第2話

あれよあれよという間に、静岡の中部にある漁師町の晩夏は秋に移り変わり、まもなく木枯らしが吹き始め、風花が舞うようになり、それも過ぎればやがて桜のつぼみが膨らみ始める。

季節など身に着けるものでしかほとんど実感できないほど、くるみは中学三年生の残り時間を、めいっぱい勉学に費やした。

これほど真剣に勉強したのは後にも先にもないだろう。

同じ時期に大学を受験した慎よりも必死にやった、という自負すらあった。

その甲斐あってか、くるみは四倍という高い倍率を無事制し、志望校の『私立聖漣せいれん高校』に合格した。

慎も滑り止めの私立大には全て落ちたものの、本命である地元の国立大学には無事受かり、周囲の人間を目いっぱいに脱力させた。


その詰め込みに詰め込んだ勉強の合間に、くるみは一つのことを始めた。

正確に言えば『始めた』という言い方は語弊があるのだが、彼女はピアノを弾くようになったのだ。

母が生きていた頃、物心ついたときから直に手ほどきを受けていたのだが、亡くなったことをきっかけにやめてしまったため、実に六年ぶりの『再開』だった。

どうしてピアノなのか、と聞かれれば、答えは簡単だった。

文化祭で見た軽音楽部のステージには、キーボードもピアノも弾く人間がいなかったからだ。

入部するにはもってこいの人材になれること請け合いだろう。

最初はもつれて動かなかった指も徐々に感覚を取り戻し、何冊か教本をさらううちに、彼女は低音のくっきりした、左利き特有の音色が自在に出せるようになった。

次に彼女がしたのは、決して多いとは言えない小遣いをつぎ込み、古本屋からポップスや洋楽のピアノの楽譜を何冊か買ってきて、載っている全ての曲を間違わず弾けるようになるまで弾き込むことだった。

もっと効率のいいやり方があるのかもしれないとは思ったが、これが今の自分の最適解だと信じて、くるみは勉強の傍らピアノに没頭した。


突然ピアノに向かうようになったくるみの姿を、家族も大いに喜んだ。

特に智は、自分も小さかった頃に母と二人で連弾したことを思い出したのか、しょっちゅう『チョップスティックス』を一緒に弾いてほしいとせがむようになった。

半年経った今ではもう、寝る前に必ずそれを弾くことが習慣になっている。

幼すぎて忘れてしまいそうな母の面影を、智が自分の中に見出そうとしていることをくるみはよくわかっていた。

だから、まるで母になったような気持ちで、隣で楽しそうに二本の指を鍵盤に置く智の頭を撫で、間違えずに弾けたときには大袈裟なくらい褒めた。

そして、その習慣が出来てから、いたずらで周囲の気を引こうとする、智の厄介な反抗期はずいぶんと鳴りを潜め、最近は素直に周囲の大人の言うことをきけるようになったのである。

学校でも友達とトラブルを起こすことが減り、父が呼び出されることもなくなった。

智の淋しさを埋められただけでも、ピアノを再開した意味はあったとくるみは思った。


クリスマスには慎の弾くベースと一緒にセッションもしてみた。

『ラスト・クリスマス』『ワンダフル・クリスマスタイム』『ジングルベル・ロック』――

発音の滅茶苦茶な英語で兄妹揃って歌うと、智も父も「酷いなあ、完全に日本語だ」と大爆笑しながら、手拍子で応えてくれた。

なんだかそこで母も一緒に笑っているような気がして、胸が熱くなったことを覚えている。


『音楽』には人の心を救う力があるのかもしれない。

このごろのくるみは、そんなことをよく思うようになっていた。

時折父に借りて聴く母のiPodの中には、まだ自分の知らない曲がたくさん眠っている。

そのすべてに誰かの想いが詰まっていて、メロディと歌詞に、声に、響きに触れるたびに、誰もが励まされたり、慰められたり、心を動かされているのだ。

そして自分もその一人なのだと思うと、なんだかこそばゆい気持ちになる。


あの日から興津の歌声は折に触れてくるみの脳裏に蘇り、胸を熱くする。

彼は自分のことを覚えてくれているだろうか。

兄が毎日会っていたのだから、忘れることはないだろうと思いつつ、不安に心は揺れる。

出来上がったばかりの制服をハンガーにかけながら、孤独な中学校生活が終わる安心感と、ほんのりとした心細さに、くるみはため息を一つだけついた。

鏡の中の自分は、半年前とさほど変わらない。

強いて言うなら肩下だった髪がほんのちょっとだけ伸びたことと、化粧が少し上手くなっただけだ。

制服を着たら変身ヒロインのように目と髪の色が変わればいいのに、と考えてみてから、あまりの馬鹿馬鹿しさに笑ってしまった。

『ただの高校デビューじゃない、それって』

きっとそんなことをしなくても、興津は自分の変化に気が付いてくれるだろう。

彼と話がしたくて兄からビートルズの話もたくさん聞いたし、スマートフォンでいろいろな曲のPVを見ながら寝落ちしたことも少なくはない。勉強のBGMは、動画サイトで片っ端から有名なバンドのMVを選んで聴いていた。

そして、そのどれもが楽しくて、受験勉強など苦にならないほど自分の心を潤してくれた。

今まで触れてこなかったものに触れるということが、どれだけ人生を豊かにしてくれることなのか、くるみはその身をもって強く感じている。

『きっと、先生なら気が付いてくれる』

見た目はどうにもならなくても、何も知らなかった文化祭の頃とは、明らかに心の中は違うのだ。

彼と少しだけ近い目線で語り合うことができる未来を、自分の力で手に入れたことが嬉しくなって、くるみは鏡の中の自分に微笑んだ。


四月の最初の木曜日、窓の外に桜の花びらが舞い散る廊下を、胸に花形のリボンをつけた新入生の群れが歩いていく。

入学式は無事終わったものの、教室に戻ったくるみはしょんぼりと落ち込んでいた。

理由はただ一つ、担任が興津ではなかったことだ。

まあ、そうそう自分の思うとおりに物事が運ぶことはない。むしろ文化祭が出来過ぎだったのだ。一応、彼が一年生の教科担任として社会を教えてくれることだけはわかったので、それだけは絶対に毎回満点を取れるように勉強しようと心に誓う。

『……ていうか、先生の下の名前、大地だいちっていうんだ』

先ほど体育館で見たダークグレーのスーツ姿の興津を思い出し、思わず顔がにやける。

文化祭で逢った時のラフな格好のイメージしかなかった彼女にとって、フォーマルな身なりの彼は非常に刺激的だった。

『大地さんかあ……もしもの話だけど、結婚したら……』

互いのことを名前で呼び合う妄想に浸り、くるみはその甘さに酔いしれる。

気を抜いたら思わず彼の名を口の端に乗せてしまいそうなほど、彼女は今しがたの落ち込みはどこへやら、あっという間に浮かれた。


「はい、みなさん座りましょう」

程なく、このクラスの担任がやって来て、着席を促す。

その声に我に返ったくるみは、慌てて姿勢を正した。そして、

『あ……このメガネの先生、確か興津先生の後ろで、ギター弾いてた気がする』

近場で見た担任の顔に覚えがあることに、ほんの少し安心した。


『安倍 勇志』

彼の名前が黒板に大きく書かれた。

「……入学式でも自己紹介しましたが、改めて。『あべ ゆうし』です。担当科目は数学です。プログラミング同好会の顧問もやっています。入りたい人がいたら声をかけてください。あと二人で部に昇格しますが、そうしたら部費が一万円から五万円になって、先月から死にかけのHDDが買い直せますので、是非よろしくお願いします」

教室に和やかな笑いが拡がる。怖い先生ではなさそうだ。

「あとお話しすることは……そうですね、他の先生方と、バンドの真似事をしています。エレキギターを始めてもうすぐ五年目です。音楽と数学は理論が同じなので、やればやるほど面白いですね」

『へー、その発想はなかった……そういうものなのかあ……』

音楽に大事なものは感受性だけだと思っていたくるみにとって、安倍の発言は目からうろこだった。

『もしかして、興津先生も数学得意なのかな』

妄想の中の彼に勝手な肉付けがどんどんされていくが、くるみはそれをやめる気はなかった。


「では、次はこのクラスの副担任の先生の自己紹介です、お願いします」

そう言うと彼はさっさと壇上から下りる。

『なんか、さっぱりした先生だなあ』

変にねちねちとせず、スマートでユーモアのある喋りに、くるみは胸をなでおろした。

『わたし、やっといい学校に巡り会えたかもしれない』

同級生もだが、味方のはずの教師たちからも向けられる好奇の目に晒されながら、仕方なしに通っていた小中学校の生活を思い出して、ふっとため息が出る。

生徒が入試というふるいにかけられるように、ここで働く教師もまた選ばれているのだろう。

しかも新入生名簿を見る限り、同じ中学からこの高校に進んだのは自分一人だけだ。今日ほど真剣に勉強した甲斐があったと思ったことはない。

『頑張ってよかった。……なんか、わたしの人生、ここから始まる気がする』

副担任の上品な自己紹介を聞きながら、くるみは胸の中で独り言ちた。


「……ありがとうございました。では、次は皆さんの番です。お話ししてもらうのは名前と趣味と、入りたい部活くらいでいいでしょう。出身校は言いたい人だけどうぞ」

ここまで来たらどこの中学校に通っていたかなどは関係ない、みな平等だ。

安倍の言葉からはそんな彼の信条と、この学校の校風を感じる。

「では、そちらの席のあなたからお願いしますね」

「えっ、あ、はいっ」

教室の廊下側の一番前の席の生徒が促され、椅子から立ち上がる。

『わたし、結構最後の方だ。良かった、心の準備がちゃんとできる』

『あ』で始まる苗字ではなかった幸運に感謝しつつ、くるみは出来るだけ浮かないような文章を頭の中で構築し始めた。


やがて順番が近づき、自分の前の席の女の子がおどおどと立ち上がる。

「……藤枝祐華ふじえだゆうか、です」

教室が静かでなければ消えてしまいそうな大きさの声で、名前が聞こえた。

『ふじえだゆうか、ふじえだゆうか……』

人の名前と顔を覚えることは得意ではない。しかし、自分の前後くらいは完璧に名前を覚えなくてはと気を張って、くるみは耳を傾ける。

「趣味は……音楽鑑賞と、読書です。……ベース、弾けるので、軽音楽部に入ります……」

『えっ』

思わず声に出そうになり、慌てて呑みこむ。

「よろしくお願いします……」

彼女がうつむいてすとんと座ってしまった後、優しい拍手が起こる。

『……「ふじえだゆうか」さん……後でお話しできるかな』

自分も拍手を贈りながら、茶色がかった軽い癖のある黒髪を顎下で切りそろえた頭を眺める。

顔はきちんと見えなかったが、名前と後ろ姿の特徴は覚えた。

後で声をかけてみよう、と思いつつ、くるみは立ち上がる。


そのとたんに用意した文章が、全部飛んでしまった。

前の席の彼女の情報を追うことに注力しすぎたのと、思っていた以上に緊張していたせいだろうか。

「あ、えーと……」

頑張って思い出そうと間を取り繕う言葉を発した時、教室がざわついた。

『あ……』

その気配に、くるみは思考だけでなく手足も痺れたように痛くなった。

『……ああ、やっぱそうだよね。この声じゃそうなるか……』

結局どこに行っても変わらない状況の悲しさに飲み込んだ涙と一緒になった言葉は、喉の奥から詰まって出てこない。

「静かに。……いいですよ、続けてください。落ち着いて」

教室の隅で腕組みをしてこちらを見ていた安倍の穏やかな声に、くるみは深呼吸をする。

『……もういいや、開き直ろう』

高校で友だちを作ることをすっぱり諦めて、くるみはもう一度口を開いた。

「牧之原くるみです」

前の席の少女がこちらを見上げて振り向いた気配がする。

教室の妙なざわつきを気にしないように努めながら、くるみは自己紹介を続ける。

「趣味は音楽鑑賞とピアノです。えっと、……わたしも軽音楽部に入ります」

何もおかしいことは言っていないはずなのに、なぜだか恥ずかしくなって、かあっと頬が熱くなった。

「……よろしくお願いします」

『うああ、ただ自己紹介しただけでこの空気……もうやだ……』

心の中で頭を抱えながら、椅子を引いて席に座る。

そのまま机に突っ伏してしまいたくなる。

入学早々の敗北感に、くるみの心は折れてしまった。

『もういいや、あとで興津先生にあいさつに行って、元気出そう……』

ショックでそれ以降誰の名前も覚えられないまま、高校生活初めてのホームルームは幕を閉じた。


「あの」

ホームルームが終わった途端に、前の席の少女――藤枝祐華が振り向いて、話しかけてきた。

「……あなたの苗字、牧之原っていうの?」

「あ、え、うん、そうだけど……」

やや素っ頓狂になった返答に余計に高くなった声を聞いても、彼女は全く顔色を変えない。

自己紹介のとき、彼女は自分の声ではなく名前に反応して振り向いたことがわかり、くるみは警戒心を解く。

「お兄さん、いる?……慎さん、っていう名前の」

あまりに真剣な表情で繰り出された質問に押されて、くるみはたじろいだ。

「え?ああ、あ……うん。……なんで知ってるの……?」

「あ、あの、うちのお兄ちゃんがね、軽音楽部でギターやってるもんで、うちによく、練習に来ててね、慎先輩。……それで……」

「……あ、ああ、そっか、そうなんだ、ああ……うん」

家に泊まりに行って練習するほど仲の良い部活の後輩がいることは知っていたが、その後輩に妹がいる、などという話を全く聞かされていなかったうえ、兄が先輩呼ばわりされるのも初めての経験であるおかげで、くるみは戸惑いを通り越してリアクションに困った。

「先輩の話に出てきた妹さんって、あなたのことだったのね……」

少しでも接点のある人間がいることで安息を得たのだろう、祐華の表情が凪いだ。

「あ、ごめんなさい。……初めまして、藤枝祐華です。先輩には、お世話になってます」

「いえ、こちらこそ。えっと、……牧之原くるみです。わたしも初めまして」

互いに頭を下げつつ、先ほどの教室の雰囲気と逆に、彼女には好印象を与えることができたようで、くるみは小中学校の二の舞を回避できそうな気色に内心ほっとした。

そして、ふと兄と彼女の共通点に思い当る。

「……もしかして、藤枝さんにベース教えたのって、わたしのお兄ちゃんだったりする?」

嬉しそうにこくんとうなずいた祐華の様子を見て、くるみは何となく察しがついた。

『あー、この子、お兄ちゃんのこと好きなんだ。……なんか、ウサギみたいで可愛いなあ』

改めて祐華を見てみると、どこか小動物のような可愛らしさがある。黒目がちの大きな目と、きゅっと口角の上がった口元がそう思わせるのかもしれない。

こんなかわいい子に好かれるなんて、自分の兄もなかなか隅に置けないな、と、感心しつつ、

「藤枝さんも、軽音楽部に入るんだっけ?」

先ほどの自己紹介を思い出して、くるみは祐華に尋ねた。

「うん。……牧之原さんは、ピアノ弾くの?」

「ちょっとだけね。五年以上弾いてなかったけど、最近また始めて……」

「すごいな……わたし、ベース弾くまで、リコーダーと鍵盤ハーモニカくらいしか演奏したことないもんで、ピアノ弾ける人って憧れちゃう……」

どうやら祐華は非常に素直な性格のようだ。一切のお世辞の風味がない言葉に、くるみは急に照れ臭くなって慌ててひらひらと顔の前で手を振る。

「そんなことないよ、ずっとサボってたから全然指が動かなくって」

「そうなの?」

「うん。受験勉強の合間に息抜きで始めたら、うっかりのめり込み過ぎて勉強そっちのけになるところだったっけ」

くるみの冗談に、祐華はくすくすと笑う。

『やっば、かわいい……お兄ちゃん、この子と付き合えばいいのに』

祐華につられて笑いながら、帰ったら兄に進言してみようかとくるみは考えた。


「くるみ」

席で祐華と話し込んでいると、書類の提出を終えたらしい紋付き袴姿の父が側にやってきた。

「あ、お父さん」

「早速、友達が出来たみたいだっけね」

「うん」

傍らの祐華に目をやると、若干驚いた顔をしている。

常に和装でいることは小説家である父の妙なこだわりなのだが、むしろ祐華の驚きはそちらではなく、『慎の父』をおそらく、初めて間近で見たことへのそれだった。

「あのね、お父さん。お兄ちゃんがこの子にベース教えてたんだって。知ってた?」

すべてを知っているであろう父にくるみが問うと、父は想定通りの答えを返してきた。

「ああ、聞いてるよ。……何回か迎えの時、車ん中から顔は見てたけど、こうやってちゃんと話をするのは初めてだね。改めて初めまして、慎とくるみの父の、牧之原朔太郎まきのはらさくたろうです。いつも慎がお世話になってます」

「あ、ふ、藤枝祐華です、初めまして。こちらこそ、慎先輩には、いつもお世話になってますっ……」

ぴょこりと下がった頭を見て、銀縁眼鏡の奥の灰色がかった黒い目が笑った。

「いつも、君んとこに泊りにばっか行って申し訳ないね。今度、うちの方に遊びにおいで。本人から聞いてると思うけど、慎はうちから大学に通うから、いつでも会えるよ」

「えっ……あ、……はい……」

お辞儀でくしゃくしゃになった髪を整えようともせず、祐華は真っ赤になってうつむいた。

物書きの勘というより、兄から何か聞いている様子の父は、祐華を見て嬉しそうに微笑む。

『お兄ちゃん、こすい……まあ、こんだけかわいい子なら、ひとり占めもしたくなるか』

兄に秘密にされていたことは癪だが、愛らしい祐華の様に、くるみの心は和んだ。しかし、

「じゃあくるみ、そろそろ帰ろうか」

父のその言葉に、まだ大事な目的を果たしていないことを思い出して焦った。

「ちょっと待って!」

「え?」

きょとんとした父を押しのけつつ、くるみは椅子から立ち上がる。

「どうしても挨拶したい先生がいるの。すぐ職員室行って来るから、ここで待ってて」

「あ、ああ、まあ、ええけども……」

「ごめん、行って来るね!じゃ、藤枝さん、また明日!」

言うが早いか、彼女は教室を飛び出した。


『興津先生、職員室にいるかな』

階段を駆け下りて、夢中で走りながら昇降口を過ぎ、まっすぐ伸びた廊下に出る。

『待って。……ていうか、職員室ってどこ?』

案内板を探してみたが、ショッピングセンターでもないのにそんなものがあるはずがない。

とりあえず廊下の端から端まで見てみるが、職員室の看板はない。その上、

『……やばい、どこの階段下りてきたのかも忘れた』

完全に迷子になってしまった。

「……どうしよう……」

心細さが口を突いて出るが、勢いだけで飛び出してきてしまったことを後悔してももう遅い。


「どうした、こんなところで何してる」

背中から聞こえた声にどきりと心臓が跳ねる。

振り向くと、ダークグレーのスーツに白いネクタイを身に付け、口元に髭をたくわえた背の高い男性がそこにいた。

「……君は……」

余程驚いたのか、彼はコーヒー色の瞳を見開いたきり何も言わない。

間近で見るその人があまりにも眩しくて、くるみも言葉を失う。

二人は無言で、刹那見つめ合う形になった。


「……合格おめでとう、牧之原くるみさん」

沈黙を破って、興津が優しい微笑みを浮かべた。

「思った以上に倍率が高かったから心配してたんだけど、無事に受かってよかった」

その言葉を聞けただけで今までの努力が報われた気がして、くるみの目の端は熱くなる。

「あ、あの、先生、……わたし……」

幸せで弾けてしまいそうな身体をぎゅっと小さくして、制服の青いネクタイを握る。

彼はちゃんと、自分のことを覚えていてくれたのだ。

そう思っただけで胸がいっぱいで、もう何もしゃべることができない。

彼に逢いたくてここまで来たのだと言ってしまいたい気持ちと、それが許されない環境になったこととの板挟みで、心はギシギシと痛い。

その痛みと想いは姿を変えて涙になり、ぼろぼろととめどなく溢れてくる。

「……十年教師やってるけど、入学式で泣いた生徒は初めてだよ」

興津が小さく笑った。

「すみません……」

くるみはハンカチで涙を抑えながら、頭を下げた。

「謝らなくていい、それだけ頑張ったんだろう?」

彼の言葉がまた涙を連れてきて、真新しい制服の紺色のブレザーを濡らした。


『ああ、どうしよう、大好き』

燃え上がった心は、身体の芯まで熱くする。

久しぶりに聴けた低くて優しい声は、摩耗した記憶を上書きしていく。

『やっと会えた……これからは毎日、会えるんだ』

今日からの日々が確かなきらめきに満ちていることに、くるみは目が回りそうだった。


目の前で泣いている少女の扱いに困惑しながら、興津は安堵の息を吐いた。

『本当に良かった、合格して』

兄から話を聞き、新入生名簿で名前を見た時にもわかってはいたが、こうして実際に目の前にいると、なんとも感慨深い。

この様子を見るに、きっと並々ならぬ努力をしてきたのだろう。

『一生懸命だったんだろうな、素直でいい子だ』

夏の終わりに会った時から、それとなく気にかかっていた彼女を、改めて見つめる。

まっすぐで艶のある伸びやかな黒髪に、まつ毛の長い大きな瞳。整った顔立ちに白い肌。

母親が女優だということは聞いていたが、確かにその血はしっかりと受け継いでいるのだろう、彼女には人目を惹く華やかさがあった。

そして、あの日から頭に残って消えない、甘く愛らしい声が再び耳を心地良く撫でる。

『宝石みたいだ』

そう思った瞬間、彼の心臓は不意に跳ねた。

『……?』

その感覚に少しだけ戸惑ったが、彼はひとまずそれを心の片隅に追いやり、もう一度くるみに話しかけた。


「ところで……本当にこんなところで何をしてるんだ。教室は東棟だろう」

くるみは興津の問いに応えようと、どうにか残りの涙を呑みこんで顔を上げた。

「……あの、職員室に行こうとして、迷って、……自分の教室に戻れなくなって……」

「職員室?何かあったのか?」

「いえ……」

くるみは一瞬ためらったが、

『……誰もいないから、言っちゃおう』

彼の目を真っ直ぐに見つめると、思い切って本音を口の端に乗せた。


「先生に会いたかったんです。……それだけ」


言ってしまってから恥ずかしくなって、くるみは顔を逸らした。

それでも様子が気になり、視線だけをそちらに戻すと、はっきりとわかるくらい顔を赤くした彼がそこにいた。

『先生、好き』

なんとなく、彼の心の端っこを掴めたような気がして、くるみはもう一度興津に向き合うと、自分でも驚くほど素直に微笑んだ。


彼は一つ咳払いをし、慣れた雰囲気を醸しつつ、しかし困ったように眉根を寄せて笑う。

「……それはどうも。でも、自分の教室と職員室の場所くらいは前もって確認しておきなさい。私が通りかからなかったら、さっそく校内放送のお世話になるところだったぞ」

「はい、すみません」

興津の優しい叱責に、くるみは肩をすくめた。

さらに彼は何かに気が付いた様子で、彼女の顔に自分の顔を近づける。

「それから、うちの学校はメイク禁止だ。……マスカラが落ちてるから、他の先生に見つかる前に、そこの職員トイレで落としてきなさい。今日だけ特別に見逃してあげるよ」

「は、はい」

「戻ったら教室まで連れて行くから、急いで。もうすぐ新入生は下校の時間だ」

「はい!」

くるみは慌てて、すぐそばの女子トイレに駆け込んだ。


「うわ、やだ」

涙袋にぱらぱらと散らばったマスカラのかけらを、水にぬらしたティッシュでそっと拭う。

もうこのブランドは使うのを止めよう、と思いつつ、目元を確認してからティッシュをごみ箱に捨てる。

『でも、まさか泣いちゃうなんて、思わなかったんだもの……』

考えていたよりずっと重く彼のことで思い詰めていた事実に、自分で引いてしまう。

そしてふと、先ほどの彼の顔の近さが蘇って、

「……!」

あのままキスされたら、などと不埒なことを考え、彼女は一人悶絶した。


「あの、ところで、なんで先生はこっちまで来たんですか?」

連絡通路を並んで歩きながら、くるみは興津に問う。

「ああ、明日の新入生歓迎会で使う、機材の確認をしようと思ってね。私も一緒に演奏するもんで……」

「え、そうなんですか!?」

声を弾ませたくるみに、興津は照れ笑いを浮かべてこたえる。

「うん、君のお兄さんが卒業してしまったから、いま軽音楽部にはベーシストがいないんだよ。ギター二本とドラムでスリーピースというわけにもいかないからね。……ああ、ごめん。スリーピースっていうのは……わかるかな?」

「はい。勉強しましたから」

「えっ」

想定外の返事だったのか、興津の声が裏返った。

「先生、わたし、軽音楽部に入ります。ピアノ弾ける人、要るでしょう?」

「……」

興津の足が止まる。

「だめですか?」

くるみは彼の目の前に歩を進め、その顔を見上げた。

「……いや、そうか。君が入ってくれるのか……」

彼は髭の生えた口元に手を当て、何か思案しているようだった。そしてすぐにその考えをまとめたらしく、

「……君、ピアノを弾きながら歌うことはできるかな?」

「えっ」

今度はくるみにとって、想定外の問いを返した。

「やってみないか、ボーカル。自覚がないかもしれないけれど、君の声はとても魅力的だ」

「……」

「明日の放課後に部室で待ってるから、そこで一曲歌って欲しい。伴奏が欲しければ極力応える。好きな歌なら何でもいい。君の声を、一度きちんと聴かせてくれないか」

興津の眼差しは真剣だった。


クリスマスに家族の前で歌ったときのことを、くるみは思い出す。

でたらめでよければ弾き語りはやれないことはないが、他人の前となると話は別だ。

人に紛れられるという理由だけで入ってしまった合唱部も、顧問にずっと注意されてばかりで、周りの子たちよりも小さな声で目立たないように歌ってばかりいた。

『好きな歌……』

急に言われてもぱっと思いつかない。


迷っている様子のくるみに、興津ははたと我に返ったように口元から手を離し、頭を振った。

「ごめん、無理にとは言わないよ。でも、気が向いたら挑戦してほしい。……もちろんピアノは大歓迎だ、私も部員もみんな、君の入部を待っているよ」

行こうか、と促されて、くるみは再び彼と並んで廊下を歩きだす。

二人が通った後の連絡通路を、散り始めた桜の花びらが渦を巻いて舞い上がった。


家への帰り道、くるみはぼんやりと車中に流れる曲を聞いていた。

「きみが会いたかったのは、興津先生だったんだね」

「うん。……文化祭の時に、ちょっとお世話になったから」

「そうか、じゃあ慎のこともあるし、今度うちに呼んでお茶でもご馳走しようか」

「だめだめ、そういうの。お父さんが高校生の頃とは違うんだからね」

くるみは父の提案を一蹴した。出来ることならそうしたいが、彼の立場もある。たとえ親であっても気安く個人的な付き合いをしてはいけないだろう。

「そうか、それは残念だ。いやあ、それにしても、興津先生もだけど、きみの担任の安倍先生も面白い人だね。話題が尽きないもんで、待ってる間ぜんぜん退屈しなかったよ」

そう語る父は本当に楽しかったのだろう、曲に合わせて鼻歌を歌い始める。

『やたらご機嫌だなあ……まあ、めったに話が合う人いないもんね』

嬉しそうな父の背中に、くるみも笑顔になった。


と、その時、車は駅前の道路に入ると、すぐそこにあった駐車場へと向かう。

「あれ、まっすぐ帰らないの?」

「うん、ちょっと寄りたいところがあってね」

そう言って父は車を停めると、瀟洒に袴の裾をさばいて車から降り、くるみもその後に続く。

「なあに、お昼買うの?」

「ふむ、カロリー的にはお昼になるかなあ」

先を歩く父の意味深な物言いに、くるみは首を傾げた。ほどなく、

「ここだよ」

白い紋の抜かれた青磁色の暖簾と、『わらび餅』と書かれたのぼりが、ぱっと目に入った。

「和菓子屋さん?」

「うん。ちょっとここには、君もご縁があるでね」

ますます意味深なことを言う父を訝しみながら、くるみは後について自動ドアの中に入った。


「いらっしゃいませ」

重厚かつ上品な質感の広い店内に、こちらを向いた数人の店員の声があちこちから聞こえる。

入り口正面のケースには色鮮やかかつ繊細な造形の練切と、きんつばやおはぎなどの素朴な小豆の菓子、透き通った寒天や、寿甘やいちご大福のようなカラフルな餅菓子が並んでいる。

その手前には生クリームやバターを使った創作生菓子の置かれた平たい冷蔵ケースがあり、壁際では間接照明に照らされた飴や干菓子などの棚が、きらびやかに店内を囲んでいた。

「ごめんください、先ほどはどうも」

「まあ、先生!こんにちは、いつも御贔屓にしていただいて、ありがとうございます」

父の姿に、レジの前で商品の並びを直していた和装の女性が、明るい声を上げた。

「いえいえ、いつも息子がお世話になってます。お嬢さん、合格おめでとうございます」

「いえ、こちらこそ、兄妹揃ってうちの子がお世話になって……慎くん、大学合格、おめでとうございます。それにしても、まさかお嬢さんとうちの子が同じクラスになるとは思いませんでしたっけ。ああ、ちょっとお待ちくださいね」

女性は賑やかに喋ると、後ろに置かれた電話の受話器をひょいと取り、ボタンを押すと、

「祐華!慎くんのお父さんと妹さん来てくれたっけ、ちいっと店ぇいらっしゃい!」

弾んだ声でそう言って、受話器を置いた。

「え、ゆうか?……藤枝さん?」

あまりに唐突な展開に、くるみは面食らった。

「ああ。君の友達のご実家はここだよ。『藤枝菓子舗』。慎がよくお土産買って来るだろう?」

着物の袖の中で腕を組んで、父は片目を瞑ってみせた。

「あ!……あー、あのめっちゃ美味しいクリームどら焼きのお店、ここだったのかあ……」

兄が時折、部活終わりや泊りがけの練習から帰ってくると、それのみならず羊羹やカステラを手にしていたからくりがわかったくるみは、ぽんと手を打った。

「ちょっと待っててね、いまあの子、工場の手伝いしてるもんで。もう来ると思うから」

よく見れば眉鼻が祐華にそっくりな彼女の母がそう言うと、店の奥の廊下をばたばたと急いた足音が近づいて、白い暖簾の裏から、さっき教室で雑な別れ方をした少女が姿を現した。

「……牧之原さん……」

髪を結び、七分袖の作務衣に着替え、顎までマスクを下げた祐華は、心から嬉しそうに笑う。

「……あはは、お邪魔してます……なんか気まずいっけね、また明日なんて言ったのに」

くるみは指をもじもじと動かしながら、店の石畳の上に降りてきた祐華に微笑み返した。

「さっきはごめんね、ちゃんと挨拶もしないで」

「いいの、気にしないで」

「お家の手伝いしてるんだ、えらいね」

「ううん、ぜんぜん……まだ、習い始めたばっかで……」

そこで途切れた会話が照れくさくて、ふふっ、と互いに笑うと、先にくるみが口を開く。

「お兄ちゃん、よくお土産に和菓子買って来るの、いま納得したっけ」

「うふふ、お得意様なの。お父さんの試作品の試食もしてもらったりして……」

「なあるほど、どうりで運動量の割に痩せないわけだ」

学校まで四十分は自転車でかかるというのに、兄が全くやつれなかったことにも合点がいく。

くるみの冗談に、祐華は小さく吹き出すと、

「……おんなじクラスになれてよかった。先輩から、わたしと同い年の妹さんがいるのは聞いてたし、聖漣に来ることも知ってたけど、違うクラスだったら、話しかけに行くの、すごく勇気が要ったと思うの。それに、部活もおんなじなの、すごく嬉しい」

そう言って、小首をかしげてひどく喜ばしそうに笑う。

「あはは、……そんな大した妹じゃないよ、わたしは逆に、お兄ちゃんが藤枝さんのこん、なーんも教えてくんなかったからさ、ちょっとびっくりしたっけ」

隠していたということはおそらく本気で祐華が好きなのだろう、帰ったら兄を問い詰める気満々ではあるが、それがきっかけで出来た縁に、くるみも素直に笑顔を返した。

「あの、……挨拶したい先生、会えた?」

そんなくるみの胸の内を知らない祐華が、心配そうに問う。

「うん。会えたよ。受験ですごくお世話になったから、そのお礼が言いたくって……」

そう答えながら、興津と過ごした、ほんの十分足らずながらも強烈に甘い、二人きりの時間の幸せな感覚に浸ってしまいそうになったのを、くるみは慌てて堪えた。

「そうだったの……そうだわ、わたしも慎先輩に、お礼言わないと。わたしより忙しいのに、いろいろ相談に乗ってもらっちゃったから……」

兄の名前を口に出すだけで薔薇色に染まる頬が、なんともいじらしく愛らしい。

『本当にいい子だなあ……お兄ちゃんが惚れるわけだ、話してるとホッとする……』

祐華となら、もっと仲良くなれる。そんな気がして、くるみは少しだけ勇気を出した。

「ねえ、今度遊びに来てよ。……祐華ちゃん、来たら、お兄ちゃんもきっと喜ぶでさ」

苗字ではなく下の名前で呼ばれたとたん、ぱっとこちらを見た祐華の顔は、そのまま泣いてしまいそうなほどの喜びに満ちていた。

「うん……ありがとう……くるみちゃん」

照れくさそうに自分の名前を呼んでくれた祐華に、くるみも照れ笑いを返した。


今度こそ「また明日」の挨拶を交わしてから、くるみは祐華と別れた。

車に乗り込み、種々の和菓子の入った大きな袋を膝にのせて、シートベルをを絞めてからエンジンがかかると、母のiPodは『少年時代』を歌い終え、次の歌を紡ぎ出す。

覚えのあるピアノの出だしに、はっとくるみの意識が留まった。

『aikoの「初恋」……これ、確か楽譜持ってた。これなら弾き語りでいけるかも』

歌はさておき、ピアノは楽譜さえあればどうにでもなる。

『それにこの歌、歌詞がすごく……なんか、これ先生の前で歌ったら、先生に告白してるような気分になりそうで……』

自分の言葉ではなく歌という形を取る分、かえって素直に気持ちが出せそうだ。

『よし、この歌にしよう』

明日のために練習する曲は決まった。

くるみは一足先にカーステレオから流れてくるサビのメロディに合わせて、小さな声で歌い始めた。

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