第30話

月曜日の朝礼後、

「すみません、土曜日は本当に、ご迷惑をおかけしました」

巴が派手な髪を揺らして、興津と藁科に頭を下げる。

「いえいえ、元気になってよかったですよ」

「そうだな。無事に帰れたようで何よりだっけ」

通常通りに出勤してきたことに、二人は胸をなでおろした。

「本当に申し訳ないです……お恥ずかしい……」

「巴先生は何も悪くないですよ」

「ああ。あの後犯人はきっちりお灸をすえられていたから、安心しなさい」

そう言って藁科は『犯人』の方に目をやるが、当の本人は謝りに来ようともせず、スマートフォンを眺めて何やら指を動かしている。

「古和土君。巴先生に何か言うことがあるんじゃないのか?」

藁科のドスのきいた声に、古和土はびくりと身体を跳ねさせると、さすがに無視を決め込むことはできなくなったのか、仕方がない、といった風情で立ち上がり、

「はは、ごめんっけねえ」

半笑いでそれだけ言うと、資料を抱えてそそくさと職員室を出ていってしまった。

「……」

「……」

興津と藁科は思わず顔を見合わせてしまう。

『……これが、謝ったら死ぬ病、ってやつか……』

さすがの興津も、呆れて何も言葉が出てこない。

二人は思わず大きなため息をつき、苦笑いをこぼした。

「……あの、本当にお気遣いありがとうございました。特に興津先生、……その、本当に申し訳ないです。服とか汚れませんでしたか?」

巴はもう一度頭を下げてから、トイレの中で世話をしてくれた興津を見上げる。

「大丈夫ですよ、ちょうどクリーニングに出そうと思ってたんで、都合が良かったです」

本当は戻って来たてだったのだが、興津の優しい嘘と笑顔に、巴はほっとしたようだった。

「また今日から、吹奏楽部の方もよろしくお願いしますね、巴先生。……さて、お二方は授業ですね。私もそろそろ始めないと」

そう言うと藁科は自分のデスクに戻っていく。

「我々も行きましょうか」

「……はい」

軽く微笑んで自分に背を向けた興津の姿を、巴は獲物を狙う目で見つめていた。


「くるみちゃん、ご飯の時くらい教科書読むのやめたら?」

「ううん、今後の高校生活がかかってるもん、少しでも勉強しないと」

いつもの階段に腰掛け、購買で買ったなかなかクリームにたどり着かないクリームパンを食べながら、くるみは英語の教科書を読み続ける。

「そう言えば組分けの小テスト、そろそろですね」

「そう。だから絶対、古和土先生のクラスに当たらないようにしたいの」

クリームパンのパン部分をもうひと口かじると、彼女は目をぎょろつかせて教科書を眺めた。


聖漣高校の一年生は、芸術と体育以外の各教科の習熟度や理解度に合わせて、前期と後期の間に二回ずつ行われる小テストがある。

最初の小テスト前はもともとのクラスに準じた組分けだが、それ以降はテストの成績の段階によって教師が固定されたクラス分けがされ、理解度の高い生徒はより高度で幅広い知識を身に付けられる内容の授業に、そして理解度の低い生徒は基礎から易しくわかりやすく教えてくれる教師に当たるシステムになっていた。

今のところ、くるみはほぼすべての教科で最上位かその一つ下のクラスで授業を受けている。特に社会科は満点に近い点数を定期考査でもキープし、最上位のクラスを受け持つ興津の授業をずっと受けることが出来ているのだが、それとは真逆に小学校の頃から苦手な英語はいつも一番下のクラスで、入学以降はずっと二組の最初の教科担任だった古和土の授業を受けていた。

『古和土先生と物理的に距離を取るには、英語を克服するのがいちばん近道だもんね』

やっとクリームに当たったものの、ぺしゃんこなそれにがっかりしながら、くるみは英単語を目で追う。

『前から苦手な先生だったけど、今回のことではっきりした。あの人、小学校のいじめっ子とおんなじだ。人を傷つけたり陥れたりすること自体がただ面白くって、相手の気持ちや身体のことなんて考えないんだ。そしてそれを悪いことだとも思ってない。……お父さんの書いた小説の犯人に、そういうのがいた。あれと一緒なんだ』

ふと視界に飛び込んできた『hurt』という単語に、鳥肌が立つ。

『……傷つく、傷つける、……』

打ち上げの時は周りに友達が、そして誰より興津が隣にいてくれたから、傷ついてもどうにか立ち直ることができた。

『でも、……一人きりだったら、立ち向かえるか、わからない……』

自分を覗き込んで、おもちゃを壊して遊ぶ残酷な子供のように笑った古和土を思い出してしまい、怖くなったくるみはぎゅっと目を瞑ると、それを振り払おうとして頭を振った。


「ねえ、気持ちはわかるけど、今からそんなに根詰めたら逆効果よ。あとで部活の時に、わたしとミチルちゃんでわからない所教えてあげるから、落ち着いて食べましょう?」

「そうですよ、焦ってもいいことないです。ひとりでやるよりも三人の方が捗りますよ」

「……」

祐華とミチルの言葉に、ちょうど集中力も切れてしまったくるみは素直に従うことにした。

「大丈夫よ、難しい英語の歌をちゃんと歌詞も理解したうえで、あんなに素敵に歌えたんだもの。くるみちゃんはやればできる子なんだから」

アップルパイの袋を開けながら、祐華が微笑む。

「苦手意識をなくすところから始めるといいかもしれませんね。……あの、そもそも、どうして英語だけダメなんですか?他の教科はちゃんとお出来になるのに」

チョココルネの細いほうをちぎりながら、ミチルが訊く。

「あ、ああ……うん……ちょっとね。大したことじゃないんだけど、トラウマがあって……」

その先を話すか考えあぐねて、くるみはコーヒー牛乳を一口飲む。

「なあに?」

「わたしたちでよかったら、お話ししてください」

二人に促されて、くるみは小さくため息をつくと、

「……あんまり気分のいい話じゃないけど、ごめんね」

そう断ってから言葉を続けた。


「……うちのお母さんのこと、二人とも知ってるでしょ?……そのお母さんが、もうすぐ息が止まっちゃうかもしれないって連絡が学校に来た日、その時受けてたのがたまたま、外国語の授業だったんだ。……だから、そこからはいつも、お母さんのことを思い出して、辛くって、やりたくないって思ってるうちに、どんどん勉強が遅れちゃって……」


しん、と静まり返ってしまった階段の踊り場の下から、教室のざわめきが聞こえる。

「……あはは、ごめん、やっぱり湿っぽくなっちゃったね。でも、今はだいぶ平気になったよ。もうそんなに思い出したりもしないし、受験もなんとか頑張れたし。うん。……」

慌てて取り繕おうとしたくるみの頭を、祐華の手が撫でる。

「……祐華ちゃん」

「ごめんね、なんて言ったらいいのか、わからないんだけど……」

戸惑うくるみの左手を、ミチルが何も言わずに両手でぎゅっと握る。

「ミチルちゃん……あ、あれ?」

突然両目からぼたぼたと涙があふれてきて、くるみは焦った。

「なんで……?あれ?……あはは、やだなあ、なんかわたし、思い出しちゃって……」

教科書の上にぱらぱらと、零れ落ちる雫が水玉模様を描く。そして、

『……ああ、そうだ。あの日、……あんなことがなかったら、……』

いちばん思い出したくなかった記憶が蘇って、くるみは悔しさに唇を噛んだ。


「……間に合わなかったんだ。……お母さん、最期は独りぼっちだったの。……お父さんだけでもいいから、側にいてあげればよかったのに、わたしなんか迎えに来たから、一緒にいられなかった……ううん、レポーターやカメラマンが、わたしのこと邪魔しなかったら、お母さんが生きてるうちに、病院に着けたかも知れなかったのに……!」


溢れてくる涙が胸に痛くて苦しくて、くるみは目を固く瞑る。

隣で、祐華とミチルが一緒に泣く声がする。

鼻水をすすって、みっともなく声を上げて、くるみはとうとう嗚咽を堪えきれなくなる。

それは屋上に続くドアの窓から射しこむ初冬の光の中で、わんわんと鳴り響いた。


しばらく経って、くるみはしゃくりあげながらポケットからハンカチを出し、頬を拭う。

「……なんで二人とも泣いてるの……」

「だって、……わたしもおじいちゃんとおばあちゃんのこと、思い出しちゃったんだもの」

「わたしもです。お祖母様が亡くなられた時のこと、思い出して……」

「……やだ、ごめんね、やっぱ言わなきゃよかった……」

湿ったハンカチで祐華の涙を拭き、またすぐにミチルの頬にもそれを当てると、やっと涙が止まったくるみは肩の力を抜き、ほっと息を吐く。

「……結局、わたし、お母さんにかこつけてサボってただけなんだよね。ピアノだってそうだもの。……でも、このままそれを理由にしてたら、お母さんに叱られちゃうよね」

泣いたことで胸に長年閊えていたものが楽になり、くるみはじっと目を瞑り、

「土曜日も、すごく大変だったけど、最後まで頑張れたし、歌だって間違えないで歌えたし……何とかなりそうな気がする、今なら。ううん、何とかして見せる」

そう呟いてまぶたを開けると、隣の二人を交互に見て、自分の言葉に強くうなずいた。

「うん、絶対大丈夫よ。わたし、協力するから」

「わたしも微力ですが、お手伝いしますね」

「ありがと、二人とも。よろしくお願いします」

ぺこりと頭を下げたくるみに、祐華とミチルは顔を見合わせて微笑んだ。

「そうだわ、せっかくだから隆玄先輩に教えてもらってもいいかもしれないわよ。二年生の中でいちばん頭がいいんだもの」

「あはは、ボイトレの時の恨みを晴らされそうだなあ」

そう言ってくるみが肩をすくめると、つられて二人も笑いだす。


『そう、今ならきっと、だいじょうぶ。悲しみの形は違うけど、二人とも一緒に泣いてくれた。……許せないことはあるけれど、思い出すことはもう、怖くない』

幼いころに負ったままだった大きな心の傷に、くるみはようやく向き合えた気がした。


「はい、牧之原さんは左利き用ね」

六時間目の授業が始まり、巴からクラシックギターを渡されたくるみは、興津に教わった持ち方を思い出す。

『ここのくぼみを脚に乗せて、右手でネックを支えて、前に45度の角度で出す。ボディの上に肘を乗せて、サウンドホールの上に左手を置く……これで合ってるかな』

あのとき背中に感じた興津の身体の温もりが蘇り、口元が緩む。

『うああ、なんか先生にハグされてる気分……幸せ……』

先ほどの社会の授業で数回重なった視線の柔らかさを思い出し、くるみはまたその甘さに酔いしれる。


「あら、さすが軽音楽部ね。持ち方が様になってるわ」

一通り全員に楽器を渡し終えた巴が、くるみと祐華を見てにこりと笑った。

くるみは慌てて左手を口元に当て、にやけた唇をごまかす。

「いえ、わたしは持ち方だけで……」

「兄のギターやわたしのベースよりもネックが太いから、全然感覚が違いますね」

「そうなの?」

和やかな会話が、音楽室の防音壁に吸い込まれていく。


新しく音楽の教科担任になった巴の評判は上々だった。

前の教科担任との落差が激しいという要因もあるにはあったが、彼女は派手な外見にそぐわず非常に優秀な教師だった。

誰かをえこひいきすることもこき下ろすこともなく、平等に生徒を評価し、真剣に音楽を教える姿勢はすぐに生徒の心を掴み、教職員の信頼を得た。

ただ、話をしてみると彼女はやや知識に偏りがあり、クラシックやオールディーズ、童謡やシャンソンなどの、いわゆる『教科書向きの音楽』には明るいものの、いま世間で流行っている音楽や、ロックンロールなどにはだいぶ疎かった。

もしもミチルが軽音楽部にいなかったらこうなっていたのだろうか、などとくるみは思う。

『でも、さすがにビートルズを知らなかったのはびっくりだったなあ、教科書に載ってるのに。……まあ、興味がないことにはとことん無関心になるタイプなのかも』

無造作な編み込みでお洒落に束ねられたベージュとピンクの髪を見ながら、くるみは胸の中で独り言ちた。


「はい、じゃあ今配った楽譜の曲を、中間考査の課題とします。これから授業ではこの曲を通して、ギターのコードの押さえ方の基礎を学んでもらうつもりです」

巴はそう言って、グランドピアノの椅子に腰かける。

「せんせー、英語の歌なんて歌えないですよ」

生徒の一人が巴に抗議すると、彼女は笑顔を崩さないままそちらを向いて、やんわりと言い放つ。

「大丈夫、練習してれば自然と覚えられます。わかりやすい歌詞だし、ゆっくりした曲だから難しいこともないはずですよ。時間もたっぷりありますしね」

えー、と教室のあちこちから落胆の声が上がる。


『「スタンド・バイ・ミー」か……「トップ・オブ・ザ・ワールド」よりは簡単そうだけど、油断禁物』

渡されたコード譜を眺めて、くるみは唇を舐める。

歌に専念できた定期演奏会の時とは違い、今度は弾き語りなのだ。

『部活の時間、先生に教えてもらいたいな……このあと来年まで何もイベントないし、お願いしたら聞いてもらえるかな』

期待をはらんでふくらむ心に、くるみはくすくすと笑った。

「はい、じゃあまずは各コードの押さえ方から。牧之原さん、あなたは左利きだから、コード表が線対照になります。気をつけてね」

「はい」

正直、何をどう見ればいいのかわからないが、なんとかなるだろうと思い、くるみは黒板に書かれていくコード表を見つめた。


「……だめだ、さっぱりわかんなかったよ……」

放課後、教室でカバンに荷物を詰めながら、くるみはがっくりと肩を落としていた。

「しょんないわよ、くるみちゃんだけ利き手が違うし、コード表見たのだって今日初めてだったんだから」

落ち込むくるみの背中を優しく叩いて、祐華が慰める。

「授業以外でも興津先生に教えていただいた方が、間違いがないかもしれませんね」

定期演奏会の前のことを思い出しているのだろうミチルが提案すると、くるみは頭を抱えて悩み始めた。

「そうなったら自前でギター、買った方がいいのかなあ……うああ、英語の勉強だけでも手一杯なのに、音楽まで混乱の極致になるなんて思ってなかったよ……」

「大丈夫大丈夫、まだ音楽の試験まで一か月あるんだから。ちゃんとできるようになるわよ。……それにしても、前の先生って本当に特殊だったのね。必修部分が未消化すぎて中間テストまで音楽があるなんて、初めてだわ」

「ええ。ある程度独自性が認められる環境とはいえ、前代未聞ですね」

「巴先生も大変なとこに来ちゃったって思ってそうだね」

くるみの言葉に、そこにいた全員が苦笑いした。


「お疲れ様です」

「おー、お疲れ様」

途中で太陽と合流し、いつもの廊下と階段を経て部室へ入ると、すでにそこには紘輝と隆玄がいた。

「くるみちゃん、調子はどう?」

「おかげさまでなんとか」

ストラトキャスターを爪弾いていた紘輝の問いかけに、くるみは笑って答える。

「巴先生も元気に授業してたし、よかったわ」

「ええ。救急車を呼ぶようなことにならなくて、本当によかったです」

荷物を置きながら、祐華とミチルがにこりと微笑む。

「古和土先生も相変わらずっぽかったけどね。まあ、土曜日のことを何も言いふらしてはなさそうだから、少しは反省してんじゃないのかな?」

ギグバッグを肩から下ろしながら、太陽がため息交じりに苦笑いする。

「いや、前から悪ノリが過ぎるところあったけど、さすがに土曜のあれはヤバかったと思うわ、もう半分犯罪だろ。合唱部の子たちもかわいそうに。風評被害に遭ってそうだ」

「こう言っちゃなんですが、部活は選べても顧問は選べないっすからねぇ」

額を押さえて嫌悪の表情を浮かべた紘輝に、隆玄がうなずく。

「ところで、今日からの活動内容ってどうなるんですか?」

カバンを置いて英語の教科書を出したくるみが、誰ともなく問う。

「そうだな、たぶん今日からしばらく基礎練習とか、自分のやりたい曲を自由にやる感じになるから、なんか適当にやって」

「ざっくりしてるわね」

「今年が盛りだくさん過ぎたんだよ、いつもは文化祭の後からこんな感じだった」

妹の素直な感想に、紘輝が笑った。

「……くるみちゃん、なんで英語の教科書なんか出してんの?」

ギグバッグを開けた太陽が、くるみの手元を見て訝しがる。

「いや、先生が来るまでの間だけでも、勉強しようと思って……」

くるみは苦笑いを浮かべつつ、教科書に目を落とす。

「くるみちゃんの英語の担任、古和土先生なんです」

「ああ、そういうことか」

祐華のその一言だけで、上級生たちは全てを察したようだった。

「先輩方もご協力いただけますか?」

「りゅーげん、お前が教えてやればよくね?」

「えー、一年の時の英語なんて、俺忘れちゃったぞ。……どれどれ」

隆玄はくるみの背後から教科書を覗き込む。

「何が苦手なん、くるみちゃん?」

「……全部です」

「全部と来たかぁ。じゃあ、基礎から教えないとダメだなぁ」

「そうだわ、ミチルちゃん。わたしたち単語帳作りましょ」

「いいですね、自分の勉強にもなりますし」

「俺もやろうか、引っ越しまで暇になるしさ」

「俺も協力するよ、くるみちゃん」

「うああ、なんかみんな、すみません……」

部員総出の申し出に、くるみは嬉しいのと申し訳ないのとですっかり恐縮する。

「頑張りましょ、くるみちゃん」

「うん」

ひとつの大きなイベントを乗り越えることができたおかげで自信が持てるようになり、心の中でずっと目を逸らし続けてきたわだかまりと傷をもう一度見つめ直せた今だったら、本当に大丈夫だという確信が持てる。

くるみは祐華の言葉に、しっかりとうなずいた。


「あの、興津先生」

職員室で帰り支度をする興津の机の正面から、巴が話しかけてきた。

「先生のそのギター、定演のものと違うんですね?」

「え、……ああ、そうですね」

突然親し気に話しかけられて面食らいながら、興津は返事をする。

「軽音楽部の子が弾いてたギターと同じですか?」

「いえいえ、あれはいわゆる一般的なエレキギターです。私のは違いますよ」

興津はカバンを右手で持つと、ギグバッグごとスタンドに立てていたベースを持ち上げ、左の肩に背負う。

「ふうん……今、一年生の必修の穴埋めで、中間考査の時に弾き語りをやってもらうんですが、それで使うクラシックギターともまた違うんですか?」

あまりにも内容がひどい質問を無視して歩き去ろうと通路に向かうと、巴はその先に回って彼の行く手をふさいだ。


『……うわあ、面倒くさいことになった』

興津は心の中で頭を抱えた。

嫌な予感が当たっていればだが、自分は巴に『ロックオン』されているようだ。

多分打ち上げの時、彼女の世話をしたのが原因だろう。

仕事仲間として当たり前のことをしただけなのに、何かを勘違いされてしまったことに頭痛がする。

『最初から救急車呼べばよかったかな』

今さら後悔しても遅いが、そう思わずにはいられなかった。


「全然違いますよ。こっちは音を出すのに電気を使いますが、クラシックギターはそのままでも音が出るようになってます。クラシックギターは中が空洞でしょう?そこで音を反響させるんですが、エレキギターの類はアンプとスピーカーがないと、どうしようもないですからね」

『しかし、くだらない質問する人だな。どう見ても形状が違うってことくらい、誰にだってわかるだろうに』

内心呆れながら、それでも興津は巴に説明する。

「そうなんですか、……いろいろご存じなんですね」

『何言ってんだ、むしろそっちが知らなさすぎだろ、音楽教師のくせに』

心の中で毒づいてから、

「いえいえ、大したことないですよ。……ちょっと調べたらわかることばかりです」

最後にほんのりと嫌味を利かせて、興津は巴に目線で通路を開けるように促す。

しかし、彼女は何故か退かない。

「あの……興津先生、これからもいろいろ、私に教えていただけますか?」

『……今、自分で調べろって言ったつもりなんだけど……』

上目遣いに自分を見る巴にさすがにうんざりして、彼は小さくため息をつく。

「すみません、部室で生徒が待ってるので、通してもらっていいですか?」

「あ……はい」

ストレートに言われてしまっては退かざるを得ず、巴は道を開けた。

「またお話、聞かせてくださいね」

その声に返事をするのも面倒だったが、一応の礼儀として彼は振り返り、一礼して部室へと向かった。


「あっはっは、振られちゃったっけねー」

背中から声がして、巴は振り返る。

「だーめだよ、あいつぁ朴念仁だから。仕事と音楽のことしか頭にないでね」

面白いものを見た、と言いたげな表情の古和土が、デニムのポケットに手を突っ込んだまま、彼女に一歩近寄る。

「……私は興津先生のお話を聞いて、もっと勉強しようと思っただけです」

巴は後退って同じだけの距離を取った。

「へええ、ほんとにそれだけ?土曜日に面倒見てもらったの、そんなに嬉しかったかや?」

にやにやと楽しそうな笑顔を浮かべて、古和土はポケットから手を出し、海水と日焼けで茶色くなった短い髪をかき上げた。

「!……はあ!?そもそもの原因は古和土先生じゃないですか、あんなことしておいて、よく平気で私に話しかけられますね!?」

あまりの物言いに憤慨して、巴は声を荒げた。

「なーに言ってんの、あれは親睦の一環だよ。先輩からのあいさつ代わり。通過儀礼だって」

「そんな言い訳、今の世の中では通用しませんよ。次、何かしたら警察に相談しますから」

げらげら笑う古和土を、彼女はきっ、と睨みつける。

「……いや、そんなおっかない顔すんなって。美人が台無しだよ。……さーて、俺も合唱部の面倒見に行くかー。じゃあねー」

『警察』という単語に怯えたのか、古和土はさっとその場を離れて廊下に逃げた。

「……ほんと、どういう神経してるんだか」

おぞましいものを見る目で廊下の方を見ると、巴はため息をついて自分のデスクに戻る。


『いいじゃない、気になった男に粉かけるくらい。私の勝手でしょ』

足元に置いたかごからバッグを椅子の上に移動し、中から香水を出してほんの少し手首につけると、巴は興津のデスクを見やってふむ、と腕を組んで考える。

『年齢的にもそんなに離れてるわけじゃないし、背丈もあるし、髭がなければ顔も悪くない。私より収入もある。捕まえておくに越したことはないわ。それにかなりのお人よしっぽいから、こっちがぐいぐい行けばきっと簡単に落ちるでしょ。……こんないい物件、逃がすわけにはいかないわ。早く結婚しないと、お母さんがうるさいからさっさと捕まえて黙らせないと』

化粧ポーチから鏡を出し、少し乱れた髪型を整えて、巴は気合を入れ直す。

もう二十八なんだからそろそろ孫の顔を見せなさい、と毎日のように母から言われ、仕方なしにマッチングアプリで出会った男とそれなりにデートをしてはみても、いまいち反りが合わなかったり、プロフィール画像で嘘をつかれてしまったりと散々な目に遭ってきた彼女にとって、まさに興津は手近で非常に都合がよい男だった。

『何か他に、取っ掛かりがあれば……エレキギターってことは、ロックバンドの話とかだったら盛り上がるかな。次からはその手でいってみよう』

新たな目標を胸に、巴はカバンを肩から掛けると、音楽室に向かうためデスクを後にした。


興津が部室の前の廊下まで来たとき、

「あー!そういうことですか、なるほど!」

「そう、みんなが最初につまずくのが、この文法の違いなんだよね。これさえ押さえちゃえば、あとは楽になると思うよ」

くるみに隆玄が何らかのレクチャーをしている声がした。

「お疲れ様。何してるんだ?」

「あ、先生お疲れ様です」

戸口に現れた彼に、部員たちは口々に挨拶する。

「いま、くるみちゃんが隆玄先輩から英語の基礎を教わり直してるんです」

「英語?……ああ、そういうことか」

先ほどの部員たちと全く同じ反応を興津が返すと、くるみが晴れやかな表情で彼を見た。

「すごいです、先輩に教えてもらったら、長年の疑問がたったの十分で解決しました!!」

「そんな怪しい健康食品のテレビ通販みたいな……」

感動で目を輝かせるくるみが愛らしくて、興津は仕様もない冗談を言いつつも笑みをこぼす。

「くるみちゃん、基礎ができればじゅうぶん成績伸びる余地あるよ。理解力高いし、単語覚えるのも苦手じゃなさそうだし」

「おっ、りゅーげんのお墨付きが出たぞ」

「きっと古和土先生のクラスから脱出できるわ、がんばりましょうね」

「うん!」

清々しい彼女の表情に、興津も先ほどの巴とのもやもやする会話の後味が吹き飛ぶ。

「そうだな、苦手を克服することは大事だ。頑張れよ、牧之原」

「はい!」

彼の言葉に目いっぱいの笑顔を返したくるみに、

『いいぞ、くるみ。まずはあいつから全力で逃げるんだ』

また別の言葉で励ましを送って、彼は彼女の背中を優しく叩いた。

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