第31話

「……とうとう、既読もつかなくなっちゃったな」

ベッドの上で、隆玄はスマートフォンの画面を見ながらつぶやいた。

「なんか俺、悪いことしたかなぁ……」

先週の土曜日の打ち上げ後から、麗にちょくちょく個別チャットを送信しているのだが、彼女はここ数日の間、彼との会話を拒むかのように全く反応しなくなっていた。

『多分お姉さんが原因なんだろうけど、ちょっとお節介されたからって、ここまで避けられるとなぁ……直接会って話したほうがいいのかな。でもそのほうが余計にごちゃごちゃしそうだし、教室なんか行ったらぶん殴られそうだし、……あー、ホントどうしたらいいんだ……』

急に手詰まりになってしまった麗との関係がもどかしくなり、洗ったばかりの髪をがしがしと掻くと、シャンプーの匂いと水しぶきが枕に飛び散る。

『太陽に相談してもなぁ……あいつはいいよな、ミチルちゃん素直だし。……俺、厄介な子、好きになっちゃったなぁ、つくづく。冷たくされると堪えるのに、ほっとけないんだよ……』

眺めていても何も変わらない手の中の物体にため息をついて、隆玄は体を起こす。

『だめだ、イライラする。なんか一曲叩いて発散しよう』

ベッドから下りて部屋の扉を開けると、隆玄は電子ドラムが置いてある居間へと向かった。


「あれ、紗雪さゆき、まだ起きてたのか」

居間に降りると、ソファの上で妹の紗雪が、猫を膝に乗せて撫でている。

「……うん、眠れなくって」

紗雪は兄を振り返りもせず、赤いアンダーフレームの眼鏡のブリッジを押さえる。

「ちゃんと薬飲んだか?」

「……一時間前に飲んだよ」

「そっか」

隆玄は電子ドラムの前に座り、電源を入れるとヘッドフォンを手に取る。

「……紗雪、もうあんまり気に病むなよ。お前のせいじゃないんだから」

「……」

「いつも言ってるけどさ、しんどかったら、気が済むまで俺や、あっちゃんに話せ。な?」

紗雪は何も答えず、猫を抱いてソファの上で縮こまる。

『……寝ちゃったら連れてってやるか』

まずは自分の感情をどうにかしようと、彼はヘッドフォンを耳にかけ、肩慣らしにシンバルとハイタムのパッドを叩き始める。

『どうしてこう、大事な相手ほど、人間関係うまくいかないんだろうな。俺も紗雪も』

どうにもならない悔しさに唇を噛むと、スティックを握る手に力がこもった。


「ふふっ、くるみちゃんがギター背負ってるの、なんだか新鮮」

自転車置き場で顔を合わせた祐華に言われて、くるみは照れくささに頬を掻く。

「いやあ、まさかマイギター買うことになるなんて、自分でも思わなかったよ」

一昨日届いたばかりのアコースティックギターが入ったギグバッグを背負い直して、二人は昇降口に向かった。

「なんかやっと、軽音楽部員らしい見た目になった気がするなあ」

職員室の窓ガラスに映る、ベースを背負った祐華と自分の姿を見比べて、くるみの足取りは軽くなる。

「興津先生も嬉しそうだったわね、教え甲斐があるって」

「うん。『スタンド・バイ・ミー』が上手くできるようになったら、『マリーゴールド』とか『愛の才能』とかもやってみたいなあ」

「まだ時間もあるし、もっといろいろ弾けるようになったら、来年の中庭ライブや文化祭で選べる曲がぐんと広がるわね」

「まあ、先生のみたいにエレアコじゃないから、これをライブで使うのは無理かもだけど、お年玉で買えそうだったら買うのもありだなあ、エレアコ」

どんどん広がる想像に、くるみと祐華は心を弾ませた。

「わたしも他の楽器、弾けるようになった方がいいかしら……正直ベースだけで手いっぱいだから、きっと無理だと思うけど」

「えー、祐華ちゃんも紘輝先輩にギター教わったらいいんじゃない?」

「だめだめ、一回教わろうと思ったら、途中でケンカになっちゃったから」

祐華の言葉に、二人は顔を見合わせてくすくすと笑った。そこに、

「くるみさん、祐華さん、おはようございます」

後ろからバイオリンケースを手にしたミチルが現れた。

「「ミチルちゃん、おはよう」」

きれいに揃ったあいさつに三人とも吹き出し、そのまま横に並んで歩きだす。

「そうだ、二人とも単語帳、ありがとね。めちゃくちゃ活用してるよ」

「いえいえ、わたしたちも覚え直しが出来て良かったです」

「大丈夫よ、くるみちゃんはやればできる子なんだから。隆玄先輩だって褒めてたもの」

そこで三人の会話は途切れる。

「……うああ、やだなあ」

思わず呻いたくるみの視線の先には、生徒の服装チェックに立っている古和土の姿があった。

「大丈夫よ、遠いところ通ってささっと歩けば捕まらないわ」

「うまく逃げましょう、わざわざ近寄ってくることもないでしょうから」

三人は顔を見合わせ、ぐっとうなずくと、反対側に立っているジャージ姿の教師の前を通り過ぎるように進路を変えた。


「「おはようございます」」

「おう、おはよう軽音楽部」

そこに立っていた体育教師の大井将之が、整った顔立ちに凛々しい笑みを浮かべる。

「牧之原もついにギターデビューか。興津先生、えらい喜んでたぞ」

大井の口から出てきた興津の名に思わず足を止め、くるみはえへへ、と頬を染めて照れる。

「来年の『中庭ライブ』は牧之原の弾き語りが見られるのか、楽しみだな」

「いやいや、まだ何にも弾けないですし……」

そこまで話したとき、大井の顔色が瞬時に変わり、くるみの背中に視線が向かう。

「!!」

彼女は背中に近寄ってきた気配に、思わず振り返った。


「あれー、気付かれちゃったっけ。失敗したなあ」

そこにはにこにこと笑い、空振りした手を残念そうに振る古和土がいた。

「古和土先生、いま何しようとしましたか?俺には牧之原のギターバッグのヘッド、引っ張ろうとしてるようにしか見えなかったんですけど?」

大井が冷淡に、しかし怒りを隠さない口調で古和土に詰め寄る。

「ははは、バレた?おどかそうと思ったんだけえが、うまくいかなかったっけ」

自分がしようとしたことの意味が解らない様子で、へらへらと古和土が笑う。

「何考えてるんですか……転ばして怪我でもさせるつもりだったんですか!?」

「なーに、ちょっと借りようと思っただけだよ、面白そうだったからさ、ギター」

「!……何言ってるんだあんた……そんな簡単に貸し借りするようなもんじゃないんだよ、楽器ってのは……!」

自身がギター弾きということもあって、大井の怒りは空気が震えるほどすさまじい。

しかしそれに臆することもなく、

「はっ、べつにええら、どうせ減るもんじゃなし。そもそもそれ、そんなにけぇもんじゃねえだら?壊したら弁償してやっから貸せよ、なあ牧之原」

古和土はさらりとそう言って、またからからと笑う。

「行きなさい。俺が話をしておく」

大井に促され、くるみたちは慌てて昇降口に駆け込む。

「あーあ、逃げられちゃった。つまんねえな」

まるで鬼ごっこでもしているかのような口調で、古和土は残念そうにため息をついた。

「……あなた、教頭先生から、生徒や教職員に不利益が出るようなことがあったら次は懲戒だって言われてるそうですね。ご自分の行動をもっと省みられてはどうですか。こんな低レベルな嫌がらせを生徒にするメリットなんて、何一つありませんよ、古和土先生」

腕組みをした大井が、鋭い猫目をさらに鋭くして古和土を睨む。

「何言ってんだ、生徒とのコミュニケーションを図るためにやってるだけなのに、嫌がらせとは人聞きが悪いねえ」

年下の大井に注意されたことが気に入らないのか、ふてくされた子供のように古和土はズボンのポケットに手を突っ込み、そっぽを向いた。

「……今回は未遂で済みましたが、次はどんな些細な行為であっても教頭先生に直接報告しますよ。それから、牧之原が怪我をしなかったとはいえ、楽器を粗雑に扱おうとした時点で、俺はあなたを許してはいませんからね。覚えておいてください」

「おお、こわ。先輩に対しても容赦がないねえ。まあ、ケンカじゃ大井君には勝てないっき、とりあえず仕事に戻るわー」

古和土は今までの出来事がまるで何もなかったかのように、変然と声かけに戻って、愛想のいい笑顔を振りまく。

『……大ちゃんに言っといたほうがいいかもな、牧之原がヤバいって』

彼のことだから既に気付いているだろうとは思いつつ、どうにも嫌な予感しかしない心を落ち着かせながら、大井は仕事に戻った。


「急ぎましょ、まだホームルームまで時間はあるわ」

「うん」

教室に行く前に職員室に寄り、部室の鍵を借りて、くるみたちは廊下をひた走る。

『教室にギター置いといたら、絶対壊される……そんなのやだ……!』

大急ぎで三人そろって階段を上り、息を切らせて長い廊下を走り抜ける。

そして部室までたどり着き、祐華が鍵を開けて扉を開くと、いつもの部室のにおいがした。

「ミチルちゃんも、バイオリン、ここに、置いとく?」

はあ、はあ、という荒い呼吸の合間にくるみが尋ねると、ミチルはうなずいた。

「はい、そうします。わたしも、気が気じゃ、ないので……」

くるみたちがギターとベースをスタンドに立てかける間に、ミチルもバイオリンを日の当たらない廊下側の机の上に置く。

「なんで、古和土先生、くるみちゃんばかり……」

「わかんない、……でも、やだな……怖いよ……」

「お気持ち、わかります……わたしも、怖かったから……」

巴の前の音楽教師に付きまとわれていた記憶に、ミチルが身震いした。

「……鍵、返すのも怖いね……」

休み時間に勝手に部室へ入られそうな気までしてきて、三人の身は竦む。

「念のため、わたしたちで持っていましょうか」

「そうね。あとでグルチャに連絡入れましょ」

「これから部活がある日は、毎回そうしたほうがいいかもね……」

廊下に出てから三人は揃って大きく深呼吸をすると、

「……よっし、戻らないと」

そう言って部室にしっかりと鍵をかけ、自分たちの教室に走って戻っていった。


「興津先生」

「……何でしょう?」

ここ数日、巴に何かと付きまとわれている鬱陶しさからくる苛立ちを隠さず、興津は返事をする。

「お話があるんですが」

あからさまにワントーン上げている声が、さらにそのわずらわしさを増幅させる。

しかも話す内容は、

「あの、また、ロックバンドのお話を聞かせていただきたいんです。生徒に聞かれたんですけど、わからないことだらけで……」

自分で調べれば済む程度のものでしかない。

『ああもう、授業の準備があるってのに、朝っぱらから何なんだよ……』

カバンを置く前から挨拶もなしにやってきた彼女をできるだけ視界に入れないようにしながら、興津は緑茶のペットボトルをデスクの上に置き、小さくため息をつく。

「……何ていう名前のバンドですか?」

「えっと、何だったかしら……うーんと、名前は確か……」

巴は上目遣いに興津を見上げつつ、本当に考えているのか怪しい表情で、それなり大きな胸を寄せ上げるように腕を組み、人差し指を頬にあてる。

『科なんて作ってないで早く思い出せよ、こっちも暇じゃないんだ』

昔から苦手な柔軟剤によく似た香水のにおいが鼻を突き、出来るだけ小さく開けた口で呼吸をしながら、彼は仕方なしに相手の回答を待った。


『……まあ、この人が僕に何をさせたいのかおおよそ察しは付くが、こういう他力本願な人とは、そもそも仲良くしたいと思えないからな。一切合切お断りだ』

なかなか回答しない巴からいったん目を離し、興津は一時限目の授業で使う三年生の教科書と資料をデスクの上にそろえる。

『この人は多分、僕が独身ってだけでターゲットにしてるんだろう。本当に音楽が好きなら、もっと違う形で会話ができるはずだ。……だいたい、音楽教師だってのに、音楽に関する自分の無知をこうも平気でさらけ出せるものなのかね。普通だったらそれを恥じて、自分でなんとかするだろう。だいいち、僕はそもそも教科が違うんだぞ』

一分ほど待ってもまだ考えている仕草でこちらを見る巴にしびれを切らす直前、

『……カマかけよう。こっちにその気がないことをしっかりわからせるには、ちょっと手荒になるけど、自分がいかにみっともないことをしているのか教える必要がある。……くるみから聞いた話、使わせてもらおうか』

興津はそう決めて、巴に向き直った。


「バンドの名前が思い出せないなら、曲の名前とかでもいいですよ。なんていう曲ですか?」

愛想のいい、しかしできるだけ薄っぺらにした笑顔を張り付け、興津は巴を見る。

「え、あ、……えっと」

案の定、攻勢に転じた興津に巴はひどく焦った様子を見せる。

『なるほどな』

彼女の反応を見るに、こちらと会話するためだけにいくつかのバンドの名前は頭に入っていても、曲名がバンド名と一致するまではさらってこなかったのだろうという手ごたえがあった。

「生徒と話をしたってことは、そのバンドの曲もいくつか出てきたでしょう。そっちの方が思い出せませんか?」

「……あー、何でしたっけ、……」

「洋楽ですか」

「あ、よ、洋楽です!そうそう、洋楽……」

巴はたじたじになりながら、興津の質問に答える。

『引っかかった』

興津は賭けに勝った喜びで、思わず口の端を歪めた。

「なるほど、どんな曲です?かなり有名な曲でしょうか?例えば、『ア・ハード・デイズ・ナイト』とか、『ヘルプ!』とか、そのあたりですか?」

本当に知らないわけはないだろうとは思いつつ、これでだめだったらローリング・ストーンズかエアロスミスあたりから出題するか、とも考えながら、興津は口三味線を弾いた。

「あ!そうそう、それですそれです!それを歌ってたバンドです!あの、ぜひそのバンドの名前を……」

『えっ』

まさかの事態に思わず声に出しそうになった驚きを必死で飲み込み、彼は言葉を続けた。

「……ははは、冗談がキツいなあ、巴先生は。さすがにそれはご存じでしょう?音楽史に偉大な足跡を残したバンドなんですから」

「……え、ええ、そ、そうですね、……あれ?何でしたっけ、ど忘れしちゃって……」

興津に煽られた巴は本当に何もわからない様子で、ゆるく編み込んだベージュの髪から無造作にはみ出す、ピンク色の毛先をもてあそび始めた。


『……まさか、本当にビートルズを知らないのか?いやいや嘘だろ、教科書にも載ってるし、これだけ音楽が溢れてる世の中、触れる機会はいくらでもある。まして音楽教師なんだから、このくらいは頭に入ってないとまずいだろう』

自分たちの会話に聞き耳を立てていた周りの職員がにわかにざわついたのを、興津は肌で感じる。

向かいの島のデスクで授業の支度をしていた、くるみの担任の安倍勇志が、こちらをぎょっとした表情で見ている。

黒板にチョークで予定を書いていた藁科の手が止まっている。

こちらに向かって歩いてきていた大井が、会話の内容に思わず通路の真ん中で足を止めて、自分と巴に交互に視線を送っている。

『菊川みたいな育ち方でもしたのか?それとも、仕事のことであっても、興味がなければ一切調べないのか……後者だとしたら、教師としてどうなんだって話になってこないか、これ』

どんどんぼろが出てきた巴を見て、くるみの話が真実味を帯びるのと同時に、彼女にとっての音楽はほんとうに純粋にただの『手段』でしかないのだともわかり、興津は落胆した。

『お菓子をあげるから仲良くして、っていう子供と同じだ。この人はお菓子が音楽に置き換わっただけだ。……この人は、本当に音楽を楽しんできたんだろうか。もしかしたら、誰かが褒めてくれるからという理由だけで、周りに言われるがまま音楽をやってきただけなのかもしれない。きっと僕に声をかけたのも、別にどこが気に入ったとかじゃなくて、家族に結婚を急かされてたりするだけなんだろう。……この人は何もかもうわべだけで、心の底から本当に好きなものが、何もないんだ』

主体性のない空虚な質問や、どこか焦りが感じられる底の浅いあざとさの正体に合点がいき、彼女に対する憐れみがほんの少しだけ芽生える。が、

『……同情したってしょんない、相手は子供じゃないんだから。それに、これ以上付きまとわれるのはごめんだ。他の人から変な目で見られても困るし、業務に支障が出まくってる』

そろそろ朝礼が始まる時刻になる。

興津は巴の思惑にとどめを刺すことにした。


「まあ、よくありますよ、ど忘れなんて。……アメリカのバンドなんて、それこそごまんとありますしね」

興津の意地の悪い誘導に、周りはまたざわついた。

「あー!そうでした、そう、アメリカの……アメリカの……」

そこで言葉が止まってしまった巴に、

「巴先生、知ったかぶりはよくありませんよ。『ア・ハード・デイズ・ナイト』も『ヘルプ!』も、イングランドのロックバンド、ビートルズの曲です」

興津は厳しい表情で、目いっぱいの鉄槌を下した。


「……大ちゃん、やりすぎ」

「あれは興津さん、ちょっと意地悪でしたね」

「興津君、気持ちはわかるが、何もあそこまでやり込めることはなかったんじゃないのか?」

「いや、もうこれ以上、仕事に支障が出たらかなわないんで、少し手厳しくしただけなんですけど……」

朝礼後、バンド仲間の大井と安倍と藁科に囲まれ、さながら部活で先輩に詰め寄られているような気持ちになりながら、興津は釈明しつつ口髭を撫でた。


己の無知を人前で晒しものにした興津へのビンタを思いきり空振りした巴は、格好がつかないまま涙目で廊下に出て行き、結局朝礼が終わるまで職員室に帰っては来なかった。

多少、女性職員には白い目で見られたような気はしたが、巴が勤務中に自分に何かと絡んできているのはみんな知っていたので、彼女たちから非難の言葉を浴びるようなことはなかった。

古和土も幸い――と言っていいかはさておき、朝礼に遅刻してきたので追撃を受けることもなく、巴は一時限目の授業の支度をすさまじい勢いで済ませると、悔しそうに興津を睨みつけてから、足音荒く職員室を出ていったのだった。


「ま、弁当食ってる間もウザ絡みされたらたまらんよな。気持ちはわかる」

一昨日その現場を目撃した大井が、親友に深く同情する。

「……今日から落ち着いて食べられればええんだけどね」

興津はふう、と息を吐いて、苦笑いを浮かべる。

「質問の内容も、小耳に挟んだ限りではかなり幼稚でしたからね。お気持ちお察ししますよ」

安倍もそう言って困り笑顔を浮かべ、眼鏡のブリッジを押さえる。

「しかし、まだ若いとはいえ、極端な知識の偏りがあるのはちょっと困るな。うちの部の副顧問もやってるんだし、これを機に少しでも認識を改めて、勉強してくれればいいんだが……」

「ははは、藁科先生、それで詳しくなられたとして、また言い寄られたらたまったもんじゃないでしょう」

困惑の表情で顎髭に手をやる藁科に、大井が乾いた笑いを返す。

「そうならないことを祈るしかないですよ。……さて、ホームルームに行かないと」

興津がそう言うと、教師たちはそれぞれの仕事に戻ろうとする。しかし、

「……あ、そうだ。安倍先生、興津先生。ちょっと今朝、牧之原が古和土先生絡みで大変なことになりそうだったから、一応報告をしておきます」

「え?」

大井のその言葉に、彼の目は不安と警戒で鋭くなった。


「……ありがとう、将之。お前がいなかったら、大事になってたはずだ」

人気のない職員準備室の中、安倍と共に大井から昇降口での一部始終を聞いて、興津は口髭の下に手をやり、眉根を寄せる。

「それにしても……入学してからこっち、かなり頻繁にちょっかいをかけられていることは知っていましたし、私からも都度、古和土先生には注意をしてきたんですが、だんだんエスカレートしてきてますね。牧之原さんも、あのテンションで毎日付きまとわれては、いくら反撃したり躱したりしてもきりがないですからね、だいぶ参ってるかもしれません」

安倍が静かな口調でくるみを案じる。

「そうですね。定演や打ち上げでのトラブルも、廊下を通りすがったときとか、顔を見るたびにまだ言われるみたいで、見てるこっちが辛くなります。今はとにかくあの人の授業から逃げ出すために、部活の時間まで使って必死で勉強してますが……」

そう言って興津がうつむくと、大井は腕組みをしてふむ、とため息をつく。

「二人が見てるから大丈夫だとは思いますが、あの子は周りの空気に敏感で、人に当てられやすいタイプです。あいつみたいな押しの強い奴に強気に出られたら、万一の時も抵抗できるか怪しい」

「!……」

興津ははっと頭を跳ね上げ、大井を思わず睨んでしまう。

「……ああ、悪い悪い、そんな顔するなよ、ごめん」

「……いや、別に」

彼は動揺をごまかすために一つ咳払いをして、慌てて先ほどと同じ姿勢に戻った。

「これは私の想像と推察でしかないんですが……」

安倍が重々しく口を開く。

「古和土君、見た目もそうですが、やることなすこと自己顕示欲の塊みたいな人間ですし、多分に牧之原さんの家柄が派手なのを利用して、芸能人とお近づきになりたいとでも思ってるんでしょう。一度、あの子の兄の時にも似たようなことをして、懲戒処分を受けて失敗してるからこそ、余計に執着してるはずです。……いったいどんな難癖を付けて、牧之原さんを追い詰めるかわからない。警戒するに越したことはないですね」

辛辣かつ深刻な安倍の物言いに、興津の胸中は朝だというのに闇夜のように暗くなる。

明らかに彼の顔色が悪くなったのを見て、大井が興津の背中を叩き、口を開いた。

「……ともかく、あいつと牧之原を二人きりにしたら絶対にダメだ。俺も気にかけておくけど、あの子はきっと誰よりも大ちゃんを頼りにしてる。守ってやれよ」

「……?」

先ほどから妙にひっかかる大井の物言いに、興津は思わず彼を見る。

「ったく、何年付き合ってると思ってるんだ。……定演の舞台袖、俺の席から見切れてたんでね。あれだけ仲良くしてりゃ、察しもつくさ」

「え……!いや、将之、見に来て……!?」

「私も隣に座ってたのでよく見えましたよ。いやあ、興津さんにべったりですね、牧之原さん」

「あ、安倍先生も……!?」

「おまけにさり気なくデュエットまでして、随分見せつけてくれるじゃないか」

にやにやと意地悪く、しかしとても嬉しそうに大井は笑う。

「いや、あれは人数が足りないから部員全員に頼まれただけであって他意はなくってだな!?」

「興津さん、その早口を何で本番で活かさなかったんですか」

安倍が可笑しくてたまらない様子で興津を見た。

見られていたショックと、見ていたのが二人でよかったという安堵が入り混じり、興津は何もしゃべれないまま、口だけをぱくぱくと動かす。


そのとき、ホームルーム開始のチャイムが鳴り始める。

「おっと、もうこんな時間か」

「行きましょう。興津さんも急いだほうがいいですよ」

二人はさっさと廊下に向かって歩いて行ってしまう。

「あ、あの……!!」

「ははは、大丈夫だって、内緒にしとくから。頑張れよ、大ちゃん」

「安心してください、私は口が堅いですよ」

ひらひらと手を振りながら去って行く幼馴染と、背中で小さく笑いながらその後を追う先輩に、興津は滝のような冷や汗を流しながら顔を引きつらせるほかなかった。

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2025年1月10日 23:00
2025年1月17日 23:00

LIVES! ―聖漣高校軽音楽部― 七味まよ @nanamimayonnaise

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