第13話
最後の荷物を持って校舎の奥に入ると、既に吹奏楽部員は校舎のあちこちで個人練習をしているらしく、ところどころから金管や木管の音が聞こえた。
通りすがった教室の中で、自分と同じ青いネクタイの一年生が、トレーニング用の重たいスティックを机に敷いたタオルの上に何度も打ち付けて、ドラムロールの訓練をしている。
その隣の教室では、サックスのリード部分だけを咥えて、ひたすらロングトーンを繰り返している少女がぽつねんと立っている。
『一年生はまだ楽器に触らせてももらえないんだ……厳しいな、吹奏楽部って』
くるみは彼らの心中を察して、少し同情してしまった。
この状況に比べれば、自分の環境は何と恵まれているのだろうか。
『うちは先生が「楽器はどんどんさわって上手くなれ」っていうタイプだから、余計にそう思うのかもしれないけど、なんだか吹奏楽部って、一年生のうちはぜんぜん面白くなさそう』
その一年生の中でもコンクールの選抜メンバーにいたということは、太陽はそれに見合うだけの技術があったのだ、と確信を持ったくるみは、だからこそ余計に彼の発言の違和感が、喉に刺さった魚の小骨のように、嫌な痛さで引っかかる。
『絶対変だよ、なんでそんな人が退部するのに、引き留めもしないのか……』
数歩先をミチルと並んで歩く太陽の背中を、くるみは釈然としない思いで眺めた。
「あー、重かったー!」
部室の床に先月買ったばかりのスピーカーアンプを置くと、紘輝がぱたぱたと手を振った。
「これで忘れ物はないな。じゃあ、少し休憩しよう」
興津の声にみんなそれぞれ、はい、と返事をする。
「わたしたち、飲み物買ってきましょうか」
祐華が一年生らしい発言をすると、興津はそれを止める仕草を返した。
「いや、いいよ、休んでなさい。今日は私がおごろう。みんな頑張ったからご褒美だ」
「「やったー!」」
部員たちはにわかにはしゃいだ。
それを見て、まるで父親のような顔をして微笑んだ興津が部室を出るのを、くるみは慌てて追いかける。
「先生、わたし荷物持ちします!」
「いいよ、牧之原。君も休んでなさい」
「だめです。ひとりで七人分持てないでしょ?」
遠慮するのをほとんど押し切るような形で、彼女は彼について行った。
二人が出ていったのを見て、紘輝がくすりと笑う。
「興津先生、くるみちゃんと話すようになってから、明るくなったよなあ」
「そうっすね。なんかたまーにどんよりしてて近寄りがたい、っていうの、減りましたもん」
隆玄が大きく伸びをして、首をぽきぽきと鳴らす。
「恋って人を変えるんだなぁ。な、太陽」
「!……なんで俺に話振るんだよ、りゅーげん」
「べっつにぃー」
けらけら笑う隆玄にうろたえる太陽と、隣で真っ赤になるミチルを交互に見て、祐華も笑う。
『太陽先輩とミチルちゃんもだけど、先生とくるみちゃんもお似合いよね』
自分も慎とそうなれればいいのに、と、彼女は自身のギグバッグを見やってため息をついた。
購買前に続く階段を並んで下りながら、くるみは興津に話しかける。
「ねえ先生、なんでヒゲ生やしてるんですか?」
「え?ああ、……これがないと仕事にならないから、かな」
「?」
首を傾げたくるみに、興津は苦笑しながら続ける。
「前に働いてた公立高校では生やしてないし、そもそも生やしちゃいけなかったんだ。でも、どうも私の顔には凄みがないらしくて、生徒を叱ってもなかなか素直にこちらの言うことを聞いてもらえなかったんだよ」
「あ、なんかわかります。先生すごく優しい顔してるから、甘えたくなっちゃうもの」
「……こら、大人をからかうんじゃない」
くるみの小悪魔的な言葉に目いっぱい照れたあと、咳払いをして興津は先を続けた。
「……で、ここで働き始めてから、ある日ふと思い立って伸ばし始めたんだ。そうしたら、そこそこ厳しい話も聞いてもらえるようになったし、この顔が自分の中でも何となくしっくり来て、それで今に至る、という感じだね」
「そうだったんですか」
「まあ、ここだけの話、三十過ぎたからちょっとカッコつけたかったのもあるよ。……さて」
そこまで話して、二人は自販機の前に立つ。
「全員スポーツドリンクでいいかな、途中で売り切れなければいいけど」
興津はそう言ってスラックスのポケットから財布を取り出した。
「ほらね、わたしが言ったとおりだったでしょ、先生」
胸元に三本ペットボトルを抱えて、くるみは階段を上る。
「わかったわかった、確かにそうだ」
片手に二本ずつ、ペットボトルの蓋のあたりを指で挟んで持ちながら、興津も隣を歩く。
「先生って、時々うっかりさんですよね」
「そうかもな」
「お手伝いできることあったら、遠慮しないで言ってくださいね。わたし、先生に頼まれたら何でもしますから」
二人でいられることが嬉しくてたまらない様子のくるみに絆され過ぎないよう、心の中で少しだけ自分を戒めてから、
「ありがとう。じゃあ、そのときはよろしく」
興津は出来るだけ素直に微笑みを返した。
「……さて、今後の活動についてだが」
飲み物を配ってからいつものように椅子を円座に組むと、興津がみんなを見渡して口を開く。
「とりあえず、疲れを取るために今週の土日は休みにしよう。そして、ここから先は九月の文化祭のステージに向けての練習がメインになる。去年もそうだったけど、私も他の先生方とバンドを組んで出演する予定だから、その練習のために夏休み中には少し時間をもらいたい。具体的に決まったらまた知らせるもんで、そのときは自主練を頑張ってくれ」
はい、とみんなが返事をする。
「セットリストは公序良俗に反しないものなら何でもいいから、自由に決めなさい。余程のことがない限り私たちの方と被らないとは思うけど、決まったら念のため見せて欲しい」
「先生っちのは、また当日までのお楽しみですか?」
紘輝が楽しそうに訊く。
「そうだ」
「今年はくるみちゃんがボーカルだから、まぁ絶対被ることはないでしょ」
「そうだね」
「うええ!?先輩っちも歌いましょうよ!!」
素っ頓狂なくるみの声が部室に響き、円座は笑いで満ちる。
「まあ、まだ時間はあるから、みんなじっくり考えなさい。夏休みに入る前までに決めてくれればいい。その前に中間テストもあるしな」
興津の言葉に、全員が我に返る。
「あ……忘れてた」
「そうだよ、あと二週間だよ……」
「ははは、君たちは大丈夫だろう、今から適当に詰め込んでも十分間に合うよ」
練習にかまけてすっかりテストのことが頭から抜け落ちていた祐華とくるみに、興津の教師らしからぬ励ましが飛んでくる。
「えー、そんな言い方しちゃっていいんすか、先生として」
「まあまあ、こういうとこが興津先生のいいとこじゃないか」
「それもそうすね」
「褒めてるのか貶してるのかどっちかはっきりしてくれ、二人とも」
隆玄と紘輝の発言に苦笑しつつも、全く怒った様子のない興津につられて、みんなも笑う。
その笑いの輪から一人外れて、ミチルが深刻な顔をしていることにくるみは気が付いた。
「……ミチルちゃん、大丈夫?どうかした?」
くるみが声をかけると、ミチルは我に返って彼女を見る。
「あ、ええ、……はい、大丈夫です。少し、さっきの疲れが出て……」
ミチルは眉根を寄せたまま微笑んだ。
「そっか。すごかったもんね、ミチルちゃん」
「うん、アドリブいっぱいでびっくりしちゃった」
「さすがだよねえ、踏んできた場数の違いを見せつけられた感あるよ」
くるみと祐華の誉め言葉に、ミチルは表情を変えることなくうつむいた。
「それじゃあ、簡単だが私の話はここまでだ。他に何かある人、いたらどうぞ」
「はいはーい、この後みんなで、打ち上げ行きましょうよ」
隆玄が元気に手を上げた。
「お、いいね。テスト前の最後の息抜きだな」
紘輝がその提案に即座に乗る。
「カラオケでいいっすよね。駅前の映画館のところで」
『……?』
不意に、隣に座る興津の身体がこわばったような気がして、くるみはそちらを見た。
そうして、彼の暗い茶色の瞳が何かに怯えるように忙しなく動いているのが目に入る。
『先生……?』
しかしそれは、見間違いだったのかと思うほどの速さで掻き消えてしまった。
「先生も一緒に来ませんか、折角だし」
太陽の言葉に、興津は首を横に振った。
「……私は遠慮するよ。そもそも、生徒とプライベートな交流を持つことは禁止だからね」
彼は無味乾燥な返答を返すと、椅子を片付ける。
「いいじゃないすか、他の部なんてガンガン顧問と生徒が一緒に遊びに行ってますよ?」
「よそはよそ、うちはうちだ」
「そんな、ちっちゃい子叱るお父さんみたいな言い方しないでくださいよ」
「……まあ、そのうちな。今日はこの後予定が入ってるから、どのみち無理なんだよ。悪いな、誘ってくれたのに」
『……なんだろう、すごく、……心が痛い……』
何が引っかかったのかはわからないが、彼の心に刺さっている棘のひとつが、自分にもちくりと刺し込まれたような気がする。
今まで見たことのない、深く重たい色に沈んだ目が、誰かに助けを求めているようにも思えて、抱きしめて慰めたい衝動にかられる。
『先生、……どうしてそんな、悲しい顔するの』
くるみは思わず、彼のシャツの袖を引いた。
「?……どうした、牧之原」
「いえ……」
それ以上何も言えないまま、彼女は彼を見つめた。
平静を装う興津の脳裏には、幼い日の恐ろしい記憶の断片が浮かび上がっていた。
『……駄目だ、あの道だけは、絶対に……』
映画館――その言葉を聞いただけで、いつも彼の心は、八歳のあの日に戻ってしまう。
楽しかった日々が途切れた場所。
自分の人生は、そこですべてが変わり、終わってしまった。
あの日あの場所で消えた家族の笑い声と、耳をつんざく姉の悲鳴が潰れていく音は、いつまでも脳裏にこびりついて剥がれない。
封じ込めた記憶が蘇ってしまいそうな予感に、彼は頭を横に振って、それを打ち消した。
「……早く、椅子を片付けなさい」
今の自分の笑みが空虚なのを分かっていて、彼はそれを懸命に張り付ける。
しかし、やっぱりそれを見抜かれているのだろう。くるみは彼の腕から手を離そうとしない。
「大丈夫。何でもないよ」
彼女にだけ聞こえる声でそう呟くと、シャツの袖をつまんだ指先を、反対の手で柔らかく握りしめる。
こちらを見上げるまなざしの優しさに甘えて、うっかり彼女を抱きしめて泣いてしまわないように、彼は懸命に踏みとどまった。
『……先生……』
今の自分に成すすべはないことを悟り、くるみはようやく手を離した。
それでも、どうしかして彼の心に触れたくて、
「あの、……ほんとうに、わたしにできることがあったら、言ってくださいね」
もう一度彼の腕を手のひらで撫でてから、くるみはそう言って微笑んだ。
「それじゃ先生、お先に失礼します」
「お疲れ様でーす」
「ありがとうございました」
部員たちは興津を残して部屋から出ていく。
最後に部屋を出ようとしたくるみが、彼の方を振り向いて心配そうに見つめる。
『……くるみ』
心の中で初めて彼女の名を呼んでみると、柔らかくて暖かい、それでいてひどく痛くて苦しい思いが胸に沸き起こる。
『僕のことを、そんなに真剣に受け入れようとしなくていいんだよ』
間違っても自分の中の重荷を背負わせてしまわないように、彼はいつものように笑って手を振る。
わずかに戸惑った後、返ってきた同じ動作と優しい笑顔を見送ると、彼は窓の方を向いて、あの日からわずかに引きずって歩く癖のついた右足を撫で、声を立てずに少しだけ泣いた。
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