第26話

 休憩時間の半分が過ぎた頃、ステージの上はセッティングが完了し、くるみたちは軽く音出しをしていた。

(うふふ、先生とデュエットかあ……)

 先ほどの怒りはどこへやら、くるみの脳内はすでに興津と一緒に歌える喜びでいっぱいになっていた。

(卒業したら、カラオケに一緒に行って、いっぱいデュエット歌いたいな。手も繋いで、肩に寄り掛かったりなんかしちゃって、……時々、キスしたりして……)

 ふくらむ妄想に、顔のにやけは止まらなくなる。

(あと二年かあ、……長いけど、毎日こうして過ごしてれば、きっとあっという間だよね)

 舞台の下手側でエレアコのペグを微調整し、最終的なチューニングをしている興津の姿を見つめる。


 部活の後や放課後、彼と二人きりで話すときに、くるみは時折、彼が幼い子供のような目で自分を見ることがあるのに気が付いていた。

 八歳で両親も姉も失った彼の心には、大人になった今でも、家族に甘えきれなかった小さな少年がいるのだろう。

 もちろん、普段は彼が自分のことをリードし、導いてくれてはいるのだが、そんな幼い目をした時の興津はくるみの庇護欲と母性をいたく刺激してやまず、彼女はいつも彼を抱きしめずにはいられなかった。

(あんな顔する先生のこと、知ってるのはわたしだけ。わたしにだけ甘えてくれるんだ)

 思い起こした愛しさと優越感に、くるみの心は甘酸っぱい痛みで満ちていく。

 自分が確かに彼に必要とされ、大切にされていることが幸福に思える。

 そして、そんな二人の秘密の逢瀬が増えるにしたがって、初めて聴いたときから愛してやまない彼の歌声に以前よりも余裕が生まれ、より華やかで明るい響きを持つようになったことが、何よりも嬉しかった。

 今日はくるみにとって、そんな憧れの人でもある興津と共演できる貴重なステージだ。

(まさかステージで一緒に歌えるなんて、思ってもみなかったなあ……今日は特に楽しく出来そう。先生と一緒なら、きっといつもの何倍も楽しいよね)

 チューニングを終えて部員たちを見回した彼と目が合い、その柔らかで優しい顔に浮かべてくれたあたたかな微笑みに、くるみは自分も同じものを返した。


【間もなく開演となります。皆様、お席にお戻りください】

 吹奏楽部の部長の声が館内にアナウンスされる。

「よし。みんな、今日も楽しもう。演奏なんてちょっとくらい間違えてもいいから、堂々と歌え。特訓の成果を見せてやろう。頑張れよ」

 興津の掛け声に部員たちは、はい、と揃った返事をすると、それぞれの位置についた。


 上手側でエレアコを抱えた紘輝が、大きく深呼吸をして肩の力を抜く。

 ピンクのベースの1弦を最後にもう一度だけ弾いて、祐華が前を向く。

 微妙にハイハットの位置を直し、隆玄がスティックをスネアにおいて椅子から立つ。

 ワウペダルを軽く踏んで、モノトーンのギターのネックに太陽が手を添える。

 その前でキーボードの鍵盤を撫でたミチルが、楽譜を見直して小さくうなずく。

 そして、いちばん下手側でエレアコを肩から下げた興津が、マイクの位置を調整している。

(始まる……)

 くるみは小さく息を吐くと、自分の前に置かれたキーボードから手を離し、緞帳が上がるのを静かに待った。

 やがて客席のざわめきが小さくなり、明かりが落ちた気配がする。

 口の中にかすかに残る蜂蜜とレモンの匂いに、緊張感は溶けていく。

(よーし、今日も楽しもう!)

 演奏が始まる前の得も言われぬわくわくと緊張感が、文化祭の何倍も強く感じられた。


【皆様、お席に戻られましたでしょうか】

 リハーサル通り、緞帳の前で部長がマイクに向かってしゃべっている。

【それでは、第二部の開演となります。まず最初は、軽音楽部による、歌と演奏をお楽しみいただきます。それでは、軽音楽部のみなさん、よろしくお願いします】

 数秒の後、緞帳が上がり始め、客席が目の前に広がる。

 ステージに真昼のような明かりが落ち、目の前から温かい拍手が波のように押し寄せてくる。

(……あ、お父さんたちだ)

 先ほど飴を配って歩いたあたりの座席に見知った顔を見つけ、くるみは嬉しくなった。


 緞帳が上がり切る前に全員で深々とお辞儀をし、アイコンタクトを取ったあと、興津がスネアの上からスティックを取って構えた隆玄を見遣る。

 隆玄は余裕のある笑みを浮かべ、スティックを頭の上に掲げ、リズムを取る。

 三本のギターから流れ始めた音色に合わせて、ミチルのキーボードからピアノの音色が響き、隆玄のドラムがビートを刻み始め、祐華のグリッサンドがそこにばちっとはまる。

 最後にくるみのキーボードがブラスのサウンドで主旋律を叩き、『光るなら』の前奏が軽音楽部全員の手で紡ぎ出されると、客席がにわかに沸いたのがわかった。


 やがてくるみが歌い始めると、観客が少しずつ手拍子を取り始める。

 その後に続いて、半年前とは似ても似つかないしっかりした発声で紘輝がソロを綺麗に歌い上げると、最前列に座っている学校関係者が驚いたように顔を見合わせたのが見えた。

 再びくるみにボーカルが戻って、すぐにサビの前で彼女の声と興津の歌声が重なり、高らかなハーモニーが響く。

 サビを全員で歌うころにはもう、会場全体が手拍子に包まれていた。


(うああ、どうしよう、ホントに楽しい!)

 ミチルの透き通った声のソロから、祐華の伸びやかな歌声を聴きつつ、くるみは久しぶりのステージに興奮を抑えきれずにいた。

(お客さんもみんな、楽しんでくれてる……)

 太陽のハリのある甘い歌声にミチルの声が綺麗に合わさった後、また全員でサビを歌う合間に、くるみは家族のいる方の座席を見た。

 ライトが眩しくて表情まではわからなかったが、父も慎も智も、その隣に座っている莉里も、手拍子を打っている。

(やった!)

 なぜだか余計に嬉しくなって、祐華とミチルの後のソロを歌いながら、胸がぎゅっと熱くなるのをくるみは感じていた。


 隆玄が完璧にドラムを叩きながら自分のパートを歌い上げると、客席から驚嘆の声が上がる。

 それを受けながらまた全員のハーモニーを挟んで、再びくるみのソロから祐華とミチルが加わり、曲の最後に向けてボルテージは上がり続ける。

(もう終わっちゃう……もっと歌いたかったな、この歌)

 会場と一体になって盛り上がれるこの感覚が楽しくて、もっと感じていたくて、そして何よりも興津と一緒に歌うのが終わってしまう寂しさで、くるみは胸が切なくなった。

 それでもやってきた最後のフレーズを歌いきり、一曲目の演奏は終わる。

 客席から体育館で浴びた音量の倍はある拍手が聞こえて、くるみたちは肩で息をしながら顔をほころばせた。


 その拍手が落ち着いたころ、興津がスタンドからマイクを取って喋り始める。

「皆さん、初めまして。先に言っておきますが、わたしは生徒ではありません」

 興津の冗談に、どっと客席から笑いが起こる。

「我々が先ほどご紹介に預かりました、聖漣高校軽音楽部です。わたしはギターの人数が足りないので駆り出されました、顧問の興津と申します。……はい、あとは部長、なんとかして」

「え!?ちょっと、何でリハーサルと違うことするんです!?」

 マイクを通して客席に響いた隆玄の素っ頓狂な声に、観客と一緒にくるみたちも笑った。


 無茶振りに辟易しながら、部員の名前と次に演奏する曲名の紹介を終えた隆玄が再びドラムの椅子に戻ると、くるみはキーボードから離れ、マイクを持ってセンターに立つ。

 興津はいつの間にか舞台の下手に引っ込んで、エレアコを手にこちらを見ている。

 後ろではエレアコをストラトキャスターに持ち替えた紘輝がスタンバイし、ギターをスタンドに立てかけた太陽が、ステージの後ろ側に置かれていたパーカッションの台から拝借したタンブリンを手に元の位置に戻ってきていた。

(全部英語だけど、あれだけ練習したし、藁科先生に発音もみてもらったから大丈夫。自信持って歌おう)

 くるみはいつものように隆玄とミチルを見る。

 ツインテールの頭が揺れ、黒縁眼鏡の奥の目がうなずいて、出だしのブラシスティックの音の後、エレキピアノとやわらかなクリーントーンのギターが、『トップ・オブ・ザ・ワールド』のイントロを奏で始めた。


 つっかえることも歌詞を忘れることもなく無事に最後まで歌い上げると、客席から再び拍手が沸き起こる。

(よかった、上手く歌えたみたい)

 今日いちばんの大仕事が終わり、ほっとくるみは息を吐いた。

(あとは紘輝先輩たちにお任せだー、演奏に専念しようっと)

 彼女はお辞儀をすると、マイクをスタンドにセットしてからセンターに置き、紘輝と入れ替わりにキーボードの後ろに戻る。

 その間、大急ぎでタンブリンを元の位置に戻しに行った太陽に、また客席から笑いが起こった。


「それでは、僕たちが演奏する最後の曲になりました。もしも踊りたくなったら、隣の方にぶつからないようにご注意ください」

 紘輝がそう言って全員と目を合わせ、ハイハットで拍子を取るとすぐに『オドループ』の演奏が始まった。

 すっかり歓迎会の面影が無くなった男子生徒たちのしっかりした歌声と、キレを増した演奏のその合間、くるみが練習通りにMVと同じダンスを交えつつ舞台の下手袖を見ると、そこに戻ってきたパーカッションの吹奏楽部員がマレットを持ったまま踊っているのが見えた。

 客席に目をやると、そちらでも小学生と思しき何人かの子供が通路に立って踊っている。

(やっぱり楽しいな、音楽って)

 これを一生の仕事にしたいとまでは思わないが、みんなで一緒に演奏し、観客を沸かせることは本当に楽しい。

 中学校の合唱コンクールの時に浴びた、ただの礼儀でしかない拍手の味気なさを知っているだけに、観客が本心で音楽を楽しんでいる今の空気は何物にも代えがたかった。

(ああ、もうすぐ終わっちゃうんだ……)

 この熱気が消えてしまうことがいつものように寂しくなるが、

(でもまだ今日は、この後、もうちょっとだけ演奏できるんだよね)

 それを思い出して少し得した気分になる。

(残りも最後まで、みんなと一緒に楽しもう)

 最後の音を鍵盤で叩き、思い切りアドリブでグリッサンドを決めると、客席から目いっぱいの拍手が贈られた。


【軽音楽部の皆さん、ありがとうございました】

 舞台の下手側に部長が現れ、アナウンスが始まる。

 くるみたちは雨のような拍手を浴び、吹奏楽部の男子部員に手伝ってもらいながら、ステージから撤収した。

(そうだ、この後、先生の出番があるんだっけ)

 そこに興津の姿がないことに少々がっかりしつつ、

(先生、かわいかったなあ)

 リハーサルの時、目いっぱい照れながらも一生懸命に演奏を盛り上げていたことを思い出し、くるみはくつくつと笑った。


「みんなー、こっちに楽器寄せといてだってー」

 控えめなボリュームの隆玄の呼びかけに、キーボードの脚を持ってくるみはそちらに向かう。

 楽器とアンプを下手側の袖の隅に寄せると、くるみたちは全員、袖からステージを眺める。

 舞台の上には吹奏楽部員が戻り、スタンバイを終えている。

 そこに藁科ではなく、まだ若い、明るい髪色の女性教員が白いブラウスと黒いロングスカート姿で現れ、会場から拍手が起こる。

「巴先生、あの髪色よく何も言われないよな。俺、初めて見た時びっくりしたっけ」

「まぁ、どんだけ派手な格好してても、授業さえちゃんとできればいいんじゃないのかねぇ、うちの校風的に」

 太陽と隆玄が拍手に紛れて会話を交わす。

 アッシュベージュにピンクのインナーカラーが入った髪をざっくりとこなれた雰囲気で編み込んだ巴弥生やよいは、堂々と指揮台の上に立ち、客席に向かってお辞儀をした。

「皆様はじめまして。聖漣高校吹奏楽部、副顧問の巴です。……えー、これから演奏する曲は、お父さんお母さん、それからおじいちゃん、おばあちゃん世代には、とても懐かしいかもしれません。みなさん、昭和に戻ったつもりでお楽しみください。まずは本日、特別ゲストの皆さんをお呼びしております。それではご登場願いましょう」

 巴はそこでマイクを置いて、部員の方を向き、すっと両手を上げる。

 そして素早い動きで四拍子が刻まれた後、管楽器とドラムが元気よく、ある年代より上の人々にはたまらなく懐かしいメロディを奏で、会場がどよめいた。

 それと同時に客席後方の扉にスポットライトが当たり、そこがぱっと開いたかと思うと、色とりどりの法被を身にまとった男性五人が通路を走り抜けて舞台に上がり、客席は歓声と大爆笑に包まれた。


「あっはっは、何回見てもおもしれーな! 超ウケる!!」

「あははは、ほんとこういうの似合わないわよね、興津先生!」

 リハーサルの時よりも無遠慮に、紘輝と祐華が往年の五人組お笑い芸人の格好をした興津を見て大笑いする。

「ふふふ、テレビだったら完全に放送事故ですよね、これ……!」

 本人がそばにいないのをいいことに、ミチルも辛辣な感想を述べながら、涙を浮かべて笑いを堪える。

「前にドラマで見たけど、教頭先生の役が本当は一番身長高いんだっけ?」

「そうそう。年齢的には一番年上だから合ってるのかもだけど、いっそ藁科先生でも良かったんじゃないかねぇ。オンタイムで見てたのって、あのくらいの歳の人たちだろ?」

「ていうか、たぶん自分があの格好するって思ってなかったんだろうな、曲選んだ時点では」

「完全に顔に出てるもんなぁ、面白すぎ」

 太陽と隆玄も好き放題言いながら、紺色の法被を着た吹奏楽部の部長の隣で居心地悪そうに佇む、オレンジ色の法被姿の藁科を見遣ってげらげらと笑う。

「だめ、ほんと、先生って、全っ然ピンク色、似合わなさすぎる……っ!」

 くるみは興津の姿を見て、別ベクトルでこみ上げる笑いに身体を震わせる。

 楽しそうに客席に掛け声を促し、いきいきとリーダー役を演じる瀬戸と、愛想よく客席に手を振る、水色の法被を着て黒縁の伊達眼鏡をかけた古和土の合間で、実に所在なさげに立っている興津が面白いやら可愛らしいやらで、彼女は彼らが吹奏楽部の演奏するメロディに合わせて『北海盆唄』の替え歌を歌い終わるまでの間、情緒がぐちゃぐちゃになったままだった。


 笑いの止まらないくるみたちの合間を抜けて、二人の合唱部員が白い衣装を着けてステージに躍り出て、ドラムとパーカッションをBGMに早口言葉の掛け声で客席を沸かせる。

 その二人の間のマイクの前へ、瀬戸と古和土に押されるようにして、興津が立った。

「リハーサル、思い切り噛んでたけど、大丈夫かしら」

「どっちみち面白くなるから大丈夫だろ」

 祐華の全く心配していない心配の言葉に、紘輝が笑いながら答える。

(先生、がんばって!)

 若干ヤケになって踊っているように見える彼の姿を、くるみははらはらしながら見守った。

 そして案の定、盛大に噛んだ興津に、会場から大爆笑が起きる。

「あー、やっぱり失敗してしまわれましたね」

「普段のんびり喋る人だもんなぁ、早口言葉、苦手で当たり前か」

「リハより噛んでたね」

 ミチルの言葉に隆玄と太陽が苦笑いしながら、掛け声で失敗をごまかす興津に拍手を贈る。

(先生、緊張しやすいもんね。……テンパってるとこも可愛くて、好きだなあ)

 もはや幼い子供の母親のような気分で笑いつつ、くるみも彼に拍手する。

 そして彼がスポットライトから身を引くと、後ろからヘリウムガスの缶を持った藁科がぬっと現れ、甲高い声で歯切れよく早口言葉を喋り、客席をさらなる爆笑の渦に巻き込んだ。

「あははは、ちょっとまって、これリハになかったじゃん!!」

「藁科先生、実はノリノリなんじゃねーか!?」

 くるみたちは矢も楯もたまらず、腹筋が痛くなるほど笑う。

 台本になかった出来事に、吹奏楽部員も必死に笑いをこらえて演奏を続けている。

 指揮台の上の巴も肩を震わせて、藁科を見ないようにしている。

 その藁科を押しのけるようにして、テナーサックスを手にした部長がライトの中で早口言葉の本来のソロをきっちり決めると、観客から感嘆の拍手と口笛が贈られた。


 曲目は進み、異様な高クオリティに仕上がった『盆周り』が会場を沸かせ、『Do Me』に合わせて付け髭をした吹奏楽部の三年生がフラフープを三本同時に回し、大喝采を浴びる。

 その後、瀬戸の少し調子はずれな『東村山音頭』に続けて、アップテンポの『いい湯だな』を五人全員が歌いながら、「風呂入れよ!」「歯ぁ磨けよ!」「宿題やれよ!」と教員たちが順番に合いの手を入れつつ曲はフィナーレを迎え、へとへとに疲れるほど笑ったメドレーは幕を閉じた。


「みなさんすみません、自己紹介が遅くなりました。私(わたくし)、聖漣高校で教頭をやっております、瀬戸と申します。本日はお集まりいただき、誠にありがとうございます!」

 息を切らせた瀬戸がステージのせりで頭を下げると、客席から温かな拍手が起こる。

「……あ、次、俺らも演奏するんじゃん、用意しないと」

 瀬戸が一緒に演じた教員と生徒を紹介する声を背に、軽音楽部員は舞台裏に引っ込むと、それぞれが次の曲で演奏する楽器を手にして再び集まる。

「もう一回チューニングした方がいいかしら……」

「大丈夫だよ、まだ弦緩めてないだろ?」

 ベースのストラップを体にかけつつ不安げな祐華に、太陽が声をかける。

「鍵盤ハーモニカ、人前で演奏するなんて小学校以来だなあ」

 短い吹き口を付けたピンク色の鍵盤ハーモニカを眺めて、くるみはしみじみと昔を懐かしむ。

「俺もリコーダーは小学校以来だな。まさか高校で演奏するなんて思わなかったよ」

 ソプラノリコーダーを指先でくるくると回しながら、紘輝が笑う。

「タイプライターは知ってましたが、フライパンとお玉も立派な楽器になるんですね。本当に音楽って奥が深いです」

 鉄製の真新しいフライパンとお玉を持ったミチルが、嬉しそうにそれを眺める。

「いやぁ、それにしても言い続けてみるもんだな。本当にビブラスラップが演奏できるなんて、俺、超嬉しいんだけど」

「お前どんだけ憧れてたんだよ、ビブラスラップ」

 すでにわくわくが抑えきれない様子の隆玄に、太陽が苦笑した。


「それでは皆様、ありがとうございました! 引き続き演奏会をお楽しみください!」

 瀬戸の元気な挨拶と一緒にまた拍手が起こり、藁科以外の教員が下手に退場してくる。

 その前から二人目にいた興津とくるみが目を合わせると、彼は照れくさそうに笑った。

(先生、お疲れ様。……あとでお話したいな)

 彼の側を通り過ぎて、くるみたちは本日最後の演奏に向かう。


 軽音楽部員全員が位置につくと、藁科が先程とはうって変わって落ち着いた表情で一人一人の顔を見た。

 彼は振り返ってマイクを取り、お辞儀をしてから喋り始める。

「さて、次の曲ですが、こちらも少し懐かしいラインナップのテレビ番組メドレーになっております。ご長寿番組と言われるものも様変わりして、昭和だけでなく、平成も遠くなってしまったなあという気がしますね。どうぞ皆様、平成に想いを馳せつつお聴きください。それから、この曲はほんのちょっとだけ、軽音楽部にも手伝ってもらいますので、彼らの活躍にもご注目ください」

 マイクを足元に置いた藁科が振り返って、両手を上げる。

 すう、と息を吸う音が周りから聞こえてくる。

 指揮台の上でごつごつした右手がリズムを刻むと、聞き覚えのあるアレンジで『おもちゃの兵隊のマーチ』が奏でられ始め、客席からは手拍子が始まった。


(こういう合奏、小学校の発表会が最後だったなあ)

 周りの音を聴きながら、くるみはふと懐かしい気持ちになる。

(お母さんがまだ元気だったころ、お父さんと一緒に見に来てくれたっけ)

 その時に演奏した曲のことはもう忘れてしまったが、自分を嬉しそうに見つめていた母の笑顔はよく覚えている。

花音かのん』という名にふさわしく、本当に母は、笑うと花のように美しかった。

(わたしが、お母さんによく似てるなら……わたしも先生に、お母さんみたいなきれいな笑顔で、笑えてたらいいな)

 ふとそう思って舞台の下手に目をやると、袖から法被を脱いだ興津がこちらを見ている。

(先生……)

 彼と視線が合ったような気がして、胸の奥が温かくなる。

(大好き。後でいっぱい、お話ししてね)

 くるみはほんの少しだけ微笑むと、楽譜に目を落とした。


『ああ人生に涙あり』の出だしで、練習の時から楽しそうだった隆玄のビブラスラップが、パーカッション側から聴こえてくる。

 自分の正面反対側に座る麗が、楽譜と指揮を交互に見ながら、真剣な、でもとても楽しそうな表情でクラリネットを吹いている。

 背中からはチューバとウッドベースが、隣からはサックスの音が身体を包み、華やかで高らかなトランペットとトロンボーンの音の中に、丸く柔らかいユーフォニウムとホルンが混ざり、時折ウインドチャイムがさらさらと耳を撫でていく。

(練習の時も思ったけど、こんなにたくさんの音がするの、楽しい)

 くるみはホールの中で響く様々な楽器の音に、うっとりと酔った。

 やがてチューバの手前に立っていた祐華のベースから、すっかり手慣れたグリッサンドが聞こえる。

(祐華ちゃん、本当に緊張しなくなったなあ)

 初めて部室で演奏した時の直立不動だった姿が、今では噓のようだ。

 振り向くことはできないが、彼女がリラックスして演奏に望んでいることは音を聴けばわかる。

(お兄ちゃん観に来てるし、今日はいいアピールになったんじゃないかな)

 今月の頭にようやく開催された、台風で延期になったお盆の花火大会に二人で行ったことを嬉しそうに報告してくれた祐華を思い出し、くるみは自分も嬉しくなって小さく笑う。


 演奏がすすんで、スポットライトがオーボエの生徒の横に座っていた紘輝に当たる。

 彼はすっくと立ちあがると、背筋を伸ばして『光と風の四季』の出だしのメロディを、グロッケンと一緒に間違えることなく吹き終える。

 ライトはそのまま横に移動し、メロディを引き継いだオーボエが、緩やかになめらかに音を奏で始めた。

(よかった。紘輝先輩、間違えなかった)

 練習中、数回に一度は妙な音を出して失敗していたのでそこはかとなく危惧していたが、本番に強いタイプの紘輝にとってはこちらの考えは杞憂だったかもしれない。

(わたしも責任重大だ、間違えないように気を付けよう。……ああ、だめだめ。自分で自分にプレッシャー与えたらいけないな。楽しくね、くるみ)

 うっかり緊張しそうだった心を落ち着かせて、くるみが息を吐いたあと、『Somebody Stole My Gal』が、ワウワウミュートを付けたトランペットとトロンボーンから放たれた。


 その後、シロフォンとマリンバが揃って料理番組のテーマ曲を演奏し始めると、ミチルが立ち上がってお玉とフライパンを掲げる。

(ミチルちゃん、めちゃくちゃ楽しそう……入学したての頃の雰囲気と全然違うなあ)

 東京生まれの東京育ちということに加え、幼稚園からずっと女子校の中で純粋培養されてきたおかげで、明らかにこの土地では浮いた存在だった彼女が、最近やっと自分と同じ、一地方の女子高生になったような気がしている。

(でも、そんなお嬢様が、何でこの街に引っ越してきたんだろ? 誰か親戚でもいるのかな?)

 くるみのこの場にそぐわない疑問は、ミチルの打ち鳴らしたフライパンの音で途切れた。


(……よし、そろそろ出番)

 曲の終わりが近づき、くるみはリハーサル通り、椅子から立ち上がるための心の準備をする。

(今日はこれが最後だから、うんと楽しもう。……懐かしいな、お母さんが元気だったころ、よくお昼食べながら見てたっけ)

 下手側に目をやると、木槌を手にした太陽がチューブラーベルの前に移動して、藁科の指揮をじっと見ている。

(元気よく、とにかく楽しく!)

 そう思って顔を上げると、藁科と目が合い、くるみは立ち上がる。

 同時に、太陽がチューブラーベルで、誰もが一度は耳にしたことのあるメロディを叩く。

 くるみは息を吸って、鍵盤ハーモニカの吹き口をくわえると、幼い頃の昼下がりに聴いた旋律を、マイクに向かって歌うような気持ちで吹き始めた。


 客席だけでなく、手の空いている吹奏楽部員も手拍子で演奏を盛り上げる。

(ああ、もう本当にこれで、しばらくはステージに登ることはないんだ……寂しいな……)

 無事に鍵盤ハーモニカのソロを吹き終えると、くるみは軽く頭を下げて着席する。

 曲の終わりを壮大な管楽器のハーモニーとティンパニのロールが彩り、とどめに太陽が合格のチャイムを叩くと、笑いと歓声の混じった拍手がステージの上に響いた。


 上手の袖から吹奏楽部員たちと一緒に退場し、くるみは大きく深呼吸をする。

 それと入れ替わりで、吹奏楽部のOBと思しき揃いのTシャツを着た人たちと、次の曲に参加する合唱部員たちがスタンバイを始める。

「くるみちゃん、お疲れ様」

「ん、祐華ちゃんもお疲れ様。……ていうか、ほんとに疲れた……」

 隣にやってきた祐華に返事をすると、くるみはあくびをする。

「よかったなー、誰も間違えなくって」

 リコーダーを片手に、紘輝が大きく伸びをした。

「たった一音でも緊張はしますね。それにしても、吹奏楽部の皆さんは、まだこの後もアンコールに備えて待機されるんですよね。すごい体力です……」

 フライパンとお玉を持ったままのミチルが、感心しきりといった風につぶやく。

「今夜はよく眠れそうだっけ」

「明日が日曜でよかったわ、学校があったら絶対遅刻よ」

「なんだか、やり遂げた感が凄いですね」

「楽しかったなあ、でも本当に疲れたー」

 くるみたちは口々に喋りながら、太陽と隆玄の待つ下手袖に舞台裏から回っていった。

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