第26話 再生の牧場 - アオイとシンジ

 アオイは、一度家に帰り、ルイのところでもらった干し網を置くと、すぐに家を出た。ミサキの家からさらに北にある牧場に向かう。ミサキの家の前を通るとき、顔を出そうか考えたが、どうせ帰りに寄ることになっているのでそのまま素通りした。


 牧場は、ミサキの家からさらに自転車で40分ほどの場所にあった。遠くに白と黒の柄の牛が群れで見えた。牧場の入り口で一度自転車を止めると、すぐにドローンが飛んできた。認証完了の信号が来て、ドローンから「アオイさんですね。ようこそおいでくださいました。そのまままっすぐ進んでください」とアナウンスされた。


 牧場の道を進みだすと、何台ものドローンが飛び回っていた。少し走ったところで、小さなログハウスと牛舎が見えてきた。家の前で自転車を降りると、「いらっしゃい」と聞こえた。声の方を見ると、麦わら帽子にオーバーオール、長靴姿の恰幅のいい男性が立っていた。


「はじめまして、アオイと言います」


「はじめまして、シンジです。ミサキちゃんから聞いてるよ。今日はミサキちゃんのお使いだよね」


 牧場に来たのは、シンジが作っている牛乳とバターをミサキの代わりに取りに来るためであり、シンジに会うことも目的のひとつだった。


「牛自体は、小さいときに動物園で見たことはあったんですけど、乳牛は初めて見ました」


「最近は、放牧しているところも少ないみたいだし、都会に住んでたら死ぬまで見ない人もいるんじゃない。せっかくだからゆっくりしてってよ」


 そういうとシンジは、牛舎の中を案内してくれた。


 初めて入る牛舎は、清潔で家畜特有の匂いは全くなかった。ほとんどの牛が外にいるのか、中はがらんとしていた。牛舎の端っこに区切られたスペースに行くと、仔牛が一生懸命、母牛のおっぱいを飲んでいた。


「かわいい」


「この子は、先週生まれたばっかりなんだよ」


 二人は、しばらく仔牛を眺めてから牛舎を出た。


「思ったのと違ってて驚きました」


「今は、ほとんどTIが管理してくれて、オートメーション化されてるんで、牛舎の掃除も餌やりも任せっぱなしで、なんか酪農してるっていう実感が全然わかないよ」


 シンジはそう言うとドローンを指さし、


「牛たちの動きもドローンが見てくれてるし、牛についているN3デバイスで健康状態もモニターできるんで、人間がやることはあんまりないけど、ただ牛を見てるだけでも結構楽しくて、特に仔牛の成長を見るのがとても楽しいよ」


「私たちは子供がいないんで、子供の成長を見てるみたいでね」


 後ろから声がしたので振り返ると、トレーを持ったワンピース姿の女性が立っていた。


「アオイちゃんね、はじめまして。家内のリョウコです」


「はじめまして、よろしくお願いします」


 それから三人は、庭に置いてあるガーデンテーブルに移動した。リョウコはテーブルの上にトレーを置くと、紅茶をカップに注いでくれた。


「ありがとうございます。いただきます」


 リョウコは、アオイに紅茶を渡しながら、「ミルクはね、朝搾りたてでHPP処理という高圧殺菌技術を使っているので、加熱殺菌のものより甘みとコクが感じられるよ」と説明してくれた。


 アオイは、紅茶にミルクを入れるとスプーンで一混ぜして飲んだ。紅茶とミルクの香りが口に広がり、砂糖を入れていないのに甘みがある。


「美味しい」


「そうでしょう。僕はミサキちゃんのところのジャムでロシアンティーにしようかな」とシンジは、ジャムの瓶を取り、フタを開けようとするが、なかなか開かない。


「リョウちゃん」と瓶を差し出すと、リョウコは右手の親指と人差し指で瓶のフタをつまみ、いとも簡単に開けた。


 シンジは、ジャムをスプーンいっぱいに乗せると、そのまま紅茶に入れてかき回した。そんな様子を唖然として見ていると、リョウコがそれに気づき、「あぁ、義手なの」と右手の手のひらをヒラヒラと振った。


 リョウコの右手は、AI搭載型医療ロボットによる手術中に起こった医療事故で失った。簡単な手術で、安全性の確認が取れたフェーズⅢ試験だということで、臨床試験を承諾した。手術自体は、手首の内側にできた腫瘍を摘出するものだった。しかし、手術中に誤って血管と神経を損傷してしまい、大量の出血により命の危険もあったため、救命処置を優先するために切断された。


 怒り狂ったシンジは病院側に説明を求めた。当初の病院側の説明は、スキャンデータに誤差が含まれていたため、AIロボットのアルゴリズムにバグが発生し、腫瘍の正確な位置を特定できず、誤った場所を切開してしまい主要な血管や神経が損傷されたというものだった。納得がいかないシンジは、さらなる説明を求めたが、病院側はうやむやに言葉を濁すばかりで明確な回答は得られなかった。手術映像の開示を求めると、看護師のミスで記録されていないと冷たく言い捨てられた。


 しかし、説明に納得がいかなかったのはシンジだけではなかった。AIロボットを無償提供していたNext Navigator社も同様だった。Next Navigator社は、AIロボットを強制的に回収し、細部にわたり徹底的な解析を行った。その結果、医療ミスが起きたタイミングでAIロボットに外部から強い衝撃が加わっていたことが分かった。Next Navigator社は、解析結果を第三者機関に報告した。


 事態を重く見た第三者機関は、病院に対し徹底的な調査を行い、真実が明らかになった。それは前院長の息子が院長を継いだ直後のことだった。医療に対する知識も技術もない素人同然の彼が、親の七光りで新院長になり、興味本位で手術室に入り込んだ際に、よろけてAIロボットに衝撃を与え、事故を引き起こしてしまった。その後、隠蔽工作を行ったことが明るみに出た結果、彼は過失致傷罪と証拠隠滅罪で実刑判決を受けた。病院は信頼を失い、法的措置や賠償責任、内部の混乱、社会的制裁を受けて経営破綻し、最終的には閉鎖に追い込まれた。


 その後、医療機関は事故の再発を防止するため、手術室のアクセス制限や手術室の動線および設計の見直しを徹底することを義務付けた。AIロボットの開発企業にも、安全プロトコルの見直しと、不測の事態が発生した際に緊急停止するシステムの導入が求められた。


 Next Navigator社は、AIロボットが直接的に起因する事故ではなかったにも関わらず、リョウコのために最新の技術を注ぎ込んで義手を作成してくれた。


「全然わかりませんでした」


 アオイが驚いてまじまじと見ていると、


「でも、この人、機械オタクだから油断すると勝手に改造しちゃうの。この間だって、勝手に出力を上げるもんだから、もう少しで牛の頭を握りつぶすところだったんだから」


 リョウコはさらっと恐ろしいことを言った。


「Next Navigator社には感謝してるよ。リョウちゃんの義手もそうだけど、特区への移住も向こうから打診してくれたんだ」


 シンジは空になったカップをテーブルに置いた。


「もうなんか、いろいろと信じられなくなっていた時期だったんで、ここに来られて本当に良かったわ」


 リョウコは右手を見ながらしみじみと呟いた。


「あら、いけないシンちゃん、牛たちが戻ってくる時間よ」


 牧場を見ると牛たちの周りをドローンが飛び回り、一か所に集結させている。


「あ、じゃあ私もそろそろ」


 アオイが立ち上がろうとすると、「ちょっと待ってて」と言って、リョウコは家の中に入っていった。


「ごめんね、バタバタしちゃって。またゆっくり遊びに来て」


「こちらこそ、長居しちゃって」


 リョウコがミルクと紙に包まれたバターを持ってきてくれた。アオイがそれを受け取り、リュックサックに入れるためにファスナーを開こうとすると「チリン」と鈴の音が聞こえた。リュックサックをよく見ると、小さな鈴がついていた。こんなのついてなかったよなと不思議に思っていると、「大丈夫?」とリョウコに言われたので、「大丈夫です」と答えて急いでリュックにミルクとバターをしまい立ち上がった。


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