第12話 共に生きる時間 ー アオイとナオユキ
ミサキに借りたロードバイクは、とても軽くて快適だった。動力アシストはないが、軽やかで乗り心地がいい。リュックサックには、ミサキが焼いたネクタリンのタルトが入っている。ミサキも誘ったが、別の約束があると断られた。
ナオユキが野営しているポイントに近づくにつれ、段差や砂利が増えてきた。しかし、最新のサスペンションのおかげで振動や衝撃はほとんど感じない。もう少しというところで、森の木々に阻まれ、自転車を押して歩くことにした。
森を抜けると、広々とした平原が現れた。平原の真ん中に、三角のテントと小さく燃える焚き火が見える。近づいていくと人の気配は感じられないが、一応テントに向かって声をかけた。
「こんにちは、連絡させていただいたアオイです」
「……」
返事がない。やはりどこかに行っているようだ。自転車を近くの木に立てかけ、少し待つことにした。焚き火の横には背の低いテーブルと、それに向かい合う形でイスが置いてある。ランタンが吊るされたスタンドは、いくつかの木をロープで結んで作られている。理にかなった作りで、これなら多少の風もものともしないだろうと感心していると、突然、後ろから大きな声が聞こえた。
「いけない!」
びっくりして振り返ると、大きな塊が飛んできた。
「キャッ!」反射的に両腕で顔を守る。塊がぶつかった衝撃は思ったほど強くはなかったが、バランスを崩して尻もちをついてしまった。
「テッシュウ!いけない!」
もう一度、力強い声が聞こえた。
恐る恐る腕を下げて目を開けると、優しそうな大きな目が目の前にあった。ハッハッハッと荒い息がかかり、少し獣臭い。
「びっくりしたぁ」
飼い主の男が近づくと、大きな犬は渋々といった感じでアオイから離れた。
「すみません、自分の体が大きいことを自覚していないみたいで、人を見ると嬉しくて飛びついてしまうんです。お怪我はありませんか?」
男が日に焼けた顔で申し訳なさそうに言い、筋肉質な腕を差し出した。
「大丈夫です」
手を伸ばすと、軽々と引き上げられた。
「初めまして、アオイと言います。突然の連絡だったのに、ありがとうございます」
「初めまして、ナオユキです。こいつはテッシュウと言います」
ナオユキの足元には、アオイの腕ほどの太さの木が散乱していた。アオイの視線に気づいたナオユキは、それが焚き火のための薪だと教えてくれた。
「すみません、焚き火が見たいなんてわがままを言ってしまって。それに、時間も伝えず、いきなり来てしまって」
「いや、どうせ今日の分の薪を集めなくちゃいけなかったし、アオイさんがミサキさんの家を出てから、ミサキさんから連絡が来たので、おおよその到着時間は想定していました。ただ、こいつが森の奥に走って行ってしまって、少し遅れました」
ナオユキが親指をテッシュウの方に向けて言うと、テッシュウは「ウォン」と低い声で鳴いた。
「お昼はまだですよね。今から作るので一緒に食べて、コーヒーはその後でいいですか?」
「はい、お昼ご飯までありがとうございます」
アオイは頭を下げた。昨日、ミサキから、特区では本当に悪いことをしない限り、「すみません」や「申し訳ない」などの言葉は使わずに、「ありがとう」と言った方が好まれると教わっていた。
ナオユキは手際よく昼食の準備を始めた。木の枝を組み合わせて焚き火の上に即席の三脚を作り、飯ごうを吊るしてご飯を炊き始める。次に、水と魚の干物が入った鍋を焚き火の上に乗せ、流れるような所作で腰に差したナイフを引き抜き、キノコや野菜を手際よく切っていく。
「私も手伝います」
「では、アオイさんはそこに座って、飯ごうがチリチリ言い始めたら報告してください」
ナオユキは、焚き火のそばに置いてあるイスを指さした。
イスに座り、ナオユキのてきぱきと動く姿に見とれていると、伏せていたテッシュウが頭を上げて「ウォン」と低い声で鳴いた。びっくりしてテッシュウの方を見ると、飯ごうからチリチリチリという音が聞こえてきた。
アオイが報告すると、ナオユキは火吹き棒で薪に息を吹きかけ始めた。その途端、炎の勢いが激しくなる。少しして飯ごうを焚き火から外し、テーブルの上に置いた。
次に、ナオユキは鉄のフライパンを取り出してイスに座り、肉とキノコと野菜を炒め始めた。塩と胡椒で味をつけてから、フライパンごとテーブルの上に置く。その後、焚き火の上の鍋のふたを開けて味噌を溶き入れた。
あっという間に昼食が完成した。ナオユキは飯ごうの中蓋と外蓋にそれぞれご飯をよそい、シェラカップに味噌汁を注いでくれた。いつの間に作ったのか、木を削った箸も手渡された。
「では」と姿勢を正してナオユキが手を合わせる。
アオイも慌ててそれに倣う。
「いただきます」ふたり揃って浅く頭を下げた。
まず、味噌汁を手に取った。口に含むと、魚から出る出汁の濃厚な旨味と味噌のまろやかな風味が一気に広がった。「美味しい!」と思わず声に出すと、ナオユキは嬉しそうに、鮎の焼き干しを出汁に使ったと教えてくれた。
ご飯もふっくら炊けていて、おこげも香ばしくてとても美味しい。ナオユキの真似をして、野菜炒めをご飯の上に乗せる。肉をひと切れ口に入れてゆっくりと味わうと、滋味深い味が広がり、少し鉄っぽさが感じられるが、臭みはなくとても美味しい。
「これって何の肉ですか?」
アオイが尋ねると、ナオユキはクーラーボックスから生の赤い肉を取り出して見せた。
「シカ肉です。ここで獲ったもので、ちゃんと処理しているので臭みがないでしょ?」
「初めて食べました。シカってこんな味なんですね」
「高たんぱく、低カロリー、鉄分も多い肉なので女性にもお勧めです」
ナオユキは立ち上がると、お座りをして待っているテッシュウの前に生肉を置いた。
テッシュウは生肉をくわえ、味わうように何度も噛んで飲み込んだ。満足そうに大きな舌で口元をベロリとなめると、伏せの姿勢になり目をつぶった。
大型犬の落ち着きのある緩やかな動作を見ていると、こちらまで穏やかな気持ちになる。ふと、テッシュウの首輪にN3デバイスが付いていないことに気づいた。
「テッシュウの首輪…」
「ああ、N3デバイスですか?付けていないんです」
今では、ペット用の首輪にN3デバイスをつけるのは一般的なことで、バイタルモニタや位置情報はもちろん、ストレス軽減、食欲調整、無駄吠えの抑制までTIと連携して行っている。その結果、ペットの寿命が飛躍的に伸びたため、以前は非倫理的だと非難する人もいたが、今では少なくなった。
「テッシュウの名前は、僕が好きな幕末の武士、山岡鉄舟からもらったんです。その山岡鉄舟の教えにこんな言葉があります」
ナオユキは箸を置き、姿勢を正した。
アオイも急いで姿勢を正す。
「自然は教師なり、自然を眺めて学び、自然に即して考える」
「テッシュウの人生は普通の犬より短いんです。バーニーズ・マウンテン・ドッグの生まれたスイスでは『生後3年で若犬、3年経ったら良犬、その後の3年で老犬になり、それから先は神からの贈り物』なんて言われています」
「だから、テッシュウにはできるだけ自然の中で、自然のものを食べて生きてほしいんです。そして僕はテッシュウとともに生きることで様々なことを学び、考え、感じていきたいんです。これだけはTIがいくら進化してもできないことだと僕は信じています」
ナオユキの言葉から強い信念のようなものを感じ、胸の奥底から熱いものが込み上げてくるのを覚えた。
「あ、なんか熱く語っちゃいました」
ナオユキは急に恥ずかしくなったのか、ごまかすように急いでご飯をかき込み、そしてむせた。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます