第19話

くるみたちが事件を起こした翌日、吹奏楽部は、全員音楽室で天竜の話を聞いていた。

「……さて、島田君の話はこれで終わりです。それから、今後の活動についてですが、吹奏楽部は今日から顧問が変わることになります。藁科先生、どうぞ話をしてあげてください」

「はい」

天竜に促され、側に控えていた藁科が指揮台の上に登る。

「今日から吹奏楽部の顧問になる藁科です。……まず最初に言っておくと、君たちは今年のコンクールに、出場する予定です」

その言葉が放たれた瞬間、音楽室の中は、わっ、と歓声に包まれた。

飛び跳ねる者、手を取り合う者、ほっとした表情を浮かべる者に加えて、泣き始める者までいる。目標が無くならなかったことで、彼らはようやく人心地ついたようだった。

藁科は彼らの喜びがやや収まるまで待つと、再び口を開いた。

「ただし、今やっている曲は君たちの実力とはかなり乖離しているので、正直このままでは全国どころか地区予選落ちは覚悟してほしいですね。どうしても全国を目指したいなら、曲のグレードを下げるしかない。ですが、東海の吹奏楽連盟では原則として曲目の変更は認められていません。今回は事がことだから、どうにかならないか私から連盟に掛け合ってみようと思いますが、どうにもならないと思っていて欲しいです。……もしも、全国大会に行けないなら嫌だという人がいたら、あとで退部届を受け付けますので、声をかけてください」

吹奏楽部員たちは声のトーンを下げ、ざわざわとする。そして、

「……それから、ひとつだけ君たちに、私から言いたいことがある」

それまでの穏やかな藁科の喋りが急に厳しさを帯び、部員たちは静まり返った。


「今回のことで、決して清水さんと軽音楽部の子たちを責めないように。彼女たちが勇気を出してくれなかったら、もっと被害者は増えていたはずだ。暴力があっても誰一人声を上げずにいた、君たちにも責任は少なからずある。……コンクールでどんな結果が出ても、それが今の自分たちの実力だと真摯に受け止めなさい。絶対に人のせいにしないこと。わかったね?」


吹奏楽部員たちは何も答えなかったが、それを了承の返事ととった藁科は、彼らを見渡して軽くうなずいた。

それを見た天竜が、今度は申し訳なさそうに喋り始める。

「今回の事件は、君たちの親御さんにも説明会を開いてお話をします。君たち生徒が安心して、健やかに過ごせる環境を作ることが我々の仕事ですが、今回はそれを怠り、見過ごしてきた故の出来事だ。誠に申し訳なかった」

天竜と藁科は揃って頭を下げた。

今まで自分たちに頭を下げる教員を見たことがなかったのだろう、部員たちは再びざわつく。

数秒の後、身体を起こした天竜は生徒たちを見渡して、話を続けた。

「これからは私も、今まで以上に校内を見て回ることにします。前の理事長からこの仕事を引き継いだばかりとはいえ、こういったゆがみを見抜けないままでいたのは、私の力量不足によるところだ。大変申し訳ない。だもんで、見かけたら気軽に声をかけてもらえれば嬉しいですね。コンクールは私も必ず観に行きますから、皆さん、いい演奏を期待していますよ」

はい、ときれいに揃った返事が部屋に響く。

「それじゃあ、藁科先生。あとはよろしくお願いします」

「はい」

藁科の頼もしい返事に満足した様子で、天竜は音楽室を出た。


「……原稿用紙一枚って、思ったよりボリュームあるね……」

まだ半分も埋まらない反省文を見て、くるみは深いため息をついた。

「頑張ってくるみちゃん、思ったままのことを素直に書けばいいだけなんだから」

既にきっちり一枚分の文章を三十分で書き上げた祐華が、くるみを励ます。

「そうは言っても、何も思い浮かばないんだもの……いっそAIに書いてもらった方が……」

「だめですよ、せっかくこれだけの処分で留めてくださったんですから、誠意をもってお応えしないと」

「えー……もう、二人の文才、半分でいいからわたしにも分けてよー」

やはりすらすらと書き終えたミチルに釘を刺され、くるみはまたため息をついた。

「小論文の練習だと思って頑張るしかないよ、くるみちゃん」

「お父さん小説家なのに、なかなか世の中うまくいかないもんだねぇ」

「ほんと、喋る言葉は面白いのに、書くのが苦手って不思議だな」

「……紘輝先輩、それぜんぜん褒めてないですよね?」

上級生三人にからかわれながら、くるみは必死で文章をひねり出そうと頭を抱える。

そこに、

「やあ、興津君はまだ来てないかな?」

天竜がひょいと廊下から姿を現し、くるみたちは慌てて立ち上がった。


「……というわけで、島田君。君のことについては、私から吹奏楽の子たちに話をしておきました。これで誤解も解けるでしょう」

「……でも、理事長先生、そうしたら去年の賞は……」

太陽の言葉に、天竜は少しだけ残念そうに微笑む。

「今回の件も踏まえて、返上することになりますね。ですが、もともとそんな素晴らしい賞をいただく資格がなかったのだと思えば、当たり前のことです。私ももっと普段から、生徒や先生方からヒアリングをするべきだったと、猛省しているところですよ。そうすれば、君が退部する前に問題を解決できたかもしれません。本当に申し訳なかった」

天竜は幾度目かの謝罪の言葉を口にすると、太陽の肩を、ぽん、と叩く。

「君は何も悪いことはしていません。自信を持ってください。私は君の勇気と誠実さに、最大限の賛辞を送ります」

様々な感情がないまぜになって頷けなくなった太陽の背を、ミチルがそっと撫でた。


「……よかったじゃん、これで吹奏楽部に戻れるな」

天竜を見送った後の廊下に佇み、隣でそう呟いた隆玄に、太陽は笑いながら答える。

「バカ、戻るわけないだろ。俺は、お前やみんなと一緒に、ギターが弾きたいんだよ。……でも、これからは、パーカッション借りに行くくらいはできるかもな」

「……そっか。じゃあさ、今度あれ借りてきてくれよ、カーッって鳴るやつ」

「ああ、ビブラスラップ?何の曲に使うんだよ」

「いやぁ、鳴らしてみたいだけ」

「んなもん自分で行け、自分で」

二人は笑い合いながら、部室の中に戻っていった。


「……よし、これで全員分だな。それじゃあ、今からこれを理事長先生に届けてくるもんで、君たちは私が戻ってくるまで自主練してなさい」

手の中の原稿用紙の角を机の上で揃えてそう言うと、興津は慌ただしく部室を出ていく。

「……つ、つらかった……」

「くるみちゃん、お疲れ様」

ぐったりと机の上で伸びたくるみを、祐華とミチルがぱたぱたとハンカチで仰ぐ。

「うああ、暑いなあ、頭煮えちゃったっけ……アイス食べたい……」

「もうすぐ夏休みだし、海も近いからやっぱ蒸すなあ、ここ」

太陽が窓の方を見遣って、額の汗を手の甲で拭う。

「夏休みか、……どっか遊びに行きたいけど、練習でそんな暇なさそうだな」

「そうっすね。涼しい高原でリゾートとかしてみたいっすけど、夢のまた夢っすよ」

紘輝と隆玄はそう言って笑った。と、その時、

「あの、みなさん。リゾートではありませんが、高原で合宿というのはどうでしょう?」

ミチルが何かを閃いたような笑顔で口を開く。

「「合宿?」」

見事にユニゾンした部員たちの声に、ミチルは心底楽し気にうなずいた。


八月の過酷な朝日の中、駅前のロータリーに父が車を停めると、くるみと慎はそれぞれ後部座席から降り、トランクを開けて荷物を出す。

「うあー、今日も暑っちいなー!やべーぞこれ!」

妙な絵が描かれたTシャツにダメージジーンズを身に付け、ギグバッグを背負った慎が呻く。

「まだ八時前でこの気温って、なんの拷問!?」

白いフリルのTシャツにサブリナパンツ姿のくるみは、慌てて麦わら帽子を出して被った。

「二人とも、水分補給はしっかりするんだよ」

運転席から父が呼び掛けてくる。

「大丈夫、浴びるように飲むから」

「送ってくれてありがと、お父さん。智、ちゃんとお父さんの言うこと聞きなさいよ。あと、ゲームは八時までだからね」

「はーい」

後部座席に座っていた智がくるみにやや不満げに応える。

「守れなかったらお土産なしだからね」

「わーってるよ。父さん、ねーちゃんうるさいし、暑いから早く閉めてー。ガソリンの無駄」

「なっ……!ほんっともう、可愛くないなあ!」

くるみと智のやり取りに苦笑しつつ、父はボタンを押してトランクを閉める。

「智、見送りはちゃんとしなさい。二人とも、行っておいで。先生とお友達によろしく」

「はーい」

完全にトランクが閉まると、父の運転する白いワゴンはロータリーをぐるりと回って、元来た道を帰っていった。

「うああ、もう汗出てきた、日焼け止め持つかなあ」

待ち合わせ場所の駅の構内まで歩き始めただけで胸元に汗が垂れてきたのを感じ、くるみはぼやいた。

「ちょっとくらい焼けたほうがいいんじゃないのか、お前、体真っ白すぎ」

見事な半袖焼けをした自分の腕を、慎は妹のそれと並べて見せる。

「紫外線がいちばんお肌に悪いんですー。年取ってから後悔したくないもんね」

「はいはい。女って面倒だなあ……お、いた」

慎の言葉に視線を先にやると、既に軽音楽部の部員たちと興津の姿が見える。

遠目に見て学校にいるときとほとんど変わらない彼の格好に、

『先生、お休みの時もワイシャツ着てるんだ。生真面目だなあ』

それが面倒臭がり故のものとは知らず、くるみはほんのりとときめいた。


夏休み、ミチルの提案で、軽音楽部は隣県で三泊四日の合宿をすることになった。

彼女の両親がレコーディング用に作ったスタジオ付きの別荘が、山の中にある大きな湖の畔にあるのだという。

アンプやスピーカーなどの重い機材は、彼女の家の運転手が先にそこまで運んでくれる手筈になり、部員たちは自分の荷物と楽器だけを持って向かうことになった。

さらに、くるみが祐華のためにと気を利かせて声をかけた慎もOBとして参加することになり、彼らはすっかり仲間同士で遊びに行く気分で電車に乗り込んだのだった。


「途中で一回乗り換えて、その先からは路線バスだっけ?」

「そうです。時間はかかりますけど、それが一番安かったんで。最初は新幹線と高速バスしか経路出てこなかったから、検索するの苦労しましたよ」

「電車からバスへの乗り換え、ちょっと間があるから、おやつ休憩でもしましょうか」

「なんかおいしそうな店とかあるかなぁ、検索しとくっす」

久しぶりに会えた慎を囲んで、上級生たちはわいわいと話に花を咲かせている。

その慎を反対側の座席からぼーっと見つめる祐華に、

「祐華ちゃんもあっち、混ざってきたら?お兄ちゃんもいるしさ」

くるみはそう言って、彼女の脇腹をつついた。

「あ、……ううん、いいの。今は男の子っち同士で話するの、楽しそうだし……」

祐華はそう言うと、頬を染めたまま幸せそうに慎を眺める。

『うああ、この子ほんと奥手……!お兄ちゃんもしっかりしてよ、こんなに祐華ちゃんが視線送ってるのに気づかないとか、鈍いにもほどがあるでしょ!!』

心の中でじたばたともがきながら、くるみは慎と祐華を交互に見やってため息をついた。

「どうした、牧之原。ため息なんかついて」

隣で手すりに寄り掛かってスマートフォンを眺めていた興津が、頭の上から声をかけてくる。

「いえ……ちょっとお兄ちゃんに失望しただけです」

「?……よくわからないが、随分手厳しいな」

興津は苦笑して、ポケットにスマートフォンをしまうと、今度は祐華の隣にバイオリンケースを抱えて座るミチルに声をかける。

「それにしても、本当に今回はいろいろとすまないね、菊川。荷物を運んでもらうだけでもありがたいのに、宿泊場所まで貸してもらって」

「いえいえ。せっかく作ったのに、使わないままにしているのも勿体ないので」

にこにこと屈託ない笑みを浮かべるミチルを見て、

『ほんとにミチルちゃん、なんでうちみたいな地方の学校に通ってるの……?』

くるみは改めて、彼女が本来であれば住む世界の違う人間だということを噛み締めた。


乗り継いだ電車を降り、バスの時間までの間、結局駅前のコンビニでくるみたちはおやつを買うことになった。

「先生に荷物番させちゃって、なんか申し訳ないわね」

「急いで戻らないとね。干からびちゃいそうだよ、この暑さ」

興津に頼まれた緑茶のペットボトルをかごに入れてから、くるみはレジ前の菓子売り場に移動し、いつもののど飴のスティックと、筒に入った糖衣のカラフルなチョコレートを追加する。

「くるみちゃん、そののど飴、好きよね」

コンビニに行くと欠かさず買うようになったそれを見て、祐華が何の気なしに言う。

「あ、うん、……ちょっとね、これは必需品なんだ」

興津と初めて共有した秘密を思い出して、くるみは思わせぶりに微笑んで見せる。

「そうよね、ボーカルなんだから、喉は大事にしないといけないものね」

その微笑みの意図を、祐華は全く別の理由で解釈し、納得したようだった。


バス乗り場に戻ると、荷物に囲まれてベンチに座る興津の背中が見える。

くるみは袋から緑茶を出してそっと彼に近づくと、首筋にひたりとそれを当てた。

「うわっ!!?」

驚いてこちらを振り向いた彼の表情が、まるで同じ年頃の少年のように見えて、くるみは彼をひどく愛おしく感じた。

「……こら、おどかすんじゃないよ」

「ごめんなさーい」

二人の立場を知るものがいない土地ということもあるのだろう、興津も普段よりずっと深く、くるみの心に寄り添ってくれているような感覚がある。

彼女は殆ど恋人同士のような気持ちで、彼の隣に座った。


ちらりと横目で祐華の様子を伺うと、今度は首尾よく慎の傍にいるようだった。

『二人ともこの合宿で、ぐっと、こう、行くとこまで行けばいいのよ。がんばれ』

もはや合宿の本来の目的を忘れて二人を応援すると、くるみは隣の興津に視線を戻す。

『……あれ?』

その彼の表情に影が差し、目が泳いでいることに気が付く。

「……先生、大丈夫ですか?」

「え、あ、……ああ、大丈夫。何でもないよ」

返ってきた笑みはどことなく覇気がない。熱中症ではないようだが、顔色も少し悪く見える。

『あのときと同じ目だ』

『中庭ライブ』の後に見せた、暗く沈んだ瞳。今の彼の目はそれと同じ色をしていた。

くるみは少しためらったが、

「……うそでしょ。先生、そういう顔した時、あんまり大丈夫じゃなさそうです」

思ったままを口の端に乗せた。

彼は一瞬苦い顔をしたが、観念したようにため息をついて、くるみにだけ聴こえる大きさの声で話し始めた。

「……実は、人が運転する車に乗るのがすごく苦手なんだ。今回は普通の車やタクシーじゃなくて、バスだからまだましな方なんだけえが、これから結構長い時間、乗らなきゃなんないと思うと、どうしても気が重くって……」

「……そうなんですか……」

何か理由があるのだろうが、それをここで聞くのははばかられる気がして、くるみは返す言葉に詰まる。

「ごめん。そんなに深刻な顔をしないで。心配させて申し訳ないっけね、ありがとう」

興津はそう言うと、目を閉じて沈黙してしまう。

友人たちの話し声に混じって、滑り込んでくるバスのエンジン音と、どこかで鳴いている蝉の声が辺りにわんわんと響いている。

白っぽい空から吹く、海沿いより乾いた熱い風が、さらりと肌を撫でていった。


もう一度風が駅前のコンコースを通り抜けていったとき、くるみはふとあることを思いついてカバンを開ける。

「……先生。手、出してください」

彼女はそう言うと、さっきコンビニで買ったチョコレートの筒を取り出した。

戸惑う興津に、くるみはビニールの外装を剥いて蓋を開けると、促すように筒を差し出す。

やわらかな緑色の粒がころんと彼の左の手のひらに落ち、二人は顔を見合わせた。

「どうぞ」

「あ、ああ、……ありがとう」

彼は勧められるまま、手の中の甘い菓子を口の中へ放り込む。

「……あの、チョコ食べると、少し気持ちが楽になりませんか?」

はっとした顔でこちらを見た彼の瞳を、くるみは祈るような気持ちで見つめた。

「チョコって、食べると……キスした時と同じくらいの幸福感があるって、前にネットで見たことあって。だから、先生の中の車が苦手な気持ちが、それで少しは消えたらいいな、って」

自分で言った台詞に顔を赤くしつつ、彼女は彼の手にチョコレートの筒を渡した。

「……今度はわたしが、先生におまじないです。効果があるかはわかりませんけれど」

その言葉に彼の表情が凪ぎ、あっという間に泣きそうな笑顔になる。

思った以上に『おまじない』が功を奏してしまって、今度はくるみが戸惑う番だった。


子供の頃に負った消えない傷に、初めて癒しの手が延べられた気がして、興津の胸は詰まる。

人目がなかったらくるみを抱きしめていたかもしれない。

ずっと一人で抱えていたものを、それが何なのかも知らないまま、それでも彼女が受け止めようとしてくれていることが苦しいほど嬉しくて、同時に申し訳なくなる。

『認めたらだめだ』

彼女に抱く気持ちが、恋という言葉のその先に進もうとするのを懸命に引き止めながら、

「……ありがとう、牧之原。効果ありそうだよ」

本当に魔法にかけられたような心持で、興津はくるみに笑みを返した。


程なくターミナルにバスが滑りこんできて、ブザー音と共にドアが開く。

「よーし、みんな乗ってー。忘れ物すんなよー」

「お、部長らしいこんすんじゃん、紘輝」

「あはは、一応仕切っとかないと」

みんなそれぞれに会話を交わしながらステップを上がる。

独特の古びた座席の匂いがなぜか懐かしい気がして、くるみは車内を見回して深く息を吐くと、後ろから最後に乗り込んできた興津を見た。

「先生、前にしますか?それとも後ろの方がいいですか?」

「……最後尾に行くよ、そこならなんとかなる」

そう言って自分の身体を追い越した彼の後について、くるみも一番後ろの座席に進む。

「君までこっち来るこたぁないだろう」

「ううん、わたしもバスは最後尾がいいんです」

隣に座れるならどこでもいいというのが本音だが、どうやら彼もそれ以上反論する気はないらしく、足元に置いた荷物の上にギグバッグを乗せ、それを腕に抱きながら奥に詰めて座る。

くるみもその隣に腰掛け、荷物を隣の座席に置くと、

『……ここなら、誰にも見えないよね』

友人たちが全員自分よりも前に乗っていることを確認してから、興津の身体に寄り添った。

彼は一瞬びくりと身を竦ませたが、目を閉じるとそっと手を伸ばして、くるみの指に触れる。

『……先生、手が震えてる……これは、苦手とかじゃない、すごく「怖い」んだ』

確かに重なった手をゆるく辿ってから、彼女は指を絡めるように彼の手を取る。

『わたしがついてるから、大丈夫』

それに応えるように、はたまた縋るように、彼は彼女の手を強く握り返してくれた。


一時間弱、くるみたちはバスに揺られていた。

朝早かったせいもあるのだろう、最初ははしゃいでいた部員たちも徐々にうつらうつらし始め、山の中を走っているうちに全員が軽くまどろんでいた。

もしも興津が降りる停留所の三つ前で目を覚まさなければ、終点まで乗り過ごしていたかもしれない。

無事に降りるべき停留所で降りると、海沿いとさほど変わらない強さの日差しと、森に囲まれた広い湖を渡ってくる涼しい風がくるみたちを出迎えた。

「うわ、バカ爽やかだ……海とおんなじ水辺なのに、こっちはあんまり湿気感じないな」

「気持ちいいなあ、空気が澄んでるっけ」

慎と上級生たちは大きく伸びをしたり、深呼吸をして高原の空気を満喫する。

「きれいな湖……テレビとかアニメで見たこんはあったけど、こんなところなのね」

「ええ。冬になると白鳥がたくさん飛んでくるんですよ、とっても寒いですけど」

感動で目を輝かせた祐華に、ミチルが地元民のような説明をする。

そこから少し離れたところで、くるみと興津は互いに目を合わせると、さきほどまでの自分たちが照れ臭くなって少しだけ笑う。

「先生、効果ありました?」

「ああ、よく効いたよ。……ありがとう、車に乗るのが怖くなかったのは、子供の時以来だ」

「え……」

思わぬ答えに戸惑ったくるみを無視して、興津はそれ以上の言葉を止めるように、いつもと同じ笑顔を浮かべると、

「みんな、そこのコンビニで飲み物を買っていこう。ここからは歩きなんだろう?」

部員たちに声をかけた。


滝のような汗をかきながら山道を十五分ほど歩き、ミチルの家の別荘につくと、地下に作られた広いスタジオの中には、既にスピーカーやキーボードが運び込まれていた。

「すごい……本格的すぎる」

くるみたちは中を見渡して呆気にとられていた。

「こんなスタジオがあるなんて、ミチルちゃんのお父さんたちって、何してるの?」

今までみんなが訊くのをためらっていたことを、ついに祐華が我慢できない様子で聞いた。

「もともとはお祖父様の会社を継ぐはずだったんですが、どうしても音楽家になりたかったみたいで、伯父様と従兄に会社を任せて、オーストリアの楽団で夫婦そろって演奏してます。ほとんど日本に帰ってこないので、ここもあまり使ったことはないんですけれど……」

さらりと聞こえてきたとてつもない話に、その場にいた全員が及び腰になる。

「……今、雲の上の話が聞こえたな」

「がんばれよ、太陽」

「だーかーらー、なんで俺にいちいち話を振るんです、先輩もりゅーげんも!」

上級生たちは今更ながらミチルの家庭環境のすさまじさを思い知ったようだった。

「いやー、とんでもなくリッチな子が入ってきてたんだな、今年の軽音楽部」

「お兄ちゃん、そういう品のないこと言わないの。ミチルちゃん気にしちゃうでしょ」

くるみに睨まれた慎は肩をすくめると、ギグバッグを下ろして近場の壁に立てかける。

「先生、先に買い出ししませんか?いま検索したら、いちばん近いスーパーでも、片道結構ありそうですよ」

祐華がスマートフォンの画面から顔を上げて興津を見た。

「そうだな、じゃあ全員で行こうか」

「車がないからバスと歩きっすね、すげー汗かきそう」

「あ……先生は休んでてください、疲れてるでしょ?」

さきほどのことを思い出して同行を止めようとしたくるみに、興津はふっと笑いかける。

「大丈夫だよ、心配しなくても」

彼はそう言うとカバンから先ほどのチョコレートの筒を取り出し、ひと粒口の中に入れる。

くるみは嬉しいのと照れ臭いのとで、どんどん顔が赤くなるのを止められなかった。


ミチルのおごりで生鮮食品と米とパンと総菜に、ついでに焼き網に木炭、大量の花火まで買い込んで帰り、彼らは少し遅い昼食をとると、スタジオの中で手早くチューニングを終えた。

「そういやあ、先生、セトリかぶらなかったですか?」

紘輝が興津に聞くと、彼は苦笑いを浮かべる。

「被りようがないよ、この選曲は。そもそもそっちはバイオリンがいるんだもんなあ」

「あはは、今年も先生っちの方は非公開なんですね」

文化祭でも使った、白いプレシジョンベースを手にした慎が楽しげに問う。

「ああ。その方が当日の楽しみが増えるだろう?」

「そうそう、バンドと言えば、麗ちゃんから個チャで聞いたんすけど、藁科先生が吹奏楽部の顧問になったみたいじゃないすか?練習大丈夫なんです?」

「うん、無理をしないで欲しいと言ってはあるけど、藁科先生もすごい人だからね。顧問の方もきちんとされた上で、こっちの練習にも休まず参加してるよ。私よりずっと年上だし、市民楽団の方も東海大会と定演があるっていうのに、どっからあの体力が湧いてくるのか……」

藁科のタフさを心底尊敬している様子で興津が隆玄に応えた。

「すげえな……ガタイいいもんなあ、藁科先生。プロレスラーみたいだもん」

近くに寄れば熊のようにも思える体格を思い出し、紘輝が納得したようにうなずく。

「俺、藁科先生みるたびに思い出す人がいるんですよね……誰だっけ、あの、昔の歌手」

「あー!わかります、わたしも昔テレビで見ました、名前は……えーと……?」

太陽と一緒に悩み始めたくるみに、

「尾崎紀世彦?」

興津が正解を出すと、二人は同時に手を打って顔を見合わせた。

「そんなに似てるの?」

「後で検索してみましょうか、祐華さん」

くるみたちのリアクションに興味を示した祐華とミチルが身を乗り出す。

「ていうか、先生も内心そう思ってたんですね」

「ご自分でネタにされてるからね。去年の忘年会でカラオケに行ったとき『また逢う日まで』を歌ってくれたよ。しかも上手いんだ」

「あー、それ歌ってる人かぁ、うちのばあちゃんが好きでよく歌ってたっすよ」

「なんか意外だなあ……藁科先生、お固くて真面目なイメージしかなかったから」

「……ちょっと待て隆玄、お前いつ清水さんと個チャ交換したんだ」

「……そうか、あれ、今の子はおばあちゃん世代の歌か……」

がやがやとスタジオの中で賑やかに会話をしながら、彼らは練習へとなだれ込んでいった。


その日の練習を終えたのは、既に夜の七時を過ぎた頃だった。

「スタジオだと時間の感覚、わかりづらいね」

「地下だから窓もないですし、仕方ないですね」

夕食の下ごしらえを男性陣に任せて、のんびりと広い湯船に浸かりながら、くるみたちは今日一日酷使した手足を伸ばしていた。

「お兄ちゃんっち、ご飯の支度大丈夫かしら……和菓子は作れても、インスタントラーメン以外の食べ物作ってるの、見たことないのよ」

「先生もいるし、何とかなるんじゃない?」

「……ふふ、くるみちゃんの先生への信頼度、ほんと高いわね」

「ふぇっ!?あ、いや、別にほら、だって、きっとご飯くらい先生ならささっと作れるっていうか、そんな気がしただけで……」

祐華からの思わぬ攻撃に、くるみの顔は茹ったように赤くなる。

「そうですね、いつも部室でお食事されるときもお弁当をお持ちになってますし、きっとご自分の身の回りのことは、全部お出来になるんでしょうね」

ミチルが肩に湯船の湯をすくってかけながら同意する。

「そうそれ。……あの、一人暮らし、だよね?たぶん」

今さらながら彼の私生活が不明瞭なことに気が付き、くるみは不安になった。

「そうだと思うけど……本当に、プライベートのことぜんぜん話さないわよね、先生」

「やっぱりそこはプロなんですよね、時々奥様やお子さんのお話で授業が進まない先生もいらっしゃるのに、興津先生は一切そういうところがないですもの」

「……言わないだけで、実は彼女がいます、とか……あったりするかな……」

「大丈夫よ、もしもそうだったら最初からくるみちゃん、相手にされてないわ」

「……相手にしてもらえてるのかな、わたし。……からかわれてるだけだったらどうしよう」

これまで能天気に彼と両想いだと思い込んでいた反動なのか、急激に不安が湧いて、くるみは思わず本音をこぼし、ため息をついた。

「それはないです。吹奏楽部のこと、あんなに親身になって誠実に対応してくださったじゃないですか。あれは先生のお人柄がよくわかる出来事でした。くるみさん、心配しすぎです」

「そうよ。前にお兄ちゃんっちが話してたけどね、くるみちゃんと仲良くなるまでの先生、雰囲気が暗くて近寄りがたいことが多かったみたいなの。でも、今はそれが無くなってすごく明るくなったって言ってたから、先生もくるみちゃんのこと、絶対意識してると思うわ」

「……うん……」

ミチルと祐華の言葉にくるみは胸をなでおろしつつ、今日の彼との会話を思い起こす。


『わたし、先生に必要とされてるのかな……誰でもいいってわけじゃないよね』

バスの中で、助けを求めるように握り返された手を思い出す。

『ちょっとでも、力になれたんなら嬉しいな。でも、いったい何があったんだろう……』

普段全く隙のない彼の心の中にある、いちばん柔らかく脆い部分に触れたような気がして、身体の奥がきゅっと痛くなる。

『……先生、あのとき、わたしに甘えてたんだよね』

自分の倍の歳の男性を捕まえて言うのも難ではあるが、くるみは確かに今日の彼の姿に母性を刺激されてしまった。

それと同時に、自分だけが彼に甘えて寄り掛かっていたわけではないことにも気が付き、いま自分が抱いている彼への気持ちが『恋』や『憧れ』を通り越してしまったことに思い至って、くるみはすっかりのぼせ上ってしまった。


「くるみさん、顔真っ赤ですよ。大丈夫ですか?」

「ふぁい!?……あ、あはは、ちょっと長くつかりすぎたかな……」

ミチルの声にくるみは我に返ると、湯船から慌てて立ち上がる。

「そろそろ上がりましょ、お兄ちゃんっち、お風呂まだだから、早く交代しないと」

「そうですね」

三人はかけ湯をするため、順番にシャワーへと手を伸ばした。

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