第20話

その晩、真夜中の一時過ぎ。

「……あれ?」

手洗いから部屋に戻ろうと廊下を歩いていたくるみの目に入ったのは、スタジオに続く階段に灯るオレンジ色の明かりだった。

『電気つけっぱ……誰か起きてるのかな?練習熱心だなあ……』

こんな時間に練習しているのがいったい誰なのか、興味がわく。

『声かけてから寝ようかな』

くるみは何の気なしに階段を降り、電気を消してから分厚い防音扉を開けた。


「あ……」

ミキサーとガラスの向こう側にいたのは、青いTシャツに黒のジャージ姿の興津だった。

こちらに背を向け、ベースをかき鳴らしながら何かを歌っている。

『文化祭の練習かな。わたしたちの方ばかり見てたら、自分の練習時間なんて取れないよね』

ベースを弾きながら歌うことの難しさは、慎や祐華から聞いてわかっているつもりでいたし、実際ベーシストがボーカルを兼ねていることは多くない。

どうしてプロにならなかったんだろうね、などと慎がこぼしていたように、興津がどれほどの腕前なのかは、様々なバンドの音楽を聴くうちにくるみも思い知った。

彼の流れるような演奏と淀みない歌声は、こういったたゆまぬ努力の積み重ねなのだ。

『すごいな、先生。誰からも見えないところで、こんなに頑張って練習してるんだ』

なんだか見てはいけないものを見てしまったような気がして、くるみの足はすくむ。

『……このまま声かけないで、寝よっかな。邪魔したら悪いし』

そう思った瞬間、彼が演奏を止めてこちらを向き、目が合った。

たった今言おうとした『おやすみ』の声は、微笑んだ彼の手招きでかき消された。


「練習の邪魔にならないですか?」

パイプ椅子の上で膝を抱えて座りながら、くるみは隣に座った興津に聞く。

「いいよ、そろそろ休憩しようと思ってたところだもんでね」

「え、寝るんじゃなくて?」

「……宵っ張りの癖がついててね、休みの日は明け方まで、眠らないことも多いよ」

そう言うと、その言葉の通り彼はペットボトルに入った緑茶を飲む。

「だめですよ、ちゃんと寝てください。今日だってみんな、朝七時に起きるんですから」

「大丈夫、ちゃんと起きるよ」

「七時まで起きてる、の間違いじゃないですよね?」

「そうとも言うかな」

「もう……知りませんよ、身体壊しても」

「……」

不意に黙ってしまった興津に、くるみは困惑した。

「……あの、ごめんなさい、なんか気に障るようなこと……」

「いや、違うよ」

彼は少し慌てた様子で首を横に振ると、くるみを泣きそうな目でじっと見つめた。

「……」

このまま唇を奪われたりはしないか、と期待してみたものの、生真面目な彼がそんなことをするはずもないとすぐに思い直し、くるみは曖昧な笑顔を浮かべる。

それにつられたのか、彼も口角をかすかに上げたが、すぐにまたどこか寂しげな表情に戻ってしまった。

やがて、彼は目を伏せると、深いため息をついて言葉を紡ぐ。

「昼間はごめん、……ああいうこんするのは、よくないな。反省してる」

「え……」

「いくら怖いからって、生徒に手を繋いでもらうなんて……情けないな。今までだってずっと、我慢はできたのに、君が隣にいてくれると思ったら……嫌だったかな、申し訳ない」

彼は絞り出すような声でそう言うと、うつむいてくるみから目を背けてしまった。

「そんなこと……そんなことないです、先生、大丈夫です。わたし、嫌だなんて思ってません。それに、先にくっついたのはわたしの方だったでしょ?……学校じゃないし、誰も見てないから、いいかな、って……だから、先生は悪くないです。嬉しかったです、わたし……」

くるみは落ち込んでしまった興津を懸命に慰めるが、彼は今にも泣きだしそうな顔になる。

「……牧之原、あんまり私に優しくしないでくれ。私は君の高校生活を充実したものにして、卒業式には気持ちよく送り出してあげたいんだ。……そのためには、勘違いしたくないし、間違いも起こしたくない。だから、……」

「先生……」

「私は、君が思っているような人間ではないんだ……頼むから、本気にさせないでくれ……」

ついに止まらなくなった本音に押し出され、彼の頬を涙が幾筋も伝う。

それはあとからあとから目の端から溢れこぼれて、グレーの絨毯をぽたぽたと濡らした。


くるみはためらうことなく、椅子から立つと彼の頭を胸の中に抱いた。

「本気にしてください、先生」

たくましい首筋に腕を回し、彼のつむじに頬を寄せ、目を閉じる。

爽やかなシャンプーの匂いが、ふっと鼻先で香った。

「わたしは最初から本気です。……初めて逢った時から、ずっと先生のこと、好きです」

突然のことに動けなくなった彼の、暗い茶色の髪にそっとキスをする。

「迷惑だったら、もう学校で先生に近づくの、止めますから。だから、……今だけでいいから、恋人同士でいさせて、お願い」

自分で言ってしまってから心臓が破裂しそうなほど痛くなって、くるみはぐっと涙を堪えた。


頬と髪に触れる柔らかく温かい身体と、その内側から聴こえる心臓の音、そしてむせかえるような甘い肌の香りに、彼の脳は何が起こったのか理解を拒もうとする。

彼女の言葉ひとつひとつが、めまいを起こしそうなほど狂おしく頭の中を揺さぶった。

最後に抱きしめられたのはいつだっただろう、子供の頃のことだから思い出せない。

くるみの優しい抱擁はその淡い記憶を塗り替えてしまうほど、鮮烈に彼の意識を焼いた。


ピンクの部屋着のふわふわした胸元に顔を埋めながら、彼は自分に最後の質問をする。

『……僕は、どうしたいんだ?こんなに真剣な気持ちで僕を好きになってくれる人なんて、きっと二度と現れない。……わかってる。本当ならば僕はこの気持ちには絶対、応えちゃいけないんだ。でも……そうしたら、僕は死ぬまでずっと独りぼっちだ。それでいいのか?』


彼は心の赴くままに、くるみの背に腕を回した。

少し力を込めれば折れてしまいそうな華奢な身体は、しなやかに彼を受け止めてくれた。


「……くるみ」

興津の声が自分の下の名を呼んで、彼女の心臓は跳ねた。

「僕も君が好きだ。……今だけなんて言うな。これからもずっと、恋人でいたい……」


彼の大きな手のひらがくるみの細い腰を抱き、腕が身体を絡めとるように背中を包む。

父親とは違う、初めて感じた男の身体の大きさに、今までにない速さで鼓動は加速する。

耳の中で血の流れる音がしゅわしゅわとうるさく聞こえるほど、自分の首から上が熱を帯びているのがわかる。

『先生……』

初めて彼から明確に返された答えに、くるみは身体の中から溶けてしまいそうなほどの幸せを感じていた。


どのくらいそうしていただろうか。

互いに腕を緩め、くるみと興津は顔を見合わせて笑った。

そのまま目を閉じてキスを誘ったくるみに、

「……駄目だよ。そういうのはしない」

興津は苦笑しながらつれない返事を返すと、腕を解いて立ち上がり、彼女の頬をつつく。

「……いいでしょ、誰も見てないんですから」

くるみは口をとがらせて抗議するが、

「絶対にだめ。そんなこんしたら、君は態度ですぐバレる」

「うっ……」

痛いところを突かれて反論できなくなる。

彼は彼女の細い背を抱き寄せると、頬に手を当て、甘く優しい声音で言い聞かせた。

「ねえ、くるみ。大事な約束をしよう。……僕は君が好きだ。でも、僕は『教師』で、君は『生徒』なんだ。どう頑張っても、僕は君より力のある『大人』で、君は『高校生』でしかない。まだ、普通の恋人同士みたいな、対等な関係にはどうしてもなれない。それはわかる?」

彼のまっすぐで誠実な目に射抜かれたくるみは、こくりと真面目な顔でうなずく。

それを見て安心したように微笑むと、興津は言葉を続けた。

「どんなにお願いされてもデートは出来ないし、チャットも絶対に交換しない。キスなんてもってのほかだ。……本当なら、僕は君を好きになってもいけないんだ。お互いに、疑われたときに、証拠が残るようなことは一切できないよ。それでもいい?」

堅苦しさが抜けたやわらかな喋り口調にどぎまぎしつつ、想いが通じ合っただけでも充分幸せなのだと思えば、そんなことは造作もない気がして、くるみがもう一度彼の目を見てしっかりとうなずくと、興津は不意に彼女の肩に頬を乗せ、両腕で絡め捕るように抱きしめた。

「……本気にしろ、って君が言うから、僕もそうする。これ以上、君の気持ちをないがしろにしたくないし、自分の気持ちに嘘もつきたくない。だからこそ、それを守るために、みんなの前では今まで通りに振舞おう。……僕たちが『本当の恋人同士』になるのは、君が卒業して、大人になってからだ。それまで、友達にも家族にも絶対に内緒。……どう?できるかな?」

もとよりそのつもりだったくるみは、答えの代わりに彼の背中に腕を回した。

「……でも、二人きりになったら、今みたいにハグくらいはしてくださいね」

「考えとくよ」

答えと裏腹に力のこもった腕の中で、心拍数はいつの間にか落ち着いている。

二人は深い幸福感で離れがたくなってしまった抱擁の熱と、互いの肌の匂いに酔った。


「……早く大人になりたいな、わたし」

ぽつりとくるみが呟くと、興津は彼女の肩口で首を横に振りながら笑って囁いた。

「焦らなくていいよ、三年なんてあっという間だ。だから、今の時間を大事にしなさい。大人になったらその先もずっと大人だけれど、高校生でいられるのは、今だけなんだから」

広い胸に頬をこすりつけるようにして、くるみは彼のその言葉にうなずいた。

そしてふと、

「……ねえ、先生」

くるみはずっと心にひっかかっていたことを、興津に訊いてみることにした。

「どうして、車に乗るのが怖いの?」


半分泣き崩れながら、興津があらかた自分の身に起こったことを話し終えると、くるみは居たたまれなさに再び彼を腕に抱いた。

「……面倒臭い男だろ、僕って。あれから映画は一切見られなくなったし、ポップコーンも食べられなくなった。右脚もずっと動かないような気がするし、運転中も、対向車線から大きいトラックが来ると、思わずブレーキを踏みそうになる。……路上教習で何度も落とされたよ」

もう真夜中の二時を回り、誰も起きてこないことに安心して、彼はすっかりくるみの胸にその身体を預けている。

「大学入って、忙しくなって、なし崩しで病院行かなくはなったけど、今でもまだ、事故の瞬間を夢に見るんだ……それが怖くて眠れない。その眠れない時間を、楽器の練習に充てて、なんとかやり過ごしてる。夢中になって弾いてれば、時間は過ぎて朝になるから……」

「……ごめんなさい、そんな辛いことがあったのに、お菓子なんかでおまじないって……」

涙を流すことすら申し訳なくて、くるみは唇を嚙んだ。

「ううん、あれは本当に効いたよ。……君が僕を想ってしてくれたことなんだから、効果がないわけないだろう?バスの中で眠ったのも、窓から景色を見ることができたのも、事故に遭う前の遠足以来だ。……ありがとう、くるみ」

彼女の背を抱く腕に、優しく力が込められる。

彼は心を縛るものが消えたせいか、思いつくままという風に話を続けた。

「……寂しかった。親戚も知り合いも縁が切れて、どこにも居場所がない気がして……子供の頃の楽しかった思い出も、家族の笑顔も笑い声も全部忘れてしまいそうで、とても怖かった。……僕には、音楽しか縋れるものがなかった。幸せな記憶は全部、音楽と繋がってる。その道に進むことも考えなかったわけじゃないけど、じいちゃんとばあちゃんを寂しがらせたくなくて、仲間と東京に行くのはやめた。……ずっと心のどこかで、それを後悔してたんだ」

「……でも、もしもお友達と東京に行ってたら、先生とわたしは出逢えなかった……」

「そうだね。……僕は、自分の選んだ道が間違っていなかったって、やっと思えたよ」

彼は心底満たされた様子で、大きく息を吐いて目を閉じる。

くるみは小さな子供をあやすような気持ちで、胸元にある彼の形の良い頭を抱き留めた。

「ここまで話したのは、君が初めてだ。……ごめんね、重たい話ばっかりで。聞いてて気分が良くなかっただろう」

「そんなことないです。……苦しくなったり、悲しくなったりはしましたけど……わたし、先生のこと、ちゃんと知れてよかった。何もわからないまま、ただ好きでいるのは、怖かったから。……わたし、卒業してもずっと先生と一緒にいます。どこにも行きません。先生のこと、絶対に一人にしないから……」

「ありがとう、くるみ」

興津は体を起こし、立ち上がってくるみの耳元に唇を寄せると、

「愛してるよ」

出来る限り優しく、精一杯に思いを込めて囁いた。

「!……」

いつもより甘く低い声のこそばゆさに彼女はきゅっと身を竦ませるが、まだ屈んだままの彼の耳に自分も唇を近づけ、

「先生、わたしも愛してる」

ほとんどキスするような距離で、同じだけの想いを詰め込んだ言葉を流し込んだ。


その日、朝日が昇って、時計の針が八時を指しても、興津は目を覚まさなかった。

真夜中にくるみと分かち合った想いと温もりは、彼の強張った心を解きほぐして、久方ぶりの長く深い眠りをもたらしていたのだ。

部員たちは気を遣って彼を起こさなかったのだが、くるみはそれに安堵していた。

『ゆっくり眠ってね、先生』

みんなで朝食を用意しながら、彼女は胸元に感じた彼の吐息の熱さと、撫でた髪のさらさらした感触を思い出しては、ひとり頬を染めた。


『……ところでお兄ちゃん、祐華ちゃんと進展あったかな』

そう思って慎と祐華の方に目をやると、特に目を合わせるたびに赤くなったり、変に目線を逸らしたりということもせず、昨日と変わりなく和やかに会話を交わしている。

『んもう、何で思い切ってこう、バーッていかないの、お兄ちゃん!!』

二人のじれったさに心の中で歯噛みしつつ、くるみはバターの香る卵一パック分のスクランブルエッグを、フライパンで等分してから八枚の皿へと盛り付ける。

『いやいや、昨日のわたしたちみたいに付き合ってるの内緒にしてるだけ、っていう説もある……のかなあ……』

そこまで考えて急に嬉しさが蘇ってきて、くるみは思わず頬が緩んだ。

『……両想いかあ。わたしの思い込みじゃなくって、先生もわたしのこと、ちゃんと好きになってくれてたんだ。しかも、先生の初めての彼女はわたしなんだよね。……うああ、初めて同士……初カレと初カノって、なんか照れる……』

身体の内側から湧いて溢れて止まらない幸せが、表情を無意識のうちに満面の笑みに変える。

「おっ、くるみちゃん、どした?すげーニヤニヤしちゃって。何かいいことあった?」

「ひゃい!?な、なんもないすよ!?なんでそう見えるです!!?」

毎度勘のいい隆玄に指摘されて、くるみは慌てふためきつつ、手元のレタスを無意味に小さくちぎった。


「……ん……」

部屋の中に差し込む光で、興津は目を覚ました。

まだ半分寝ぼけた意識に身を任せ、うつぶせてふかふかの羽枕に頬を埋める。

『……やわらかい……』

この感触に近いものに、昨夜はずっと包まれていた気がする。

それをふと思い浮かべた瞬間、彼は一気に頬を紅潮させ、覚醒した。

「!!……っ」

がば、と跳ね起きてスマートフォンを見ると、起床の時刻は三時間ほど前だった。

『うーわ、めっちゃ寝過ごした……いや、起こさないでくれたのか……』

部員たちの気遣いに、彼の口元がほころぶ。

あの後、眠ってしまいそうだったくるみを部屋まで送り届けて、そのまま自分も練習をやめてここへ戻り、ひどく安心した心持ちでベッドに入ってしまった。

七時に起きるつもりでいたのだが、どうやらアラームをセットし忘れていたようだ。

『僕にしてはずいぶん寝たなあ、……くるみはちゃんと起きれたかしん』

大きなあくびをしつつ、自分を優しく抱きしめてくれた、細い身体の温かさを思い出す。

そして、頬に感じた甘い匂いの柔らかいものが何か、つい考えてしまって自己嫌悪に陥る。

『……しょんない、僕も男だ。そこは許してもらおう』

邪な気持ちを正当化してから、彼はベッドを下りた。


常に眠りの浅い頭の中に、スモッグのように巣食っていた重いものが、今日は感じられない。

『大人になってから初めて、ちゃんと眠れた気がする』

実際そうなのだろう、普段の数倍は身体が軽い。

高校生に背負わせるには重すぎる闇をぶちまけてしまったという罪悪感はあるが、そんな自分の過去を受け止めて、慰めと慈しみを持って接してくれる相手がいることは、脆くなっていた彼の精神を支え直すには充分過ぎる力があった。

『くるみ、ありがとうね。……生きててよかったって、久しぶりに思えてるよ』

興津は大きく伸びをすると、ガラス窓に映る自分を見て微笑んだ。


「おは、……よう?」

身支度を済ませた興津がスタジオに入ると、

「はい、あと2セット!がんばって!!」

「ちょっ、まだ、終わんないの……!?」

「ヤバいって、俺もう無理!!」

涼しい顔でロシアンツイストをしているくるみの隣で、紘輝と隆玄がのたうち回っている。

「くるみちゃん、これ、結構、きついね……!」

剣道で鍛えているはずの太陽が、くるみと同じ動きをしながら眉間にしわを寄せている。

「合唱部ではこれを歌いながらやりましたよ。で、そのあとは発声練習しながらⅤ字バランス、ニートゥーチェスト、プランクと続いて、それからまだ背筋メニューもあります」

動きを止めることなく、くるみは流れるようにしゃべり続けている。

「あはは、くるみはこれを週三回きっちりやってるからねえ。紘輝と隆玄もこれくらいやれば、もっと声に張りが出ると思うよ」

「先輩、自分がもう、歌わないからって、ずるいっすよ……!」

「やべえ……これ、明日絶対筋肉痛だ……」

高みの見物を決め込む慎に隆玄が半泣きで抗議し、紘輝は床にくずおれたまま呻く。

「……こんなのを、最初の一か月は毎日やるの?できるかしら……」

祐華が遠い目でくるみを見つめている。

「とてもハードな体幹トレーニングですね。わたしももう少しバレエを真剣に続けてれば、ついて行けたかもしれないです……」

途中でギブアップした様子のミチルが、腹部を撫でながら肩をすくめた。

「……牧之原、何してるんだ?」

「あ、先生おはようございます。さっき先輩たちに、ボイトレついでに合唱部時代の筋トレメニュー聞かれたんで、伝授してる真っ最中です」

「あ、ああ、そう……」

全く体幹がぶれることないくるみの動作に、興津は唖然とした。

『天才は努力を苦にしないとは言うけれど……』

やっぱり彼女には何か眠っているものがあるのだろう。

しかし、それを呼び覚ましてしまうと、彼女が二度と自分の元には戻ってこない気がして、彼は恐ろしくなった。

『君は本当に、卒業しても僕の側にいてくれるのかな……』

誰の手も届かないところに彼女を封じ込めておきたい気持ちで、胸がいっぱいになる。

『いや、今はただ、黙って見守ろう。どんな道を選ぶかは、くるみが決めることなんだ』

彼は自分のわがままに蓋をして、先輩に檄を飛ばす彼女を微笑ましい気持ちで見つめた。


朝から晩まで音楽のことだけを考えていた三日間は、あっという間に過ぎる。

合宿の終わりは、再びスーパーで食材を買い込んで来てのバーベキューだった。

食事の後にみんなで手持ち花火をしながら、このあたりに一足早く訪れる秋の気配を身体いっぱいに吸い込み、また来年もここに来ようと約束をして、海沿いの街よりくっきりと見える天の川と、黒い影に山小屋の明かりがきらめく富士山を眺めた。

肌に触れる湖畔の風は、少し寒いくらいに涼しい。

あまり効かない蚊取り線香の煙と、花火の火薬の残り香が混ざってその中に溶けていく。

終わりゆく夏と、もうすぐ訪れる秋に、くるみたちは思いを馳せた。


翌日。

「「うわ、暑っつ!!」」

バスと電車を乗り継ぎ、夕暮れの最寄り駅で電車を降りたとき、全員が思わずそう叫んだ。

「こっちまだバチクソ夏じゃねーか!」

「空気が重いわ……」

「いやー、蒸すなぁ」

「うああ、湿気がキツい……」

「この気温と湿度の変化は辛いですね……」

「ヤバい、ここいるだけで汗だくだく」

「あはは、富士山挟むだけでこんなに違うもんなんだなあ、……えっぐ」

今夜もエアコンを消すことが出来なさそうな気候が、ほんの数日離れただけでどこか懐かしく感じられる。

文句を言いながらも、少年少女たちは笑いながら改札への階段を軽やかに上がっていく。

『……家に置いてきたベース、ネックが反ってなければいいけど……』

四日間、閉めっぱなしにした部屋の気温と湿度がどこまで上がったのか、彼らの後ろを歩く興津はそれがいちばん心配だった。


「それじゃあ、みんな家に着いたら、グルチャにスタンプ投げてくれ。ミチルちゃん、何から何までお世話になりました。それから慎先輩、一緒に来てくれてありがとうございました。先生も引率お疲れ様でした」

紘輝の言葉に合わせて、軽音楽部員は礼を言いながらみんなで頭を下げる。

「……以上、解散!」

そして彼の一声で、みんなが口々に「お疲れ様」と挨拶をする。


その合間に、くるみはふと興津と目が合った。

『先生、もう手が震えてなかった。よかった……』

帰りのバスの中でずっと繋いでいた左手が寂しくて、くるみはほんの少しだけ眉根を寄せて微笑む。

彼も同じ気持ちなのか、ほんのりと翳りのある笑みを返してくれた。

「……じゃあ先生、また明日。おやすみなさい」

名残惜しい気持ちで別れの挨拶を切り出すと、彼はいつもの『先生』の笑顔に戻って応える。

「ああ。二人とも気を付けて帰りなさい。おやすみ」


挨拶の後、背中を向けてから、もう一度くるみは振り返って興津に手を振る。

『また明日ね。……愛してる。大好き。今夜もちゃんと、あなたが眠れますように』

小さく手を振り返してくれた彼の姿が、ステージで初めて逢った時と重なって、くるみの胸は、とくん、と優しい音を立てた。

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