第11話
『中庭ライブ』に向けての練習が始まって、三週間ほどたった。
初めのうちは慣れない授業と平行させるのに少し辟易したものの、四日も経てばおのずと生活リズムが出来上がり、くるみたちはどうにか勉強と部活の両立に成功していた。
しかしそんな折、彼らには危惧していたことが起きていた。
話し合いの日、うっかり部室の窓を開け放ったままバイオリンを演奏してしまったおかげで、その下で練習していた吹奏楽部員を見回りに来た件の音楽教師に、消去法でミチルのことがばれてしまっていたのだ。
初手から猫なで声でベタベタと接してきたことにさすがに危機感を覚え、授業以外の時間をミチルは出来るだけくるみたちと一緒に過ごしていた。
しかしそれでも常に彼女たちが側にいることも出来ず、今日ミチルはひとりで部室に向かわなければならないという、危険極まりない状況に陥っていた。
『どうしたらいいのかしら……祐華さんは日直で、くるみさんは体育館の掃除当番で遅くなるって……』
くるみたちが側にいても、いつも堂々と音楽室前の廊下で待ち伏せをして、通り過ぎる時にやにやとこちらを眺めてくることを思い出し、底知れない気持ち悪さを感じる。
『……怖い……』
幼稚園からずっと女子校で育ってきたミチルにとって、押しの強い男性は特にそれだけで恐怖の対象でしかない。親類にいる似たような人間から逃げたことがないわけでもないが、手練れ手管がわからない分、その人物と同様に上手くいなせるかもわからない。
『……でも、部室に行けば、先輩たちもいるし、……そこまで走って行けば、振りきれるかもしれない』
もしも腕でも捕まれようものなら悲鳴を上げればいい、と考える。が、
『……とっさのことで、声が出なかったら……』
すぐに別の可能性が脳裏をかすめ、また足を踏みとどまらせた。
その時、ポケットの中でスマートフォンが振動する。
慌てて画面を見ると、太陽からの個別チャットだった。
【さっきくるみちゃんと祐華ちゃん遅れるって連絡来たけど一人で部室来る感じ?】
慌てて返信をする。
【はい】
画面を眺めていると、既読がすぐ着いた後、数秒で返事が来た。
【迎えに行く 待ってて】
「あ、……支度しないと……」
大急ぎでカバンを背負い、楽譜を挟んだファイルをロッカーから出して鍵をかける。
太陽が迎えに来てくれるということにひどく安心して、脚から力が抜けそうになる。
それと同時にたまらなく嬉しくて、胸の奥が温かくなる。
『本当にお名前の通り、おひさまみたいな人……』
彼のはにかんだような笑顔が心に浮かんで、ミチルの頬は染まる。
やがてさほどの時間を置かずに、
「ミチルちゃん、お待たせ。行こうか」
教室の扉の側に、太陽が姿を現した。
「ありがとうございます、先輩」
「いいよ、お礼を言われるようなこんじゃない。もとはと言えば俺が原因なんだから」
太陽はそう言って苦笑した。
「そんなことありません。どのみちいつかはわかってしまうことでしたし、こうして側にいていただくだけで、とても心強いです。もしも、軽音楽部に入っていなかったらと思うと……」
本当に、ひとりぼっちだったら今頃何をされていたかわからない。
考えただけで身の毛がよだつ思いがして、ミチルは小さく身震いした。
ミチルが怯えた気配を感じたのだろう、太陽が話題を変えた。
「ねえ、そう言えばミチルちゃん、最近スピッツ聴いてるんだって?」
「はい。宿題をするときや、お風呂に入るときに聴いてます」
「……」
突然耳まで赤くなった太陽に、ミチルは小首を傾げる。
彼は決まりが悪そうに一つ咳払いをしてから、話を続けた。
「……えーと、それで、……何がお気に入り?」
「そうですね……『ときめきpart1』も『ロビンソン』も好きですし、『渚』もすてきだと思います」
「そっか。ミチルちゃん的には、割と昔の曲の方が好きな感じ?」
「うーん……なんて言うんでしょう、つかみどころのない歌詞が心地良い感じがして……」
「わかる。一個一個の単語でとらえると繋がらないけど、歌として全体像を見るとひとつの世界になってて、すごくエモいんだよね」
二人は語り合いながら、音楽室近くの廊下を並んで歩く。
そして、その先にいつも通りにある人影に、ミチルの足が竦んだ。
『……やっぱり、今日もいる……』
こちらに背を向けて不自然にうろうろする姿が、おぞましい化け物のように映る。
いつもだったらくるみたちと話しながら速足で通り過ぎる廊下が、まるで自分を食べようとする蛇の口に見えてくる。
と、その時、太陽の手がミチルの手を掴んだ。
「行こう。目を合わせないようにね。下向いて」
彼はそう言うと、ぎゅっと強く彼女の手を握りしめる。
「はい……」
怖いはずなのに、繋がれた手が嬉しくて、ミチルは戸惑いながら太陽の隣を歩いた。
二人で半分駆け足になりながら、音楽室の前を通り過ぎようとする。
すると、今日に限ってその男は二人の前に立ちふさがって、ミチルに手を伸ばしてきた。
「誰かと思えば島田、お前か。手なんぞ繋いで、不純異性交遊か?」
『だめ、気持ち悪い……!触らないで!』
音楽の授業が苦痛になるほどねっとりとしたいやらしい声を、ここで聞かなければいけないことがまるで拷問のようで、吐き気がする。
ミチルは視界に何も映したくなくて、ぎゅっと目を瞑った。
繋いだ手が解かれ、肩と背中が温かくなる。
ミチルの小さな身体は、教師から庇われるように、太陽の腕の中に抱き寄せられていた。
あまりに突然の出来事に、彼女は今しがた閉じたばかりの目を見開いて、彼の顔を見上げる。
「手がだめならこうすればいいですかね、セクハラ先生」
「なっ……」
まさか言い返してくると思わなかったのだろう、想定外の反撃をくらった相手は怯んだ。
「授業でひいきしまくって、女の子に付きまとって迷惑かけてる上、生徒の飲酒喫煙も取り締まれないあんたに、とやかく言われる筋合いはありませんよ」
ぎっ、と太陽の切れ長の目が眼前の男を睨みつける。
その人物が沈黙したのを確認してから、
「……行こう、ミチル」
彼は彼女の肩を抱き、その場から速足で去った。
階段の踊り場まで登ると、太陽は腕を解いた。
「……ごめん、思わず……嫌だったかな?」
彼は頭を下げると、ミチルの目を申し訳なさそうに見つめる。
「いえ、……」
ミチルは自分の頬が赤くなっていることに今さら気が付いた。
『……嫌なんて思わなかった。……とっても安心した……』
それを言葉にできず、ただ慌てて首を横に振る。
「そっか……」
太陽はほっとしたような、そしてほんのりと嬉しそうな笑みを浮かべる。
「あいつ、相手が格下だと思うと強く出るタイプだから、さっきみたいにやり返すくらいでちょうどいいでね。これで少しでも、付きまといが減るといいんだけど……」
「……でも、あのような言い方をされてしまわれては、先輩が……」
「気にせんでいいよ、大丈夫。俺、もう音楽の成績捨ててるし、それなり鍛えてるからフィジカルで負けることはないよ。そんなことより、ミチルちゃんの身の安全の方が大切だ」
慌てるミチルに、太陽は平然と答えた。
「先輩……」
「行こう。もうすぐ他の一年生と先生も来るだろうから」
「……」
そのまま「はい」と返事をしようとして、ミチルはふと、脳裏に引っかかった単語を思い出す。
「あの、先輩。さっき、『飲酒喫煙』って……」
ミチルの問いかけに、太陽の表情が凍る。
「……吹奏楽部、やめた理由って」
「違う違う、俺はそんなこんしてない。してたら退学ものだ。……」
太陽は少しの間考えてから、ミチルに向き直る。
「……言っちゃったからには、ミチルちゃんにも話しておこうか。でも、ひとつだけ約束して。他の人には、絶対に言わないで欲しい。これ以上、誰にも迷惑かけたくないんだ」
「……はい」
うなずいたミチルの手をもう一度取ると、
「歩きながら話そうか」
太陽はそう言って、ゆっくりと歩を進めた。
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