第12話

長梅雨の隙間に訪れた金曜日の空は、海からの風に、蒸し暑く真夏の様相で晴れ渡る。

東棟と西棟に挟まれ、渡り廊下で囲まれた中庭には、広いステージが設置されていた。

つつましやかだが賑やかな会場のその脇では、生徒たちが衣替えしたばかりの夏服姿で待機している。

昼休みから放課後までを使って行われるこのライブは、前期のテスト前の息抜きにふさわしく、純粋な明るく楽しい雰囲気に満ちている。

先陣を切った演劇部のショートコメディはみんなを大いに沸かせ、なぜか文化部扱いで参加したダンス部のストリートダンスも生徒たちを熱狂させつつ、使われている音楽の過激な歌詞は、英語の教員たちを苦笑いさせていた。


「うああ、完全に野外ライブの会場……」

そのダンス部が踊りながら流す大音量の『Venom』を聴きながら、隅っこにある東屋のベンチでチューニングをする他の部員たちと一緒に、くるみはステージを見遣る。

「結構本格的だろ?」

太陽の言葉にこくこくとうなずくくるみに、

「ま、そんなに構えなくても平気だよ、気楽に気楽に」

隆玄が笑いながらひらひらと手を振る。

「俺も緊張したなあ、一年の時」

チューニングを終えた紘輝が思い出し笑いをしつつ、ストラップを体に掛ける。

「部員男だけなのに『レット・イット・ゴー』演らされたっけ。まあすげーウケたけど」

「うわ、懐っついですね!俺、小学校の運動会で踊りましたよ!」

和やかに談笑する紘輝と太陽のその横で、

「……そうか、あの曲が小学生のときか……」

興津が秘かにダメージを受けていた。


「祐華さん、大丈夫ですか?」

「うん、大丈夫。他の部の発表見てたら、なんか楽しくなってきたわ」

クリップチューナーを外してポケットにしまいながら、祐華がミチルに微笑む。

先ほど緊張のし過ぎで胃が痛い、と言っていたが、どうやらおさまったようだ。

「ミチルちゃんは慣れてるのね、さすが」

「いえ、わたしも久しぶりですから、心臓がさっきからどきどきしっぱなしです」

ミチルも頬をわずかに上気させつつ、笑顔を返す。

「くるみちゃん、まだ出番は先だし、こっちで座ってましょ」

「はへっ!?……あ、う、うん」

祐華の言葉にくるみはふらふらと歩き出して、すぐそばの段差にすとんと腰かけた。

「……めちゃくちゃ緊張してるな、くるみちゃん」

「なんか動きがからくり人形みたいになってるなぁ」

「リハの時よりパキパキだね」

上級生三人が、若干心配そうに彼女を見る。

「……」

くるみの様子を見かねた興津は、側に歩み寄った。


「牧之原」

「!……先生」

優しい眼差しに、くるみの心臓が余分に跳ねる。

「緊張してる?」

「……あはは、なんか、……こんなに本格的だって思ってなかったから……」

「そうだね。私もここに来てから、こんなイベントがあるなんて、って驚いたよ。こういうのは、私立ならではだね。公立の学校じゃあ聞いたこんがないっけ」

「ふうん……先生、前はどこで働いてたんですか?」

「……初任からずっと、県の西側の学校で教えてたんだけどね、ちょっといろいろあって、半年くらい休んでから、こっちに戻って来たんだ」

「そうなんですか……」


彼と会話を交わすうちに、くるみの身体から硬さが抜け、あることが思い出される。

『そうだ、今のうち』

彼女は制服のポケットからのど飴のスティックを出して、ひと粒口に入れる。

その動作の一部始終を見て、興津は嬉しそうに笑った。


練習期間の間、くるみと興津は適度な距離感を保ちつつも、緩やかにそれを近づけていった。

無論、くるみが何かルールに反することをした時――それは主に彼女が学校に化粧をしてきたことが、彼にもわかったときだったが――興津は決して彼女を特別扱いせずきっちりと叱ったし、くるみも興津の立場を思って、無意味な質問をするために職員室や準備室に押しかけることもせず、人前でむやみやたらと彼にまとわりつくことは避けていた。

しかし、部室となると話は別だった。

くるみは興津のことを恋する少女の目で素直に追い、時には彼の服の裾を引いたりなどして可愛らしく甘え、興津もまんざらではない様子でそれを受け入れていた。

部員たちもそれを特に咎めるでもなく、祐華とミチルは密かにくるみのことを応援し、上級生たちも、常に陰のあった興津の表情が目に見えて明るくなったことに安堵していた。


まるで、砂山に立てた棒を倒さないように少しずつ削っていくような心持で、二人は心の戒めを一目ずつ、日々の生活の中でゆっくりと解いていく。

どちらか片方が歩みを止めれば終わってしまうかもしれないという恐れを抱きつつも、きっとそんなことはないだろうという不思議な確信がある、だけどやはりどこか不確かで温かい想いを、二人は互いに何かを告げることもなく、一緒に育てていた。


「ねえ、先生」

「うん?」

「……卒業したら、先生のいた街へ、一緒にドライブしたいです」

中庭に響く音楽に紛れて、くるみは彼に未来のデートの約束を取り付けようとした。

「……まだ中間テストも終わってないのに、卒業した後の話は、さすがに気が早いぞ」

目を逸らして苦笑しつつも、申し出を断らなかった興津を、くるみは口の中で転がす飴よりも甘酸っぱい気持ちで見つめた。


『それでは、合唱部の皆さん、よろしくお願いします』

ダンス部がステージの上から降りた後、アナウンスが入って拍手が辺りから起こる。

くるみたちもそれに倣って手を叩いた。

壇上に上がった合唱部が、生徒の指揮で『モルダウ』を歌い始める。

『中学校で歌ったなあ……』

ふと合唱部での記憶が蘇る。

『でも、同じ曲でも高校生が歌うとやっぱり違う気がする。バスとテノールの声がすごくきれい。あの頃、変声期じゃないのに無理やりテノール歌わされてた男子もいたから、辛かっただろうなあ』

つくづく中学校での部活にろくな思い出がないことに、くるみは苦笑した。


隣に立つ興津を見上げると、彼は歌に聴き入っているようだった。

『本当に、音楽が好きなんだなあ』

彼の目はステージに立つ合唱部を、楽しそうに見つめている。

『でも、こんなに音楽が好きなのに、なんで音楽の先生じゃなくて社会の先生になったんだろ。……ベースだってあんなに上手いんだから、ミュージシャンになることだって出来たかもしれないのに』

この頃、ふとした時に心に湧く疑問を、くるみは混ぜ返す。

『何か事情があったんだよね、……多分、どうしようもないことが。そうじゃなかったら、こんなに才能があるのに、この街で学校の先生なんてしてないよね。……でも、その何かがなければ、わたしは先生に逢えなかった』

口の中で小さくなっていく飴を、ころころと舌先で弄ぶ。

『いつか教えてくれるかな。……知りたいな、もっと、先生のこと。昔の恋人の話とかも、してくれたりするかな……』

甘い飴が苦く焦げてしまったかのような痛みに胸の中が満ちて、くるみはため息をついた。


目線をステージに戻し、歌い終わった彼らに拍手を贈る。

続けて聴こえてきた歌の前奏に、

「あ」

くるみの緊張は一気にほぐれた。

『七時半のチャイムの歌だ』

小学校の歌集に乗っていたその歌を、彼女は一緒に口ずさむ。

ふと、隣の興津を見上げると、彼は目を閉じて何かに想いを馳せているようだった。

『……何だろう、すごく、寂しい顔してる気がする……』

くるみは歌うのをやめ、彼の端正な横顔に見入った。


目を閉じて、穏やかな伴奏と爽やかなハーモニーを聴きながら、興津はこの街に戻ってきた時のことを思い返していた。

『……懐かしかったな。久しぶりに、これを聴いたとき』


認知症が進行してから三年後、ステージⅢの癌も発症した祖父を受け入れてくれる介護施設は、この街にはなかった。

ただ一つ、自分が大学を卒業するタイミングで、県の西側の街にそれが見つかり、受け入れが決定したことだけが幸運だった。


人生で楽器に触らなかったのは、教員採用試験のための勉強をしていた時だけだった。

とにかく楽になりたかった。

孫である自分の顔も忘れ、汚物を投げつけ、時には暴言を吐くようになってしまった祖父の中に、優しくたくましかった昔の面影を見るのが辛かった。

時折祖母のことを思い出して我に返り、悲痛な声で泣き叫ぶ姿も見たくはなかった。

すべて忘れてリセットしたい。

あの頃はそんな思いだけで、必死に現状から逃れようと藻掻いていた気がする。


使う気になれなくてずっとそのままにしてあった事故の賠償金で、祖父に手術を受けさせてから施設に入れ、母の形見のピアノを売り、独りで住むには広すぎる家を跡形もなく潰した。

そこまでで投げ出してしまうのが一番楽になれたかもしれないが、やはり側を離れることはできなくて、住まいを施設と同じ街に移し、市内の公立高校で勤め始めた。

男子生徒には舐められて言うことを聞いてもらえず、女子生徒に気を遣いながら仕事をして、先輩に毎日説教され、くたくたになった後に祖父を見舞う生活が何年も続いた。

家に帰ってからも、食事をして、シャワーを浴びて、持ち帰った山積みの仕事を真夜中までかかってこなし、時折酒を飲んでから浅い眠りにつくだけの日々。

何も楽しいとは思えなかった。

たった一人生き残ってしまったことがあまりにも重すぎて、それでも自分が生きていなければ、家族が生きていたことさえもいつか忘れられてしまうことが悲しくて、ただ『死ねないだけ』の日々。

家族がいなくなったあの日からずっと、幸福は自分の手の届かないところにしかない気がして、生きていることがひどく虚しかった。

その暮らしの中でも音楽だけは手放せなくて、眠れない夜に、あるようで無い休日に、ほとんど毎日休まずベースとギターを弾き、全てを忘れて奏で続けた。

空っぽな自分に残っているものは、それしかないような気がした。


ある日、祖父の主治医に呼び出された。

癌が再発し、全身に転移したという話だった。

年齢的に手術には耐えきれないだろうという言葉に従って、そのまま看取ることに決めた。

罪悪感に襲われ、思い切って仕事を辞め、息を引き取るまでの数ヶ月、出来るだけ毎日祖父を見舞い、静かに見送った。

最期まで自分のことを思い出してはもらえなかったが、もうそれでいいと思った。

祖父の穏やかな死に顔を見て、自分の人生でなすべきことが、すべて終わった気がした。


参列者のいない祖父の葬儀と法要を済ませ、納骨のために生まれ育ったこの街にやってきた日、駅前のビジネスホテルに宿を取り、一夜を明かした。

いつも通りに眠りの浅い夜の後、七時には目が冴えてしまった。

顔を洗い、髭をきれいに剃り、着替えを済ませて荷物をまとめてから、籠った空気が鬱陶しくなって、ごくわずかにしか開かない窓を開ける。

そのとき、防災無線から朝の七時半を告げるチャイムが聞こえた。


目の前に、まるで走馬灯のように懐かしい景色がフラッシュバックした。

学校から帰るたびに温かく迎えてくれた祖母の声。

田んぼからトラクターで戻ってきた、日焼けした祖父の笑顔。

通学路でいつも見ていた、前を歩く姉のランドセルと、色とりどりの学年帽子。

玄関を出るときの『行ってらっしゃい』という、背中越しの両親の声。


気が付いたときには、涙があふれて止まらなかった。

家族との思い出が詰まったこの街に、戻りたいと思った。

リセットなどできない。

自分の中の大事なものは、すべてこの街にある。


そうして戻ってきて、今はもう耳慣れたチャイムを聴くたびに、興津は心に家族を思う。

自分が生き残ったことに必ず意味があるはずだ、と、毎日言い聞かせる。

それは、彼が自分を励まし、日々を生きていくための大事な儀式だった。


歌が終わると、興津は目を開けた。

その瞳が少しだけ潤んでいるように見えて、くるみの胸を言いようのない寂しさが刺す。

『先生、……泣かないで……』

くるみの視線に気づいた彼は、彼女の方を見て、いつもの笑顔を浮かべる。

「……いい歌ですよね」

彼女はそれだけぽつりと呟いて、彼を見つめる。

「ああ、いい歌だね」

彼も短く答えると、また目線をステージに戻す。

『……何を想ってたのかな……いつか話してね、先生』

くるみはさり気なく、彼に寄り添う距離を縮めてステージを眺めた。


合唱部の出番が終わると、ステージの上が慌ただしくなる。

「吹奏楽部の次は俺たちだから、そろそろ脇に行こうか」

紘輝の掛け声に、全員が立ち上がる。

「吹奏楽部、今日はなにを演奏するんすかね」

「この間、音楽室の前通ったとき、童謡っていうか、わらべ歌みたいなのが聞こえたな」

「あ、そういうのはアリなのね、あの先生……」

「そのままコンクールに流用できるタイプの曲かも知れないね」

「まあ、吹奏楽にはそんな曲があるんですね」

部員たちは言葉を交わしながら、ステージの脇へと進んでいく。

『全国行くんだから、すごいんだよね……でも、どんなにいい音楽でも、あの先生が関わってると思うだけで嫌な気分になるのは、どうしようもないなあ……』

くるみはもやもやとした心のまま、みんなの後をついていく。


あれから結局、自分の方は祐華と共に授業での扱いは相変わらず不遇なのだが、太陽が一喝してくれたおかげでミチルに対する付きまといは鳴りを潜めていた。

しかし、どうしても心にひっかかるものがいくつかある。

『……太陽先輩、まだ何か、わたしたちに話してないことがありそうな気がする』

いくら仲が悪くなったからと言って、コンクール直前にいきなり退部などできるものなのだろうか。

『そんなに大した楽器の担当じゃなかったって言ったって、そう簡単に替えが利くとは思えないし、太陽先輩はそんな無責任な人じゃない』

何より、この話を聞いたときの奥歯にものが挟まったような言い方が気になった。

『……本当は、やめたくなかったんじゃないかな……だって太陽先輩、音楽が大好きなの、よくわかるもの。そうじゃなかったら、剣道と両立なんてできないよね』

最近知ったことだが、彼はこの街にある剣道の道場の跡取り息子なのだという。おそらく自宅に帰れば、ギターの練習よりも剣道の稽古の方に時間を割く生活だろう。

そんな環境でもここまでギターを弾き込み、全身全霊で音楽を楽しむ姿は、たとえ今、吹奏楽部に彼がいたとしても変わらなかった気がしてならない。

『だからって、何か隠してるでしょ、なんて単刀直入に聴くのもなあ……先輩が話してくれるのを待つしかないか……』

くるみは居たたまれない気持ちを、大きなため息で吐き捨てる。


ステージを見ると、すでにティンパニやバスドラムが運び込まれ、おそらくそれを演奏するであろう生徒が真剣な顔でチューニングをしている。

『泣くほど苦しい思いしてまで、音楽を続ける意味って何だろう。なんであんな先生についていけるんだろう。そんなに全国大会に行くことが大事なのかな……わたしにはわからないよ』

思わず知らず、また大きなため息が出る。


「牧之原」

後ろから興津が声をかけてくる。

振り向いて彼を見上げると、何かを察したような眼差しがくるみを見ている。

「……言いたいこんはわかるよ。でも、ひとつだけ大事なのは、『音楽に罪はない』ってことだ。素直に楽しめとは言わないけど、耳をふさがないでいなさい」

「……はい」

くるみがこくりとうなずくと、興津は触れるか触れないかの距離で、そっと背中に寄り添う。

二人はそこから先は何も言わずに、スタンバイの進むステージを見つめた。


譜面台と楽器を持った吹奏楽部員たちが、それぞれの位置に付いた。

ステージの上での全体チューニングを終えると、下手側から顧問が上がってきて指揮台に立ち、お辞儀を済ませて拍手に背を向けると、さっと両手を上げて指揮棒を振る。

奏者が息を吸う音の後に、演奏が始まった。


それは、非常に小ぎれいにかっちりとまとまった音楽だった。

生徒たちも聞き入っているのか、あまりざわついていないように感じた。

『……きれいな音が出て、リズムが揃ってて、誰も失敗しない、それはそれでいい音楽なのかもしれない。でも……』

母のiPodに入っていた、昔のショパンコンクールの『英雄ポロネーズ』を思い出す。

『ミスタッチがあっても、あの演奏はとても楽しそうで、きらめいてた』

彼らの演奏からは緊迫感こそ感じられるが、そこを超えて何かが響いてくる感触がない。

きっと、間違えないようにということだけに集中しているのだろう。

『うっかりやらかしたら、それこそあの先生に、泣くまでいろいろ言われるんだろうな……太陽先輩が嫌になっちゃうわけだよ』

そう思って前に立つ本人を見ると、やはり気になるのだろう、ステージの上に目線を送りつつ、隣のミチルと顔を寄せ合い、小声で何かを話している。

『……そう言えば、最近この二人、距離近いな……ひょっとして、付き合ってるのかな』

太陽が自分たちの代わりにミチルを迎えに行った日から、毎日部室に一緒に来るようになったということは、おそらくそういうことなのだろう。

『いいなあ、お似合いだな。……わたしもあんな風に堂々と、先生と話が出来たらな……』

後ろに立つ興津の気配に寄り掛かりたくなった気持ちをぐっとこらえ、ステージを見る。

その時、クラリネットと思しき楽器のリードミス音がした。

『あああああ!!どうか今の人が、後であいつにいじめられませんように……!』

くるみはまるで自分がそうされるかのように怯え、心の中で必死に祈った。


『吹奏楽部の皆さん、ありがとうございました。続きまして、軽音楽部による演奏となります。準備が終わるまでしばらくお待ちください』

「うああ、いよいよだ……」

アナウンスに一度だけ心臓が大きく跳ねて、くるみは呻いた。

「なんだ、また緊張してきたのか?」

背中から興津に声をかけられ、ぶんぶんと頭を横に振ると、彼女は気合を入れ直す。

「大丈夫です!」

「そうか」

二人は刹那見つめ合うと、微笑みを交わした。


下手に揃った六人を前に、興津は教師ではなく、素顔の笑みを浮かべる。

「よーし、聖漣高校軽音楽部、今年度初ステージだ。みんな、思いっきり楽しんで来い!」

「「はい!」」

彼の言葉に全員が笑顔で答え、彼らはステージに駆けて行った。


エフェクターにシールドが繋がれ、スピーカーアンプのスイッチが入った気配がする。

電源を入れたキーボードが、音色を確かめながら叩かれる。

タムやハイハットの位置を調整するドラムの音が、後ろから聴こえる。

くるみは生徒会役員から渡されたマイクのスイッチを入れ、爪で引っ掻いて通電を確認してから、しっかりと握って前を向いた。

せりに転がしが置かれた簡素なステージの上から見た中庭は、思ったよりも広い。

しかし、もう緊張はしない。

背中越しに、一緒に練習してきた仲間がいる。

ここにいるのは自分一人だけではないのだ。

その確かな気配が、不安や恐れ以上の『わくわく』を連れてきてくれた。


『お待たせしました。只今より、軽音楽部による演奏が始まります』


口の中に残った、のど飴の甘さを飲み下す。

『大丈夫。みんなと一緒に楽しもう』

紘輝がお辞儀をしたのに合わせて、くるみも、そして他の部員たちも、客席に頭を下げる。

身体をふわっと拍手の音が包んだ。


ステージの袖に目をやると、こちらに拍手を贈る興津と目が合う。

微笑んでうなずいてくれた彼に同じ仕草を返し、くるみは後ろを振り向いて、まずは紘輝と、そして続けてミチルと太陽と、その奥の祐華、最後にドラムの椅子に座る隆玄に視線を送る。

眼鏡の奥の目が楽しそうに笑うと、長い腕が上に伸びて、スティックを打ち鳴らす。

紘輝のギターのアルペジオの後、くるみは最初の曲のコーラスをマイクに乗せた。


ほとんど記憶がないほど、無我夢中で飛び跳ねるように一曲目を歌い終えると、ステージ正面よりも、吹奏楽部の部員たちのいる下手側から大きな拍手と口笛が聞こえた。

『みんな、笑ってる……』

部員たちは片付けの手を止めて、こちらに手を振ってくれている。

彼らは顔を見合わせて口々に、懐かしい、とか、昔見てたよ、などと幼い頃の思い出を語り合ってもいた。

さっきまで強張った表情でしかなかった彼らの笑顔を見て、くるみの胸はいっぱいになる。

『よーし、次の歌も楽しもう!』

目一杯の笑顔と共に彼らに手を振り返してから、二曲目のリズムを取る。

太陽のファズがかかったギターに隆玄の軽快なドラムが乗り、祐華の堅実なベースと紘輝の歪んだギターがそれを追いかけ、すぐにミチルの華やかなオルガンが重なる。

くるみはその音に身体を預けて、『Hello!Orange Sunshine』のスキャットを歌い始めた。


生徒たちの間から、いつの間にか手拍子が聞こえる。

身体の中に消えない炎が点ったように熱が溢れ、あっという間に時間が過ぎていく。

祐華のベースが心地よく弾み、太陽のギターが安定感のあるリズムを刻む。

隆玄のドラムはいつもより手数が多く、上がりきったテンションをさらに煽ってくれる。

練習ではおとなしく決められた音だけを叩いていたミチルが、昂る思いのまま派手にグリッサンドを決める。

そして紘輝の、アドリブ交じりの見事なギターソロが高らかに響き、また拍手が起こる。

『ああ、終わっちゃう……もっと歌いたかったな』

ラストのスキャットを歌い終えて、練習と同じように曲の終わりにみんなで跳ねる。

シンバルの音と共に着地が決まった時、目の前からさっきよりも大きな拍手が飛んでくる。

くるみは思わず後ろを振り返った。

みんな、楽しくてたまらないという顔をしている。

部室で演奏している時よりも確かに、その表情は輝いていた。


演奏が終わり、再び辺りは拍手に包まれた。

全員がステージの前に出て、部長の紘輝を真ん中にして一緒にお辞儀をする。

『軽音楽部の皆さん、ありがとうございました』

アナウンスの後に身体を起こして、みんなで互いの顔を見合わせる。

まだ六月だというのに、全員が汗びっしょりになっている。

一つのことを全力でやり遂げられた達成感に、くるみたちの顔はほころんだ。


「みんな、お疲れ様」

ステージから降りてきた部員たちを、興津は満面の笑みで迎えてくれた。

「いい演奏だったよ、今までで一番の出来だ。聴いていて、とても楽しかったよ」

率直に褒めてくれる彼がたまらなく愛おしくなって、くるみは思わず抱き着いてしまいたくなる。

『だめだめだめ!人前人前!!』

その激しい想いに急ブレーキをかけながら、彼女は彼を見上げた。


「牧之原、楽しめたかな?」

いつもよりも数倍甘い微笑みで、彼は見つめてくれる。

「はい!」

くるみも彼に応えて、目いっぱいの笑顔を返した。


全ての演目が終わり、閉会の宣言がなされた後、軽音楽部員たちは機材を片付けるために、滂沱の汗を流しながら中庭と部室を往復していた。

『さっきの変な音出した子、泣かされてないといいな……』

多分今頃、音楽室では『反省会』が開かれているのだろう。その空気の恐ろしさを思うと、もうすぐ夏だというのに鳥肌が立つ思いだった。

『でも、わたしたちの音楽を聴いて、あのときみんな喜んでた。笑ってくれた。……確かに途中で音を間違えたりもしたけど、わたしの好きな音楽は、きっとこういうものなんだ。みんなで一緒に演奏して、誰かの心を明るく出来て、楽しい気持ちを共有できる。……それが、わたしの音楽』

くるみは前を向く。

スピーカーアンプを両手で重そうに運びながら、それでも楽し気に会話を交わす上級生がいて、二人してシールドを何本も抱えて歩きつつ、興奮でお喋りの止まらない祐華と、それに相槌を打つミチルがいる。

背中越しには、キーボードを抱えた興津の気配がする。

『みんなと演奏できてよかった。すごく楽しかった。……わたし、先生に出逢えて、本当によかった……』

スタンドの入った袋を肩にかけ直して、くるみはスキップするような心持で歩を進めた。

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