第24話 ―第二幕プロローグ―

「はい、じゃ次はプランクです!」

「「うぎゃあああああああ!!!」」

「叫んでも回数は変わりません!!泣き言言わない!!」


聖漣高校軽音楽部の部室に、今日も牧之原くるみの檄が飛ぶ。

顔色一つ変えずにニートゥーチェスト五十回をこなしたジャージ姿の彼女の隣で、まだこの運動を始めて三日目の藤枝紘輝と伊東隆玄が半泣きで脚を前後し、どうにかついていけている紘輝の妹の祐華と、それなりに体が慣れた島田太陽と菊川ミチルがくるみに倣って体を動かし終えている。


「藤枝ー、伊東ー、このくらいで根を上げてたらいつまでもまともに歌えないぞー」

くるみの隣では、彼らに触発された顧問の興津大地が、ワイシャツとスラックス姿でバイシクルクランチをしている。

「なんでくるみちゃんも先生も、そんな動きながら平然と喋れるんだ……」

「私は一応、高校生の頃から鍛えてるからな。ボーカルやるなら当然だ」

スラックスを掃いながら、興津がそう言って立ち上がる。

「お兄ちゃん、最近少し顔が丸くなったからちょうどいいんじゃない?」

いちど床にうつ伏せてから背筋を逸らして、腹筋のストレッチをしつつ祐華が紘輝をからかう。

「はあ!?お前妹だからって言っていいことと悪いこと……いや、マジで?」

「マジで」

「うっそだろ……」

実際に少し太りやすい体質の紘輝は、地味にダメージを受けているようだった。

「はーい、おしゃべりしなーい!さくさくやって練習に入らないと」

「うぇーい」

くるみに促されて、紘輝は床に腕をつく。

「りゅーげん、起きれるかー?」

「……」

太陽の呼びかけに、隆玄は絨毯の上に突っ伏したまま手をひらひら動かして答える。

「ダメそうですね」

ミチルが肩をすくめて、床に腹ばいになる。

「……あの、軽音楽部って、文化部じゃなかったんすか……?」

「伊東、身体が慣れるまでの辛抱だ。今ここで鍛えておけば、後が楽だぞ」

軟弱を絵に描いたような隆玄を、興津が笑いながら励ます。

「ほらほら、隆玄先輩!寝てても筋肉は鍛えられませんよ!寝るんなら鍛えてタンパク質とってから!!」

「もー、ホント勘弁してよ、くるみちゃん……」

くるみに言われてやっとの思いで体を起こすと、隆玄は大きなため息をつく。

「合宿の後から真面目にやってなかった先輩たちが悪いんです!まだお腹の上にお尻で乗っかられないだけマシだって思ってください、わたしの先代の先輩たちまで、そういう意味の分からないトレーニングもあったんですから!」

「あはは、それはめちゃくちゃだな」

「お前……何で腹筋運動の後に笑えるんだよ、太陽……」

親友のタフさに引きながら、隆玄はプランクの姿勢を取った。


文化祭が終わり、本来であれば軽音楽部は三年生の紘輝は引退し、他の部員は来年度の準備などに勤しむ時期だが、今年は事情が違った。

まず、紘輝は実家の和菓子屋を継ぐという話を一旦保留し、東京にある専門学校のギター科を受験することになったため、年末に引っ越しの準備に入るまでの間は、今までと変わらず部室に顔を出して一緒に演奏することになった。

とは言えさすがに部長をそのまま続けることはせず、隆玄と太陽による厳正なジャンケン三回勝負の結果、二敗を喫した隆玄がそれを引き継ぐことになり、軽音楽部はメンバーこそ変わらないものの、ひとまずは新体制へと移った。

そして、何かと縁の出来た吹奏楽部からの誘いで、彼らの定期演奏会に手伝い兼ゲストとして、これまでそういった場のなかった合唱部と共に軽音楽部も参加することが決まり、今はその下準備として、くるみが中学校時代に所属していた合唱部の基礎トレーニングで全員のボーカリストとしての地固めをしながら、新しい曲の練習に入っていたのだった。


「はい、お疲れ様でした。よーく背筋伸ばしてくださいね」

「ぐああああ、やっと終わったー……」

全員で二百回目のバックエクステンションを終え、慣れた様子で背筋を伸ばすくるみの声に、紘輝が床の上にうつ伏したまま伸びる。

「冗談かと思ったら、マジで毎回やるんだもんなぁ……あー、きっつい……」

隆玄が必死で起き上がり、床の上を這って、机の上に置いてあった眼鏡をかけ直す。

「今までサボってたツケが回ってきただけだよ、まったく。去年から素直にやってれば、ここまで苦しむことはなかったんだぞ」

前屈しながら興津が半ば呆れたように言い放つ。

「そうよ、せめてわたしと一緒に合宿の後からやればよかったのに」

ジャージの上から制服のスカートを穿きつつ、祐華が兄を見遣る。

「逆に言えば、一か月でこのメニューについていける身体になれるということですから、本当に辛いのは今だけですよ」

「バレエで基礎が出来てるミチルちゃんに言われてもなあ……」

乱れた前髪を額から持ち上げて後ろに撫でつけ、紘輝がようやく起き上がる。

「まあまあ、とりあえず水分補給しましょう。むしろここからが本番ですよ」

「そうだな。こっからが俺のターンだ。よーし、やるか!」

ギターが弾けるというだけで元気が出たのだろう、太陽の励ましに紘輝はすっくと立ちあがった。


「先生がベース以外の楽器持ってるの、なんだか新鮮ですね」

興津が手にした左利き用のエレアコを、くるみは興味深げに見る。

「牧之原が髪の毛を縛ってるのもな」

彼はそう言うと、指で弦を撫でた。

「アコギなのに、シールド用のジャックついてるんですね」

「これもエレキギターやベースと一緒でね、一応スピーカーで音量を大きく出来るんだよ。生音の音量はほとんど変わらないから、家で練習するときはやっぱり気をつかうけれどね。まあ、そもそもベースばっかり弾いてるから、これも久しぶりに出したんだけど」

「へー……」

彼女は得心したように彼の手元を見つめ続ける。

「……弾いてみる?」

「……ちょっとだけ」

くるみがそう言って興津を見上げると、彼も嬉しそうに笑った。


くるみと興津が極秘で交際を始めてから、一月半が経った。

合宿の日に想いを伝えあったときに約束したとおり、二人は徹底して周りの人間にそれを悟られないように過ごしていた。

興津は今まで通りくるみを特別扱いせず、彼女に自分から触れるようなこともなく、他の生徒にもそうするように必ずひとり分の距離を開けて接している。

くるみもやたらと彼に馴れ馴れしくしたり、くだけた言葉遣いで話しかけることはしないで、あくまで教師と生徒の線引きの中で振舞っていた。

もちろん、個別チャットやメールアドレスの交換もしていないし、手紙を渡したりというような、文章や形に残るようなことも一切していない。文化祭のステージの後に撮った画像が一枚、くるみのスマートフォンのお気に入りフォルダに入っているだけだった。

ただ、時折部室で二人きりになった時、指を絡ませて手をつないだり、隣の閉め切られた空き教室の中でほんの刹那抱きしめ合って、お互いの気持ちを確かめることはあった。

それ以上のこと――キスは絶対に卒業までしない、という約束を、二人は固く守っていた。

そも、それなりに親しくしているだけでも、誰かに怪しまれたら非常に危ないのだ。

お互いの身を護るためにも、くるみと興津は絶対、自分たちの関係を余分に深めようとはしなかった。


そんな息が詰まるような、しかしそれゆえに熱をはらんでふくらむ恋心は、却って二人の想いを強固にしていく。

文化祭の後に突然告白してきた数人の男子生徒を、くるみは『彼氏がいる』とけんもほろろに突っぱね、興津も自分に妙に近づいてくる女子生徒たちに警戒し、必要以上に距離を取って接している。

普通の恋人同士のようにふるまえないこと、明るみに出れば双方ともに大きなダメージを被るような危険な関係だということをわかっていても、容易く心移りなどしようがないほど、二人の心は強く結ばれていた。

当たり前だが、祐華やミチルにさえ、くるみは彼との関係を明言せずにいた。

二人が自分のことを応援してくれていることはよくわかっていたが、話は誰から漏れるかわからない。とても申し訳ない気持ちではあるのだが、興津の立場を守るためにも、それは自分の中で絶対に崩さないと決めたラインだった。


くるみにとって興津は、自分の人生を光の差すほうへ導いてくれた存在であり、興津にとってのくるみは、自分の心の傷と闇を全て一緒に背負ってくれた、唯一の人間だった。

お互いがなにものにも代え難い人だという確信があるからこそ、二人はプラトニックな関係を保って交際を続けることができている。

ほとんど命懸けと言ってもいいほどの覚悟の上に、この恋は成り立っていた。


それでも、部室の中でさり気なく触れ合える機会があれば、彼も彼女もためらわなかった。


肩からストラップを外して、興津はエレアコをくるみに手渡すと、今度は背中側から彼女の身体にそれをかける。

ミントグリーンのシュシュで縛られたくるみのなめらかな黒い髪を、ストラップと背中の間に挟まらないようにそっと抜くとき、興津は誘惑に抗えず、誰からも見えないように彼女の白いうなじを指先で撫でた。

「!……」

くるみの細い肩が竦んで、頬を染めた愛らしい顔が彼を振り向く。

「ああ、……ごめん」

「いえ……」

彼女が嬉しそうに微笑んだのを見て、彼は安心した。

「ギター、持つの初めてかな?」

「はい」

「じゃあまず椅子に座ろうか」

彼はそう言って椅子を一脚持ってくると、くるみに座るよう促す。

彼女はそれに腰かけると、次の彼の言葉をおとなしく待っている。

「ボディのくぼみを左の脚に合わせて、右手でネックを持って、左手はホールの上に置いて」

「えっと……」

耳慣れない単語に戸惑うくるみの背中から、興津は覆いかぶさるようにして手を添える。

「こう。右手はネックを下から支えて、だいたい45度くらいの角度で前に出すんだ。で、左肘をボディの上に置いて、ここで弦をはじいて音を出す」

「はい」

胸元に抱いたくるみの頭と、やわらかな手の感触に、彼の心は凪いだ。

彼女もなされるがまま、興津の腕の中で彼の手に自分の手を預けている。

「まずは開放弦で弾いてみようか。そのまま左手の親指の腹で、上から順に弦を弾いて」

彼がそう言って身体を離すと、くるみはおそるおそるといった体で一本ずつ弦を弾いた。

「……ギターの音がしますね」

「当たり前だろう、これでピアノの音がしたら大変だ」

中身のない感想と、仕様もない冗談に、二人は互いに顔を見合わせて笑う。

「君は利き手が一緒だから教えやすくて助かるな。次はコード弾きしてみようか。まず、人差し指でここを押さえて。指は寝かさないように、しっかり立てる。で、中指と、薬指がここ」

指を一本ずつ取って動かし、Cコードの形に押さえさせて、

「はい、これで左手を動かすんだ」

解放すると、彼女の左手は勢いよく全部の弦を鳴らした。

「……なんか、微妙な感じ……」

「ははは、六弦は弾かない方がいいんだけどね、まあ、上出来上出来。ここまでにしておこう、お疲れ様」

「ありがとうございました、弾き語りはピアノだけにしときます」

「そう言うな、どうせそのうち授業でやるよ」

くるみから丁寧に渡されたギターのストラップを、興津はもう一度肩からかけ直した。

「まだ授業でやらないのか、弾き語り」

「今の先生はどうなるかわかりませんけど、前の先生はやらなかったですね」

「そうか。まあ、あの先生じゃそうだろうな。多分後期でやるはずだ、私も高校の頃に演った記憶があるからね」

興津はそう言って、綺麗に整えられた口髭の下に、いつもの癖で手を持っていく。

「へー、何弾いたんですか?」

「『津軽海峡・冬景色』だよ。思いきり小節を利かせて歌ったら、先生にドン引きされたっけ」

「あはは、なんか想像できないなあ、先生が演歌歌うの」

「そうかな、二次会のカラオケなんかではよく歌わされるよ。歌ってみると意外と楽しいし、小節はR&Bのフェイクという歌い方に通じるものがあるから、表現の幅を広げるためにやってみるといい。君なら余裕で出来るだろう」

「そ、そうですか?……じゃあ、今度カラオケ行ったときに試してみますね」

幸せそうに頬を染め、きらきらと笑うくるみに、興津も優しい笑みを返した。


「……あの二人、あの距離感で付き合ってないんだよな」

「どうだろねぇ、ホントのとこは二人にしかわからんよ」

傍目には完全に背中から興津がくるみを抱きしめているようにしか見えないギター講座の様子に、太陽と隆玄がひそひそと会話しながら疑惑の眼差しを投げる。

「いいよ、普段からあんな感じだったら問題だけど、部室の中だけだから言ってやるなって」

チューニングを終えたエレアコを肩から下げつつ、紘輝が苦笑した。

「ふふっ、禁断の恋よね。見てるわたしもどきどきしちゃう」

「笑い事じゃないよ祐華ちゃん、もしそうだったら、誰かに勘づかれた時点で先生もくるみちゃんも一発アウトだ。マンガやドラマじゃないんだからそんなお気楽なもんじゃないよ」

呑気に笑った祐華に、太陽が小さな声で釘を刺す。

「でも、ちゃんとお二人ともご自分の立場を弁えてらっしゃるみたいですし、わたしたちが詮索してあれこれ言うのも野暮というものですよ、先輩」

ひどく気をもんでいる様子の太陽を、やはりひそひそ声でミチルが宥める。

「そうそう、ミチルちゃんの言うとおりだ。部室しかいちゃつける場所ないんだから、そっとしといてやろうよ、太陽。君たちみたいに毎晩個チャで会話なんてできんだろうし?」

文化祭の後から今まで以上にミチルと睦まじくなった太陽を、隆玄がからかう。

「だっ……!ばっ、なんでいちいち俺に話を振るんだりゅーげん!!お前だって、清水さんと毎晩連絡くらいしてるだろ!?」

思わず大声になってしまった太陽が、隆玄の意中の少女の名前を出して抗議する。

「あっはっはー、残念ながらあの子、三日に一回しか返事くれないんだよなぁ、ま、定演の準備で忙しいんだろねぇ」

「……お前ら、俺にあてつけてねーか?」

二人の隣で、いまだ彼女の出来ない紘輝がふてくされる。

「まあまあ、お兄ちゃん。お兄ちゃんだって、花束の子がいるじゃない」

内心、自分がくるみの兄の慎とそれなりに仲良くなっていることに申し訳なさを感じながら、祐華が兄を慰める。

「あれなー……結局誰がくれたかわかんないのがなあ。カードも挟まってたけど、『あなたのファンより』としか書いてないもんで、探しようがなくって困るな……」

文化祭で自分を目掛けてステージに投げ込まれた花束の主を、彼は次の日からずっと探しているのだが、いまだに誰がそんなことをしたのかわからないままだった。

「なんか、先輩もマンガみたいなことになってますね」

「次は紫色のバラでも靴箱に入ってるんじゃないっすか」

「やめろよ、俺は花より新しい弦が欲しい」

「うわあ、ムードないわね。そういうこと言ってると見つかったとしてもフラれるわよ」

「でも、本当にどなただったんでしょうね。奥ゆかしいのか大胆なのか……」

彼らが謎の人物の正体についてわいわいと会話していると、

「みんな、チューニングは終わったか?」

いつの間にかエレアコを抱えた興津が彼らを見ていた。ギター講座は終わったようだ。

「「はい」」

「じゃあ、パート譜を持ってきたから全員に渡そう。藤枝がファーストで、島田は全部エレキでいいからサードを頼む。セカンドは私が弾くよ」

手にした楽譜を全員に配りながら、興津がパート分けをしていく。

「先生と一緒に演奏するの、久しぶりですねえ」

紘輝が楽しそうにパート譜を眺める。

「ライブ形式は新歓の時以来ですね。でも、弾き語りなんて俺にできるかな……」

「大丈夫だ、まだ時間はあるからみっちり仕込んでやるよ、島田」

「あの、お手柔らかにお願いしますね……」

興津の不敵な笑みに、腰の引けた太陽が苦笑いを返した。

「鍵盤は一度演奏してみて、どの楽譜を使うか決めよう。まずはストリングスとブラスから」

そう言いながら、興津はくるみに楽譜を渡す。

「ミチルちゃん、どっちやる?」

「そうですね、ストリングスにします」

「ベースがこれで、こっちがドラム。歌はあとで、みんな一緒に練習しよう」

「いやぁ、コーラスならまだ何とかなるけど、まさかボーカルでソロがあるとはなぁ。さすがにちょっと緊張するっすね」

「わたしも自信ないです……先生みたいにうまく出来るかしら」

「大丈夫、何よりもまずは演奏からだ。それさえできれば、君たちならすぐボーカルにも慣れるよ。あんまり気負わないでいいからね」

楽譜が行き渡ると、あっという間に部室の中は会話と試し弾きで賑やかになる。

「先生も歌うんですか?」

くるみがわくわくしながら興津に尋ねるが、彼は首を横に振った。

「生徒のやるこんに顧問がしゃしゃるのもどうかと思うから、遠慮するよ」

「なーんだ、残念」

がっかりしてため息をついたくるみを見て、

「いいじゃないですか、先生も歌いましょうよ」

紘輝が実に楽しそうに声をかける。

「そうそう、いい声してんのにもったいないっすよ、先生」

「ぶっちゃけ、俺らが失敗した時の保険になって欲しいです」

「身もふたもないこん言うなよ、島田」

全く自信なさげな太陽の発言に、さすがの興津も呆れ笑いする。

「あの、わたしも先生がいてくれたら心強いです」

「そうですよ、吹奏楽部も藁科先生が打楽器で参加されるようですし、いいと思います」

「うーん、でもなあ……」

祐華とミチルの言葉に彼は困りつつも、やはりそこは好きなことには違いはないせいか、かなり心が揺れているようだった。


つん、と興津の半袖のシャツの裾が引っ張られる。


「先生、歌いましょう?……一緒に歌いたいです、わたし」


肩の高さからじっと上目遣いに見つめるくるみの瞳に、

「……しょんない。全員に頼まれたんじゃあ、断れないっけね」

彼は照れくさそうに笑って、あっさりと陥落した。


承諾の返事が得られたことに、その場にいた全員が安堵と喜びに沸く。

「ほんと先生、くるみちゃんに弱いなぁ」

「絶対将来尻に敷かれるね、あれは」

その輪の中で、隆玄と太陽が小声でそう言ってくすくすと笑った。


そのとき、

「失礼します」

突然部室の扉が開き、くるみと興津は慌てて、近すぎた距離を半歩ずつ広げる。

「麗ちゃん!」

隆玄がその声にぱっと明るい表情で振り向き、嬉々としてそこに立っている少女――清水麗の名を呼ぶと、ひょいひょいと軽い動きで近寄る。

彼女はその隆玄の脇をすいと通り抜け、興津に向かって歩を進めた。

「もー、つれないなぁ」

「隆玄先輩に用はありません」

麗は半ば睨むように、自分より頭ふたつほど背の高い隆玄を見上げる。

「ははは、相変わらずきっついなぁ、俺なんかした?」

「別に」

麗は隆玄にそっぽを向いたまま、興津の前で立ち止まる。

「興津先生、藁科先生からの預かり物です」

そう言って彼女は紙束を差し出す。

「預かり物?これ、スコアか。……メドレー?」

「もしよかったら、って言ってました。赤で印を入れたところ、ちょうど六人分だそうです」

「清水、主語抜きで話をしないでくれ」

興津の苦笑に、麗はすみません、と言って肩をすくめる。

「要するに、軽音楽部も演奏に参加してほしいってことかな?」

「はい」

「うえっ!?だ、だからわたしピアノしか弾けないです!!何吹くですか!?」

「落ち着け、牧之原。いま確認するから」

隣で瞬時に動転したくるみの肩を笑いながらぽんぽん、と叩いて、興津は総譜に目を通した。

「……ビブラスラップに、エレベ、リコーダーに……フライパン?あとは鍵盤ハーモニカと……あれ、ここだけ指定が入ってる。島田、君はチューブラーベルでオーダーが来てるぞ」

「え……」

「どうした?」

「……いや、なんでも……」

太陽の顔は一瞬気色ばんだように見えたが、すぐに何かを思ったように暗く曇る。

「……今さら隠すこんもないんじゃないか、太陽?」

「そうですよ、先輩」

隆玄とミチルに促されて、太陽は興津を見遣り、なんとも言えない笑顔で答える。

「……俺がコンクールで演るはずだった楽器、チューブラーベルなんです。藁科先生、誰から聞いたのかな……」

「いいじゃん、良かったな太陽、リベンジできて」

隣に立っていた隆玄が、太陽の肩を抱く。

「チューブラーベルって、なんか前にどっかで聞いたな。何だっけ?」

「中庭ライブで演った曲の出だしに入ってた音よ。ほら、あのカーン、っていう音」

紘輝の疑問に祐華がすぐさま答えた。

「ああ、あれかー!のど自慢の鐘!」

得心を得た紘輝の言葉に、

「まさにそれだよ、これはのど自慢のメロディだ」

興津がそう返すと、軽音楽部員たちはきょとんとして一斉にそちらを見る。

「「えっ?」」

「この曲はテレビ番組のテーマ曲のメドレーだね、……ちょっと君たちにはなじみの薄いものが多そうだけど、親御さんたちには大ウケするだろうな」

ざっと読みこんで曲名を確認した興津は、総譜を閉じて懐かしそうに表紙を見た。そして、

「で、こっちは……」

そう独り言ちながら手の中にあったもう一冊の表紙を見ると、彼は途端に口元に手を当て、くすくすと笑いだす。

「ずるいなあ、藁科先生。これは絶対外さないやつだ」

「?」

彼のリアクションに、くるみたちは思わず側に寄って手元を覗き込んだ。

「そっちは演奏じゃなくて、別の方向で手伝ってほしいそうです」

「あー、なるほどね。……そういうこんか」

「……どういうこと?」

部員全員で頭を寄せ合い、そこに書かれた文字を読む。


「『ちょっとだけョ!全員集合』……?」


令和の高校生には不可解な昭和の単語が、そこには羅列されていた。

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