっかりむくれて、くるみは興津の言葉にそっぽを向く。
「落ち着きなさい、いま君がここで怒ってもどうにもならないよ。……でも、困った人だな、本当に。いろいろ処分は受けてるだろうに、なんで改めないのか……」
正直に言ってしまえば古和土のことはやはり苦手な興津が、ため息をついて渋い顔をしてみせる。
「……まあ、なかなか性格に難があるというか……あんまり、お近づきにはなりたくないね」
太陽が苦笑しながら、袖に置いてあったスピーカーを持ち上げる。
「くるみちゃんの気持ち、わかるわ。わたしも古和土先生は苦手よ。一回授業で間違えたら、一週間くらいずーっといじられたじゃない。あれ、すごく恥ずかしかったわ」
「ちょっと……いえ、だいぶデリカシーのない方ではありますよね。わたしも変なあだ名を付けられて……最近やっと止めてくださいましたけれど、本当に困りました」
祐華とミチルが顔を見合わせてため息をついた。
「ま、俺もぶっちゃけ嫌いだからわかる。むしろあれで、どうやって好きになれって話なんだよな。俺が一年の頃はもっとひどかったぞ、通りすがりに変なとこ触ってきたりして」
「うーわ、最悪じゃないですか。ていうか、パリピや陽キャのノリでわたしみたいな陰キャの生徒に接しないでほしいですよ、笑って許せる子の気が知れないです」
うんざりした様子で愚痴を漏らした紘輝に、くるみはすっかりおかんむりで答える。
「陽キャがみんな、あんな感じだとは限んないけどねぇ……」
「はあぁ!? 隆玄先輩、古和土先生の味方するんですか!?」
「いやいや、そんなつもりはないよ、ごめんって。俺もあの人苦手。授業が下ネタばっかだもん、初めて受けたときドン引きしたっけ。令和にこれはない、ってさぁ」
なかなかの剣幕でくるみに詰め寄られ、隆玄はたじろぎながら否定した。
「まあ、その辺にしなさい。そろそろ気持ちを切り替えようか。牧之原、一緒にキーボードを用意してくれるかな? もう一台は菊川と藤枝、頼むよ」
ギタースタンドを手にした興津が、くるみをなだめた。
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