第29話
宴もたけなわといった頃、不意に吹奏楽部の座席の方が騒がしくなって、軽音楽部員たちはそちらを見る。
「巴先生、どうしたんですか!?」
周りの生徒たちがしゃがんだ輪の中で、顔を真っ赤にした巴が床にくずおれている。
「ちょっと、様子を見てくる」
くるみの背をさりげなくぽんぽん、と叩いてから、興津は席を立って巴に近づいた。
「大丈夫ですか?」
「……だめです、目が回って……」
興津の声かけに巴はそう答えると、後ろで支えている藁科の身体に倒れ込む。
「酔っ払ってるな、飲んだのか?」
藁科の問いに巴はかすかに首を横に振り、それを否定する。
「いえ……お茶、持ってきたんですけど、……飲んでたら、ぐらっと……」
今日に限って悪い勘が冴えてしまう興津が、彼女の飲んでいた飲み物のグラスを仰ぎながら鼻で息を吸うと、ウーロン茶の中に潜む安い焼酎のにおいが脳に届いた。
「!……ウーロンハイだ。……もしかして、これ持ってきてから、席を離れましたか?」
巴は力なくうなずき、
「デザート、取りに……」
そう言ってぐったりとしたまま目をつむる。
「つまり、……さっき、ここを生徒と巴先生が一緒に離れたときに、誰か酒を飲みものに混ぜたか取り替えたっちゅうこんかね」
瀬戸の発言に、その場にいた三人の教師の視線は同じ人物を捉えた。
「……あれ? もう酔っぱらっちゃった? なんだー、つまんない」
両手にビールジョッキを持った、すでにだいぶ出来上がっている様子の古和土が、ぐったりした巴を見て肩を落とす。
「……古和土君、これは……」
「いやあ、女の子って酔わしてみたくなるじゃないですか。どこまで飲めるかなーと思って試してみたんですっけえが、案外弱いんだなあ、巴先生。グラス半分でべろんべろんかや?」
古和土は全く悪びれることなく、周りにいた数人の生徒たちと大きな笑い声を立てる。
「……」
他の生徒の前だからと瀬戸が怒鳴り声を上げないように必死にこらえているのが、興津と藁科には手に取るように分かった。
「巴君、水は飲めるか?」
「……何とか……う、頭が痛い……」
極端にアルコールに弱いのか、巴は首まで赤くなっている。
興津は彼女の側にひざまずいて、水を取りに行った藁科の代わりに体を支えてやった。
(……何考えてるんだ、この人……)
興津は怒りを通り越して、純粋に古和土が怖くなった。
(マンガやアニメの中ならよくあることかも知れないけど、現実にやるか? 普通……)
すっと血の気が引いて、頭の中は極端に冷静になる。
(これで僕より年上なんだよな? いや、これは小学生レベルとか、そういう話じゃない。……この人はいったい人間の心や身体を、なんだと思ってるんだ?……こんな奴が、くるみを狙ってるのか……)
ぞわぞわと鳥肌が立つときの身体の震えを、興津は堪えきれなかった。
「……っ、気持ち悪い……」
藁科に水を飲ませてもらった巴の声に、興津は我に返る。
「ああ、ここじゃまずいですね。トイレ行きましょう。立てますか?」
興津と藁科は慌てて彼女を両側から支える。
「誰もいないといいけど。着くまで我慢してくださいね」
「私と興津君じゃ宙ぶらりんになってしまうが、しょんないな」
背の高い二人の肩に支えられ、爪先を床につけるような格好で、巴は引きずられていった。
晩秋の厳しい夜風が吹き付け始めた店の外で、
「……古和土、これは悪ふざけが過ぎるぞ。生徒がいるんだから飲むなっつったに、お前、店員に無理言って酒よこせっつったら?こういうのは俺らだけじゃなく店にも迷惑かかるんだ、大概にしろ」
「いやいや、ほんの冗談というか、親睦を深めるためのひとつの手段ですよ、そんな怒らんでも」
瀬戸の怒りに満ちた言葉を、古和土はへらへらと笑いながらかわそうとする。
「先生が若い頃だってあったでしょー、先輩に限界まで飲まされること。おんなじですよ、同じ。何なら代行代は俺が出しますよ、それなら文句ないでしょ?」
「大ありだ。おめえは何回注意されれば、こういう行動を改めるだ。さっきも生徒を泣かせてたし、どうしてこう、相手の尊厳を踏みにじるようなことをするだ? せっかく、三か国語話せる能力を最大限に活かす仕事してるだっちゅうに、そこだけどうにかならねえかしん」
「何言ってるんですか、俺はあの生徒に改善点をわかりやすく教えただけですよー。尊厳を踏みにじる、なんて言われたら心外ですね。誤解もはなはだしい」
「それをこんな席で言うこたあねえだろう。それに、こっちもおめえに改善点を何回も、わかりやすく教えているつもりなんだがね?」
『何回も』に力を込めて、瀬戸は酔いが回って無敵になっている古和土を睨んだ。
「はは、善処しまーす。……で? 今回何かお咎めはありますか? ないでしょう? だったら、巴先生の分もちゃんと代行代出しますから、それで手打ちにしてくださいよ、ははは」
「……いつまでも通用すると思うなよ、次は理事長先生に話ぃして、懲戒解雇だ」
これ以上話しても暖簾に腕押しだと諦めて、瀬戸はそう言い残すと、店の中に戻っていく。
古和土はその背中を眺めて首をすくめると、スマートフォンを出して代行ドライバーの番号を呼び出した。
「……いや、普通に引きますわ、それ。アルハラど真ん中でしょ」
古和土に対する評価がもともと低かった紘輝が、その底が割れた気配でぼそりと吐き捨てる。
食事が終わり、各々荷物を持って迎えを待つ間、興津はいたたまれず、訊かれるままに事の顛末を軽音楽部員に話したのだった。
「酔わせてどうするつもりだったのか、考えるとゾッとするな」
「本人はいじりとか遊びの一環だと思ってるっぽいのがヤバいっすね。そういうの、平成で消滅したと思ってたんすけど……」
太陽と隆玄が吐き気を催したような顔で、地面を睨む。
「女の敵ですね」
厳しい表情で麗がばっさりと切り捨てると、女子全員がうんうん、とうなずいた。
「巴先生、無事に家に着きましたかね?」
道路のほうを見やりながら、紘輝が心配そうに興津に問う。
「多分大丈夫だろう、アルコールはだいぶ抜けたはずだ」
あまり詳細を思い出したくない出来事に、興津はため息をつく。
「巴先生、かわいそう……明日には元気になるといいけど」
「席を立った時にお酒入れるのって、犯罪にならないのかな」
「傷害罪に該当しそうではありますけれど……」
それぞれに思案するくるみたちの間を、冷たい十一月の風が木の葉混じりに吹き抜けていく。
頭の上では薄い黄色の上弦の月が、周りの流れる雲にほのかな虹色を反射させながら、白い光を放っている。
車道を走る車のライトが、流星のように流れていく。
(こんな気分じゃなかったら、この景色を綺麗だって素直に思えるのにな)
興津の隣で空を見上げて、くるみは虚しさに肩を落とした。
そこに一台の白い軽自動車が入ってきて、くるみたちの近くで停まる。
さほどの間を置かず、運転席からスーツ姿の妙齢の髪の長い女性が現れ、こちらに向かって歩いてきた。
「麗、お疲れ様」
彼女は麗に向かって声をかけると、今度は興津を見て頭を下げる。
「あの、吹奏楽の顧問の先生でいらっしゃいますか? 初めまして。わたくし、清水麗の姉です。妹の麗がいつも、大変お世話になっております」
「ああ、いえ、私は吹奏楽部じゃなくて、軽音楽部の顧問で……」
姉の丁寧なあいさつに、興津は恐縮しつつも否定する。
「あら、軽音楽部? ということは、……たかはる君って誰?」
「ちょっと、お姉ちゃん!」
真っ赤になった麗の隣で、隆玄が思わず素直に手を上げる。
「ああ、キミね。いつも麗から聞いてます。とても優しくしてくれる、いい先輩だって」
「やめてよ恥ずかしい! わたしそんなこと言ってないでしょ!!」
「言ってるじゃない」
妹の言葉を意に介さず、麗の姉は言葉を続ける。
「診断書の件でも、お父様にはお世話になりました、ありがとうございます。よろしくお伝えください。……これからも仲良くしてやってくださいね。この子、いつもキミから連絡が来るの、スマホに張り付いて待ってるから」
「えっ」
「お姉ちゃん!!」
噛みつきそうな勢いで姉を睨みつけた涙目の麗の隣で、隆玄も顔を赤らめる。
「先生も、妹が何かとご迷惑をおかけするかと思いますが、よろしくお願いします。麗、私はあちらの先生方にもご挨拶してくるから、先に車に乗ってなさい」
女性はそう言うと、すたすたと店側に佇む藁科たちのほうに歩いて行ってしまった。
「……麗ちゃん、あの」
「全部嘘です!! お姉ちゃんの言うことなんて信じないでください!!」
何か言おうとした隆玄に凄まじい剣幕で突っかかると、麗はそっぽを向いてカバンを肩からかけ直し、
「お疲れ様です!」
そう言ってずかずかとその場から去り、姉の車の後部座席にさっさと乗り込んだ。
「お、お疲れ様……」
「……いや、うん、よかれと思ったんだろうけど、ね」
どちらの気持ちもわかる気がして、くるみたちは顔を見合わせ、ひたすら苦笑いを浮かべる。
「家に帰ってから、ケンカしないといいなあ……」
手を振りながら、くるみは眉根を寄せる。
「隆玄先輩、あとで清水さんに個チャで何か言ってあげてくださいね」
「……あー、なんて言えばいいんだろうねぇ、こういう場合」
祐華にそう言われても何も思い浮かばず、隆玄は頭痛を覚えて額を押さえた。
その後、祐華と紘輝の母、ミチルの家の運転手、助手席に瑠菜を乗せた太陽の母と、隆玄の父がそれぞれ迎えに現れ、興津にあいさつをしてから家路についた。
既に吹奏楽部員の姿もほとんどなく、店の入り口の近くで藁科と瀬戸が何やら話しながら立っているのが、オレンジの逆光に黒く浮かんでいるだけだった。
木枯らしになりかけた風を避けるように、興津とくるみは店の軒先まで移動する。
そこに佇みながら、彼女はふと寂しくなって、彼の身体にかすかに触れる距離まで身を寄せる。
「……先生、好き」
周りに聞こえないように、小さな声でくるみは呟いた。
「僕も好きだよ、くるみ」
同じ大きさの声で返ってきた彼の言葉に、くるみはふわりと心が温まる気がした。
「……今日はお疲れ様。朝からずっと動き詰めで大変だっただろう、よく休みなさい」
声のボリュームを元に戻し、興津はくるみにそう言って微笑んだ。
「先生もですよ、ちゃんと寝てくださいね」
「大丈夫。ありがとう、今日はきっとよく眠れるよ」
二人は顔を見合わせて小さく笑い声を立てる。
そしてもう一度声の大きさを落として、
「……先生と一緒に歌えて、楽しかったです」
くるみは満面の笑みを浮かべる。
「うん。僕も楽しかったよ。また一緒に歌おう」
「はい」
囁き合う声は、吹くほどに冷たさを増す風の音の中に溶けていく。
様々なことが起きすぎた一日の締めくくりを、甘く優しい気持ちで終われることに、二人は喜びを隠せない様子で見つめ合った。
そのとき不意に、くるみのスマートフォンがチャットの着信を告げる。
「ん? 誰からだろ……あ、伯父さんか」
何の気なしに画面をスワイプして開くと、そこにあった画像にくるみは思わず吹き出した。
「やだ、伯父さんファンサし過ぎ……!」
そう言ってくるみが差し出したスマートフォンの画面を見て、興津も笑ってしまう。
「ははは、ちょっと、これは……!」
そこには嬉しそうに指でハートを作る莉里の後ろで、とんでもない変顔をしている翼の姿が映っていた。
「ほんと、君の伯父さん、面白い人だね」
「こんなこんしてるから、いい年なのに結婚できないんですよ、まったく」
「その発言はこっちにも刺さるからやめてくれ」
「ふふ、ごめんなさい」
ひとしきり笑った後、二人はもう一度横並びになって、空を見上げた。
月は少しだけ西に傾いて、駐車場の車の輪郭を白く浮かび上がらせる。
やがて、店の前をひときわ強い風が吹き抜けたとき、
「……ねえ、先生。わたしが二十歳になったら、結婚してね」
くるみは隣の彼にそう言って、グレーのジャケットの裾をつまんだ。
「……考えとく」
風の音に紛れて返ってきた甘い言葉を、彼女は冷たい空気と一緒に胸いっぱいに吸い込んだ。
やがて、白いワゴンが一台駐車場に入ってきて、二人の前で停まった。
「あ、お父さんだ」
くるみは興津の腕をするりと撫でてから側を離れる。
「それじゃ先生、おやすみなさい」
「ああ、お休み。ご家族の皆さんによろしくね」
「はい」
二人は互いに手を振る。
(……やっぱり、罪悪感がすごいな)
ワゴンにくるみが乗り込むのを離れた場所から見ながら、興津はため息をつく。
くるみの父――牧之原朔太郎は、まさか娘が自分と恋愛関係にあるなどとは夢にも思わないだろう。
(いくら肉体関係がないとは言っても、恋愛は恋愛だもんな……本当に、間違っても一線は越えないようにしないと。たとえくるみから誘われたとしても、だ)
車内のライトがついたとき、運転席からこちらを見て小さくお辞儀をする朔太郎に、興津も微笑みを浮かべつつ会釈する。
(申し訳ありません。でも、お嬢さんのことは、僕の人生をかけて大切にします)
長い孤独の果てに見つけた、宝石のようにきらめく彼女を、決して傷つけないように。
車の中からまた手を振る彼女に自分も同じ仕草を返しながら、
(……くるみ、君は僕が守るから)
彼は気を引き締め直して、走り去る車を横目に瀬戸と藁科のいる方へ足を向けた。
「藁科君、あの二人どう思う?」
「は?」
少し離れたところで大笑いしている興津とくるみを見る瀬戸のやや厳しい表情に、藁科は顔が引きつったのをごまかそうと顎髭に手をやる。
「ちいと距離が近すぎねえかな」
「いや、私はそうは思いませんが」
とっさに否定してしまったのは、自分の中で何となく妻との関係を負い目に感じている部分があるせいだろうか。
(嫌なこと訊くなあ、ったく)
藁科は心の中で苦虫をかみつぶしつつ、
「……もっと生徒にちょっかい出してる教員もいるじゃないですか、例えば古和土君とか」
別の教員の名前を出して、ターゲットを逸らそうと試みた。
「あれはなぁ……本当に困った男だよ、懲戒くらっても、まだ懲りねえだかしん」
「十年以上教職についてる上に、何回も同じ内容の戒告受けてるんですから、いい加減自分がおかしいって気づきそうなもんなんですけどね……」
先ほど巴を自宅に返した後、自分の車の代行運転手に絡みながら後部座席に乗り込んだへべれけの男を思い出し、瀬戸と藁科は同時に深いため息をついた。
「……さっき泣かされてたの、あの子だっけね。ちらっと生徒が話してるの聞いたっけえが、なんか英語の発音がどうとかって言われたらしいな」
興津と並んで、親しげに会話を交わすくるみに、瀬戸は目をやる。
「ひどい話です。牧之原は練習中に何度も発音をチェックして欲しいと言って、私に教わりに来ましたよ。完璧とは言い切れませんが、十分外国人でも聞き取れるレベルです。プロのシンガーじゃあるまいし、高校生にネイティブの基準でものをいう古和土君が間違ってますよ」
風で舞う前髪を後ろに撫でつけながら、藁科は吐き捨てるように言った。
「何もこんな打ち上げの席でわざわざ言わんでもええらに……そういう空気の読めないところも困るなあ。……あの子、歌うのやめなければええな。泣くほどショック受けたのが心配だ」
ワゴンの中に乗り込んだくるみに手を振る興津を見ながら、瀬戸は腕を組んだ。
「周りの子たちが励ましてたから大丈夫でしょう。うちの部にもあの子のファンは大勢いますから、今回の件でかなり怒ってましたしね。巴君へのハラスメントといい、ほんとうにつまらんことで株を下げたと思いますよ、古和土君」
敢えて興津の名前を出さずに、藁科は話題を終わらせようとした。
「……それにしても、やっぱりあの二人、どうも距離が近え気がするな」
「そんなに気になりますかね……まあ、しょんないんじゃないですか。興津君も仕事だから、親身にならざるを得ない部分、あると思いますよ。今日は特にいろいろありましたし……」
結局話題逸らしに失敗し、藁科は思わずため息をついた。そして、
「そんだけならええんだけど。……おう、興津君、お疲れ」
くるみを見送った興津が二人の側に来て、そこで話題は途切れる。
「お疲れ様です。軽音楽部、全員引き渡しが終わりましたんで、私もお先に失礼します」
興津はそう言って頭を軽く下げる。
「お疲れ様、ちゃんと寝ろよ」
「はは、今日はさすがに寝ますよ。へとへとです」
いつものように心配する藁科に、興津はそれでも車の運転ができるくらいには元気な笑みを返す。
「気を付けて帰るだよ」
「はい。お二人もお気を付けて」
失礼します、と言って興津は自分の車へと去って行く。
(興津君、気を付けろよ)
いくつかの意味を含めて、藁科は興津の背中を見送った。
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