第21話
その年の聖漣高校吹奏楽部のコンクールは、地区大会止まりの金賞――いわゆる「ダメ金」で終わった。
ここ数年、連続出場が続いたから外されたのだろうと部員たちは慰め合い、夏を終わらせた。
コンクールが過ぎれば、あとは文化祭と定期演奏会で年度内の活動は打ち止めになる。
部員たちはすっかり肩の荷が下りた様子で、藁科の自由で的確な指導の下、のびのびと文化祭の練習に励んでいた。
「やっほー、麗ちゃん」
軽音楽部の部室の真反対にある、廊下の突き当りの教室に、ひょいと隆玄が顔を出す。
それに気が付いた麗は譜面をめくる手を止め、立ち上がってお辞儀をした。
「あー、いいってそんなん、気ぃ遣わなくて。相変わらず硬いなぁ」
「……何か御用ですか、先輩」
麗は隆玄から目線を逸らすと椅子に座り、今度こそ譜面をめくる。
「いや、一応金賞おめでとう、ってこんで、はい。お祝いついでの合宿のお土産」
隆玄はポケットから小さな紙袋を取り出し、麗の譜面台に置いた。
「……あ、ありがとうございます。……ダメ金でしたけど」
麗はわずかに頬を染め、ふいとそっぽを向く。
「いや、あの曲をそこまで持って行けたのはすごいこんだよ、自慢していい」
その麗の頭を、隆玄は無遠慮にぐしゃぐしゃと撫でまわした。
「ちょっと、やめてください。……藁科先生の方が曲の解釈わかりやすかったし、……先輩に、譜読みのコツも教えてもらえたもんで……わたしでも、なんとかなったっていうか……」
「あはは、そう?役に立てたんなら嬉しいっけ」
慌てて右手で髪を整える麗を見て、隆玄は楽しそうにくすくすと笑った。
「放送室の件、文句言われなかった?」
「現在進行形です。でも、うちは陰口とかそういうの、しょっちゅうなんで慣れっこです」
「そっか。……強いなぁ、麗ちゃんは」
「隆玄先輩が軟弱なんですよ」
「あはは、痛いとこつくなぁ、相変わらず」
けらけらと笑う隆玄を、迷惑そうに麗は見上げた。
「先輩、軽音楽部は練習ないんですか」
「あー、わかったわかった。邪魔してごめんっけねぇ。文化祭、楽しみにしてるよ。お互いにいい演奏しよう。んじゃ、またあとで個チャするもんで、既読だけでもつけてねぇ」
隆玄はそう言い残して、さっさと部屋を出ていった。
その足音が遠ざかってから、麗は譜面台に置かれた紙袋を開ける。
その中には『れいちゃん』という金色の文字が入ったネームプレートのついた、蛍光ピンクのハートのキーホルダーが入っていた。
「うっわ、ださっ」
思わず口に出てしまった言葉に、麗は自分で吹き出す。
「……つけるとこに困るな、これ」
彼女は隆玄が出ていった教室の扉を見遣り、それを大事そうに再び袋にしまってから、制服のブラウスの胸ポケットに入れた。
階段を上って部室に続く渡り廊下の先、音楽室の側を太陽とミチルは並んで歩く。
「……あの先生、才能はあったのに、ほんと性格で損したよな。……諭旨解雇か……あれだけのこんしても、懲戒じゃないんだな」
「どのみち、学校の先生には不向きな方でしたね。……でも、正直ほっとしました」
「そうだね。ミチルちゃんが何もされなくって、本当によかった。もう、俺の護衛もいらないかな」
そう言って寂しげに笑った太陽を見て、ミチルは意を決したように立ち止まった。
「うん?ミチルちゃん、どうした?」
一歩先で足を止めた太陽に、ミチルはとつとつと喋り始める。
「あ、あの、先輩。……わ、わたしのこと、呼び捨てで、呼んでいただいてもいいですか?」
「え……」
話しているうちに、ミチルの白い頬はりんごのように赤く染まる。
「あの、い、いちばん最初に、わたしを教室まで、迎えに来てくださったとき、……肩を抱いて、呼び捨てにしてくださったの、すごく嬉しかったんです。……そう呼んでくださったの、太陽先輩が、初めてでしたから……」
「……」
「だ、だめですか……?」
「……いや、だめじゃないよ、だめじゃないけどさ……」
太陽も耳まで赤くなりながらミチルに向き直る。
「あ……あの、……わかった、ちゃんと言うよ。……俺、君が好きだ。初めて逢った時からずっと、君のこと、……おしとやかで上品で、お姫様みたいで、すごく可愛いって思ってた。……でも、いいのかな。俺、貧乏道場の跡取りで、君んちと全然釣り合わないよ?」
「そんなの関係ありません!わたしは先輩の、優しくて真面目で、誠実で、正直な、そういうお人柄が、……とても、好きなんです……」
勢いで想いを吐露しあってから二人は我に返り、互いに見つめ合ったまま動けなくなった。
やがて、少しだけ恥ずかしさが先に治まったのか、太陽がミチルの手を取る。
「……先輩っち、待ってるだろうから、行こっか。……ミチル」
彼女の表情が驚きから喜びに変わるまで、そうかからなかった。
「はい!」
ミチルがうなずくと、太陽は二人の手を指を絡ませあってつなぐ。
「……これからも、俺が毎日迎えに行った方がいい?」
「はい、ぜひお願いします!」
互いに照れ笑いしながら、二人は階段を上り始めた。
階段を上る祐華のスマートフォンから、個別チャットの着信音が鳴った。
「……あ……」
踊り場で立ち止まって待ち受け画面の通知を見ると、送信者は慎だった。
『……慎先輩から……何かしら?』
付き合いはそれなりに長いものの、なかなか言い出せなかったおかげで、ようやく合宿中になって慎と交換したチャットの、まだ何も会話のなかった画面を開く。
【今月の十四日、ヒマ?】
高鳴った心臓を一生懸命に抑え込みながら、祐華はリマインダーを確認して返信する。
【特に何も、予定はないです】
すぐに既読が付き、返信がくる。
【港の花火大会、一緒に見に行こう バイクで迎えにいくよ】
「あ、えええ、ど、どうしよう、えっと、えっと……!」
祐華はスマートフォンを取り落としそうになりながら、慌てて返信する。
【よろしくおねがいします】
漢字に変換することも忘れて文字を打った後、思い付きでお気に入りの猫のスタンプを送ろうとして指が滑り、同じスタンプを三回も送ってしまう。
「あああああ、ちょっと待って、やだ、何してるのわたし!!」
ひとりで赤面しながら、祐華はもたもたと動かない指で慌てて謝罪の文字を打つ。
【すみませんゆびがすべりました】
すぐさま慎から返ってきたスタンプは、同じ猫のスタンプだった。
【気にしないでいいよ、同じの持ってたんだね】
【楽しみにしてるよ 晴れるといいね 雨だったらいっしょにベースの練習しよう】
ときめきと嬉しさで半分泣きそうになりながら、祐華は満面の笑みを浮かべた。
部室で一人、紘輝は自分の模試の結果を眺めている。
『校内偏差値は高い方だし、全国平均も悪くない。……でも、全部無駄になるのか』
文化祭が終わった後、自分の人生も終わってしまうような感覚に襲われる。
『今から大学行きたいって言っても、きっと反対されるんだろうな。親父も頑固だから』
夏休み前の三者面談で言いたいことを言えずに終わってしまったことを、今さら悔やんでも仕方がない。
『それに、大学出ても多分、そのまま実家継いでお終いだもんな。学費の無駄だ。……なあ、紘輝。俺、本当は何になりたかったんだっけ』
老舗和菓子店の長男に生まれてしまったからには、実家を継ぐのが当たり前だと、いつからか自分に言い聞かせて紘輝は生きてきた。
でも、子供の頃は消防士になりたかった。漫画家にあこがれて漫画を描いたこともあった。動画サイトで今も大好きなバンドのMVを見て、ねだりにねだってフェルナンデスのギターを買ってもらってからは、心のどこかでギターで食べていきたい気持ちもあった。
そのすべてを、中学校に上がってから始まった和菓子作りの手伝いで磨り潰して、捨ててしまうしかなかった。
自分に残された自由な時間は、もう少ない。
高校を出たら、まずは実家で見習いとして厳しい修行に耐えなければならない。そこから先はきっと、両親のようにお見合いでもして結婚し、いつか生まれる自分の子供にも同じように店を継がせるための修業をさせるのだろう。
『あーやだやだ、令和なのに明治みたいな家だな、マジで』
少し伸びすぎて視界を邪魔し始めた前髪を、額から一気にかき上げる。
『俺、ほんとに職人なんて向いてないと思うんだよな。でも、じゃあ、俺が他にできることって何だろう。やりたいことって、何だったんだろう……たくさんあったはずなのに、思い出せなくなっちまった……』
紘輝は大きなため息をつくと、結果が印刷された紙をギグバッグのポケットにしまう。
『……ギターで身を立てることは、大学行くよりずっと難しい。……でも……』
一瞬だけ心に過ぎった想いを振り切るように、紘輝は首を横に振って、同じ場所からクリップチューナーを取り出した。
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