第8話 穏やかな贅沢 ー アオイとヒデオ

 まっすぐに伸びる一本道を、ミサキと二人で歩いている。


 果樹栽培をしているヒデオの家は、ミサキの家から西に6キロメートルほど先にあるらしい。歩いてきたアオイを気遣って一緒に歩いてくれているのかと思ったが、ミサキは「自転車は乗りたくなったときに使うだけで、いつもは歩くことのほうが多いんだ」と答えた。


 自転車は通常、移動手段として早く目的地に着きたい時や、歩くには遠い場所へ行くために使う道具だ。しかし特区では、時間に追われることがなく、歩いて行ける距離なら自転車はまったく必要がない。


 歩いていると、家にコーヒーがないことを思い出し、ミサキに尋ねた。


「コーヒーってどこで手に入ります?」


「コーヒーポーションは手に入らないけど、生豆ならヒデオさんが育てているから分けてもらうといいよ」


 コーヒーといえばポーションが当たり前で、粉をペーパードリップして飲むならまだしも、生豆から作るなんて思いもよらなかった。


「生豆?」


「そう、生豆。さっき飲んだのもそうだよ。生豆って言っても乾燥はしてるんで焙煎して、その後挽いて粉にするだけだよ」


 確かにミサキの家で飲んだコーヒーは、普段飲むものとは明らかに違っていたが、そんなに手間暇かけていたとは思わなかった。


「焙煎器とミルは、管理局事務所にあるとして、明日と明後日分の豆は分けてあげるから、帰りにまたうちに寄って」


 ミサキが言うには、焙煎して3日寝かせたほうが美味しいらしい。焙煎のレクチャーを受けている間に、ヒデオの家に着いた。


 ヒデオの家は、アオイたちの家より一回り大きく、家の横にある屋根付きのガレージには農機具や、大小異なる2台の子ども用自転車が置かれていた。家の裏手には広大な農園が広がり、いくつかの果樹は太陽の光を浴びて風に揺れていたが、多くの果樹はガラス製の箱に収められているのが見えた。


「こんにちは」


 ミサキが大きな声で呼びかけると、家の奥から「はーい」と返事が聞こえ、ドアが開いた。そこには、見るからに優しそうなおばあさんが立っていた。


「あら、ミサキちゃん、こんにちは」


 おばあさんが挨拶をし、隣に立つアオイに視線を向けた。


「アオイといいます。昨日、特区に来ました」


 頭を下げたその時、奥からドタドタと足音が響き、小さな男の子が走ってきた。


 男の子はアオイのすぐそばまで駆け寄り、「新しい人? 僕、トモキ! 小学3年、お姉ちゃん誰?」と元気いっぱいに話しかけてきた。


「こんにちは、アオイといいます。よろしくね」


 トモキの勢いに圧倒されていると、奥から女の子が現れた。彼女はトモキより少し背が高く、利発そうな顔立ちをしている。一目で面倒見の良さが伝わる、しっかりとしたお姉ちゃんといった印象だ。


「トモキ! まだ授業中でしょ!」


 女の子はトモキの腕をしっかりとつかんだ。


「ユウナと言います。まだ授業中なので、今日はこれで失礼します」


ユウナは礼儀正しく頭を下げると、抵抗するトモキを引きずって家の奥へと消えていった。


「騒がしくてごめんね。ところで、今日はどうしたんだい?」


「あっ、そうだ! これ、ヒデオさんに分けてもらったパイナップルで作ったケーキです。みんなで食べてください」


 ミサキはケーキの入った紙袋をおばあさんに手渡した。


「ヒデオさんたちは農園ですか?」


「いつもありがとうね。もうすぐ戻ると思うけど、よかったら農園を案内してあげて」


 おばあさんは微笑みながら農園の方を見やり、そう言った。


「ありがとうございます。そうします」


 二人で軽く会釈して、農園に向かって歩き出した。


 農園は、無秩序に見えるほどさまざまな果物が植えられていた。オレンジ、サクランボ、リンゴ、バナナ、桃、パイナップル……。気候や地域に関係なく、これだけ多様な果物を育てられるのも、TIによる管理の賜物だと感心する。


 甘い香りに包まれながら奥へ進むと、ネクタリンの木の前で作業をしている男女の姿が見えた。収穫用のカートが二人の間をせわしなく行き来し、果実を摘むたびにカートがすぐそばまで移動してくる。二人はそのカートに次々と果実を入れていた。


「おーい、ヒデオさーん」


 ミサキは手を振りながら二人に近づいた。


 二人はミサキの声に気づき、手を振り返してくれた。ミサキとアオイが二人に近づくと、作業をやめてこちらに歩み寄ってきた。


「こんにちは。パイナップル、とても甘くておいしかったです。パイナップルケーキにしてみたんで、あとで食べてください」


「ありがとう。最近は自分たちの育てた果物がどんなお菓子になるのか楽しみでね。それががんばれる原動力になってるよ」


 ヒデオは笑顔で答え、アオイに視線を向けた。


「あ、こちらアオイちゃん、昨日着いたばかり」


「よろしくお願いします」


「俺はヒデオ、でこっちが家内のナミ」


「よろしくね」


 ナミがほほえんだ。


 あらためて果樹園を見回した。


「それにしても、いろんな種類の果物があるんですね。大変じゃないですか?」


「そうだね、ここまで安定してきたのは最近だけど、TIが管理してくれている部分もたくさんあるから、ひと昔前よりはずいぶん楽になったんだろうけど、それまで植物を育てたことなんてなかったし、わからないことだらけで、TIが管理してくれると言ってもやっぱり人間の目で見て微調整する必要はあるし、いろんな種類があるからその木ごとの特性や病気についてもある程度は知っておかないといけないし、害虫や害獣はドローンが対応してくれるけど、収穫はやっぱり時間がかかっても人の手でやらないと果樹が傷ついたり、完熟していないものを収穫して無駄が出るから…」


「おとうさん!」


 矢継ぎ早にしゃべるヒデオをナミが止めた。


「果樹について話し出すといつもこうなんよ。昔はこんなにしゃべる人じゃなかったのに」


 苦笑いしたナミの表情には困った様子はなく、むしろ楽しんでいるように見える。


 ヒデオは照れくさそうに「つい熱くなっちゃって」と言い、頭をかいた。


「食べたいものがあったら言って、完熟しているのを教えてあげるから」


 ヒデオは実のなっている果樹を指さした。


「そうそう、アオイちゃんにコーヒー分けてもらえます?」


 ミサキがヒデオに聞いてくれると、ヒデオはぐっとアオイに近づいてきて、「コーヒー好き?」と尋ねてきた。


「好きというか、モーニングルーティンで飲んでいる感じでした。でも、ミサキさんの家でいただいたコーヒーは全然違って、とてもフルーティーでおいしかったので、はまりそうです」


 後ずさりしながら答えた。


「そうでしょう、なんたってうちの豆は水洗式じゃなく乾燥式で、太陽の光でじっくり乾燥させているんで手間暇かけているぶん繊細でフルーティーなんだ。そもそも水洗式は水が大量にいるし、機械乾燥なんてもってのほかで、とはいっても豆の種類で発酵の加減も違うし…」


「おとうさん!」

 

 さっきより大きなナミの声にビクッとしたヒデオの姿に、みんなが笑い、和やかな空気に包まれた。


 なんて幸せな時間なんだろう。澄み渡る青空、優しい風、木の葉がすれ合う音と鳥の声、果物の甘い香り、そして優しい人たちとの楽しいおしゃべり。すべて自然の中にあるものなのに、なんてぜいたくで幸せなことだろう。


 これまでの自分の生活は何だったんだろう? 時間を節約するために便利さを求め、便利な道具を手に入れるためにお金を稼ぐ。お金を稼ぐために働く。一生懸命働けば働くほど自分の時間が失われ、残された時間を効率的に使うためにさらに便利さを求める。


 そんなスパイラルの中で生きてきたが、特区では自分の時間がたくさんある。不必要な便利さや手軽さはなく、丁寧に生活することができる。そんな生活の中にこそ、人間としての幸せがあるのではないかと思い始めた。


「お金ってなんだろう?」

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