LIVES! ―聖漣高校軽音楽部―

七味まよ

第0話 ープロローグー


それは、たったワンフレーズだけだった。

その人の歌声を聞いた瞬間に、彼女の身体は稲妻に打たれたような、痺れる感覚と息苦しさではじけそうになった。

力強く、優しく、甘い歌声に、彼女の頬は一瞬で耳までぶわっと燃え上がった。

どきどきと高鳴る鼓動を止めようと思えない。

むしろこんなに心地のいいものなのかと、その感覚に少女はうっとりと浸った。

それを『酔う』という言葉で表現できるようになるまで、まだ五年は待たなければいけない年頃の彼女の心を奪った相手は、ステージの上で歌う一人の男性だった。

ワイシャツの袖をまくったラフな格好で、遠目にはバイオリンのように見えるギターを――それがエレキベースというものだと知ったのは、もう少し後になるが――確かな手つきで弾きこなし、力強く高らかに彼は歌っている。

帰ろうとしていた足が止まり、魔法をかけられたような心持ちで彼女はステージへと向かう。

今まで自分の知らなかった世界を見せてくれたような気がして、瞬きすら忘れ、彼女は人波の最後尾から彼を見つめ続けた。


中学三年生の牧之原まきのはらくるみは、兄のまことに誘われて、街中の私立高校の文化祭に来ていた。

兄の所属する軽音楽部の演奏があると言われたので、学校見学も兼ね、土曜の朝からそれなりにおしゃれをして、最寄りのバス停から車に揺られた。

兄の部活については知ってはいたが、それまでろくに指導をしてくれる人物がいなかったのか、いつも眠る間際まで聞こえてくるその重く低い楽器の音はどこか拙く、物足りなさと頼りなさ、そして兄自身の心細さを表すような不安定さを感じさせるものがあった。

ところが、ある時期を境に、その音は急速にのびやかに艶やかになり始め、間違いなく彼に正式に手ほどきをした人物がいることを思わせる響きを持つようになったのだ。

話を聞けば、どうやら顧問の教師が変わったらしく、それまでほとんど自己流だった弾き方を基礎から丁寧に教え直してもらえたのだという。それと時期を同じくして、どこかで何かを諦めた様子だった兄の言動が急に生き生きと前向きになり始め、その変わりように、父も弟のさとしも、もちろんくるみも驚きを隠せなかった。

教える人間が違うだけでこんなにも人は変わるのかと、くるみは一種の感動すら覚えた。

そして、こんなふうに兄を変えたその教師に会ってみたくなった。

一体どんな顔で、どんな姿をしているのか、男なのか女なのか、どれだけ影響力がある人間がそこにいるのかを確かめようと思った。

しかし、反抗期真っ盛りの智はどう誘ってもついて来ず、そうなると子供一人を残して父が一緒に来るわけにもいかなかったので、結局はくるみだけが来校することになったのだが。


『どうしよう、こんなにどきどきしたの、生まれて初めて』

甘い歌声は耳の奥をくすぐりながら、脳内を揺さぶる。

体育館の真ん中で立ち尽くしたまま、くるみは一曲目を聞き終えてしまった。

『どんな人なんだろう、もっと近くで見たい』

彼女は心のままに高校生の群れをすり抜けながら前へと進む。

やがてステージのかぶりつきまでくると、彼の顔がよく見えた。


『あれ……めずらしいな、ヒゲ生やしてる先生なんて』

実際の年齢はわからないが、三十そこそこといったころだろうか。

サイドから流された軽い癖のある暗い茶色の髪に、切れ長で大きく、少し垂れた目と鼻筋の通った彫りの深い顔立ちが眩しくて、彼女の鼓動は加速する。

男っぽい凛々しさはあるものの、その薄い唇の上の髭がなければ威厳が保てなさそうなほど、彼は優しく柔らかく、そしてどこか深い愁いを帯びた雰囲気を纏っている。

『ヒゲがなかったらモテるだろうな、この先生』

実際、女子生徒が彼に何か声援を送る様子はない。彼女たちの歓声は明らかに、その隣にいる黒いギターを手にしたジャージ姿の若い教員に向けて放たれていた。

凛としたまつ毛の多い猫目はぱっと人目を引く。若手のミュージカル俳優にいそうな顔だ、とくるみは思った。

「「おおいせんせ―――――――い!!!」」

多分そのジャージ姿の教師の名前だろう、間奏のギターソロを太い音で弾き終えると、少々面倒くさそうに彼がそちらを見た途端に再び黄色い歓声が飛ぶ。

その隣で穏やかに笑うさきほどの男性に目を戻して、くるみは小さなため息をついた。

『確かに、ジャージの先生もかっこいいけど、……なんでだろ、わたし、このヒゲの先生の方が好き……かも……』

くるみは真っ赤になってうつむく。

こんなに心地のいい声だというのに、誰もそれに気が付いていないかのような周りの空気に、

『……なんか、得した気分』

くるみはほんの少しだけ優越感を感じて、もう一度、歌が終わったステージを見上げた。


その瞬間、彼と目が合ってしまった。

どくん、と一つ大きな音を立てた心臓は、めまいがしそうな勢いで血液を送り出す。

そして彼の翳りのある目がふっと優しく笑った途端、火が噴き出したかと思うほど顔じゅうが熱くなってしまった。

微笑み返す余裕もなく、無意味にぺこりと頭を下げる。

そのまま深呼吸をして再び顔を上げると、彼はもうこちらを見ていなかった。

すぐに次の曲が始まる。


『あ、この曲……』

出だしのドラムの音だけでわかってしまう。

それは、小学生の頃から何百回繰り返し聴いたかわからない歌だった。

『セカオワの「RPG」だ』

自分が聴いてきたものよりずっと音色は少ない。ピアノだけで紡がれる鍵盤のメロディと、少し硬い響きのドラムに、エフェクトのないボーカル。

それでも目の前でその歌が歌われ始めたことは、運命としか言えない出来事だった。


八歳の自分が生まれて初めて味わった、決して救いのない絶望という結末。

そこから立ち直らせてくれた歌が、記憶の扉を開く。

だんだんといないことが当たり前になってきて、このごろは前よりも思い出すことが少なくなっていたその人の、最期に見せた力のない笑顔が目の前に蘇る。

『お母さん……』

ぽろぽろと溢れ出してしまった涙が、下手くそな化粧を施した肌を伝って落ちる。

慌ててハンカチをバッグから取り出して目元を抑えると、下まつげから滲んだ安物のマスカラがそれを汚した。


くるみの母が死んだのは六年前だった。

亡くなる一年前からずっと具合が悪そうにしていたのに、まだ小さかった弟の面倒を見たり、料理や洗濯や掃除をしたりと、母は甲斐甲斐しく働いていた。

しかし、やがてそれすらもままならなくなり、物書きの父が時折手伝ったり、酷いときは一日中寝ている母の代わりに家事をこなすことが増えた。

少し動くだけで気分が悪いと言ってベッドに横になる母を、怠け者だとからかったことを後々くるみは深く後悔した。

どんなに具合が悪くなっても、母は病院に行こうとしなかった。

きっと、本当のことを知るのが怖かったのだろう。

それでも冗談を言おうとしたのか、弟を産んだときに担当した医師がひどく冷たかったのと、看護師が厳しかったことがとても嫌だったのだと、あとになってから子供のようないいわけを、うわ言のように語っていた。


そうやってごまかしながら暮らしていたある日。

見かねた父が泣いて嫌がる母を無理矢理大きな病院に連れて行ったときには、もうすべてが手遅れだった。

ステージⅣの白血病。それが母に下された診断だった。

それからたったの半年で、母は自分たちを残して逝ってしまった。


母が危篤に陥ったその日、学校を早退しようとした自分の前に、大きなカメラとマイクを持った人たちが一気に押しかけてきた。

後ろで見送りについてきた担任が、どこか愉快そうに差し出されたマイクへ何かを喋っているのが、目の端に映ったとき、兄に手を引かれてくるみはようやく車に逃げ込んだ。

校門で自分を待ち構え、残酷に、乱暴に向けられたそのマイクを持った人々の、面白いおもちゃを見つけたような目が恐ろしくて、ランドセルを下ろすのも忘れ、声を上げて泣いた。


怯える自分に、父は理由を教えてくれた。

母は、結婚する前はそれなりに名前の売れた女優だったのだ。

父の作品が映画化した際に知り合い、撮影が終わった後に兄を身ごもった母は、そのまま結婚し、引退して、父の故郷であるこの街で暮らし始めたのだという。

その話を聞いても実感は全くわかなかったが、翌朝それをテレビのニュースで、まるで他人事のような気持ちで見た時、小さい頃から何となく自分が遠巻きに人から見られていることに合点がいった。

自分の家族はほかの子たちと違うのだ。

他の子の父親はいつも家にいない。母親もたいていは働きに出ている。自分の家の常識は他の家の常識ではないのだと思い知った。

上靴を隠されたことも、ノートを破かれたことも、忘れ物をした時に自分だけが頭を叩かれたことも、全ての原因がそこにあったのだ。


母の葬儀を終えて学校に戻ると、ニュースを見たのであろう同級生が、手のひらを返したように自分に優しくし始めたことにくるみはうんざりした。

誰のことも信じられない気持ちでいっぱいだった。

自分が世界の中でひとりぼっちになってしまったようで、息が出来なくなるほど苦しかった。


母がいなくいなった後の家族は、あっという間にずたずたになった。

毎晩夜泣きするようになってしまった智を父と一緒にあやして寝かしつけると、父は薬を、自分は温めた牛乳を飲んでからベッドの中に入る。

真夜中に目覚めて兄の部屋を覗きに行くと、いつもドアの隙間から光が漏れている。

毎晩訪れる深い悲しみを孕んだ日々を繰り返すうちに、くるみは子供心には重すぎる虚しさを抱えてしまっていた。

こんな時に泣いて甘えられる人が側にいてくれたらいいのに、もういないのだと思うと、孤独感はさらにその暗い色を増した。


そんなある日、兄が母の遺品のトートバッグから、あるものを見つけた。

それは母がいつも車の中に持ち込んでいた、古いiPodだった。

家族みんなでパソコンの前に集まって、ケーブルを刺し、アプリケーションを立ち上げる。

とりあえず何か聴こうか。そんな話をして、いちばん最近の日付の曲を再生する。

安い海外製のスピーカーから流れて来たのは、柔らかなバスドラムとアコーディオンに載せられた優しくて軽やかな声と、どこか母が最期に伝えたかったようにも思える歌詞だった。


SEKAI NO OWARIの『RPG』――その歌を聴きながら、みんなで泣いた。

納骨の時に、もう泣かないようにしよう、と約束したはずなのに、父も兄も、くるみも声を上げて泣いた。

突然のことにきょとんとしている智を抱きしめ、くるみは母が死んでから初めて、ようやく何も堪えることなく泣いた。


心の中に、いつまでも母は生きていて、元気に笑っている。ここにその母を一緒に想える家族だっている。決してひとりぼっちではないのだ。

繰り返される歌詞に強く強く励まされて、くるみはようやく前を向けた気がした。


涙がおさまった後、父が海までドライブに行こうと言い出した。

もう夕方近かったが、誰も反対しなかった。

車にiPodを繋いで、父は暮れなずむ海岸沿いの道を飛ばした。

幾つもあるフォルダには、きょうだいの名前もあった。

それぞれがずっと昔、母に好きだと言った曲が入っていて、覚えてくれてたんだねと笑って、また少し泣いた。


母がいなくなってしまったことで崩れ落ちてしまいそうだった家族を、もう一度繋ぎ直してくれた歌――その記憶を、ステージの上の彼が、新たな形で鮮やかに描き直してくれる。

耳慣れたあの声ではないのに、自分の心のいちばん柔らかく、深く傷ついたところにあたたかく沁み込むような彼の声に、くるみはしゃくりあげないようにするのが精いっぱいだった。

傍から見たらとてつもなくみっともないだろう。しかし、一度掴まれてしまった魂は、もうそんなことを気にしていられるほどの余裕はなかった。


『決めた、わたし絶対ここを受ける。この先生の側にいたい』

ステージの上で歌う彼を見つめて、ぐしゅぐしゅと鼻水をすすり上げる。

そもそも、この学校は兄が自分に勧めてくれていたのだ。

両親のことで同じかそれ以上に肩身の狭い思いをしてきた兄が、ここは居心地がいいと言うのだから間違いはないのだろう。

家から近いというだけでなんとなく選んだ公立高校よりハードルは高いが、今から猛勉強すればきっと何とかなる。

それに、このあたりの公立高校には小中学校からの同級生が多く進学する。この学校に来てしまえば、あの自分を囲む薄ら寒い空気を感じなくても済む可能性は高い。

高校デビューとまではいかなくても、のびのび生きられる環境が手に入るかも知れないと思うと、がぜん勇気が湧いた。

『私立だから、この先生が来年いなくなっちゃうなんてこともないよね。ていうか、まず落ちないように頑張ろう』

はがれたマスカラのかけらに苦笑いしながら、くるみはハンカチをしまう。


演奏が終わり、彼女はせいいっぱいの拍手を贈る。

そして何故かもう一度彼と目が合った。

泣いているのが見えてしまったのだろうか、さっきよりも優しく彼は微笑んでくれた。

くるみも、今度は目を逸らすことなく微笑み返す。

『わたし、この人の側にいたい』

胸の奥から湧き上がった真っ直ぐな想いは、くるみの背筋を伸ばす。

嬉しくなって手を振ると、小さな子供にそうするように、彼も手を振り返してくれた。

『来年、絶対にここの生徒になります。だから待ってて』

続けて始まった『天体観測』のイントロを聞きながら、くるみは新しい世界に向けて自分の心を一歩進めた。

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