第2章

第19話 まだ見ぬ助言者 ー アオイとミサキ

 アオイは、昨晩のミサキからのメッセージが気になって、いつもより早く目が覚めた。外を見ると、空が明るくなり始めていた。ベッドから出てトイレに行くと、すっかり目が覚めてしまったので、そのままキッチンに向かった。


「ゴリゴリゴリゴリ」


 ミルのハンドルを回すたびに焙煎された豆が砕け、コーヒーの香りが漂ってくる。この朝の儀式が好きだ。無心でハンドルを回す単調な作業は、すべての豆が挽かれて粉になったとき、小さな達成感を感じさせてくれる。


「エリザ、コーヒーを淹れるからお湯を沸かして」


「わかりました。沸騰後、93℃になったらお知らせします」


 キッチンの調理台に置いたコーヒーケトルから、湯気が立ち始める。IH(電磁誘導加熱)の2倍の効率を持つQH(量子熱伝導加熱)は、あっという間にお湯を沸騰させた。


「93℃になりました。温度をキープします」とエリザの声が聞こえた。


 ドリッパーに入った挽きたての豆にケトルのお湯をゆっくりと注いだ。お湯を吸った豆が生き物のように膨れ上がる。そのまま少し待ち、膨れたコーヒー豆のドームを崩さないように慎重に残りのお湯を注ぐ。湯気とともに芳醇なコーヒーの香りが広がった。


 マグカップにコーヒーを入れ、窓際に置いた椅子に座ってその香りと味を楽しんだ。外を見ると、すっかり日が昇り、雲一つない青空が広がっている。エリザが気を利かせて窓を開けてくれる。朝の爽やかな風が、コーヒータイムをより贅沢なものにしてくれた。


 思いのほか長い時間コーヒータイムを楽しんでしまったので、朝食は取らずに着替えと簡単なメイクを済ませて家を出た。


 ミサキの家までの道を歩き始めた。最初はミサキがどんな話をするのだろうといろいろと考えながら歩いていた。しかし、清々しいひんやりとした空気と澄み渡る青い空を見ているうちに、「まあ、会ったらわかるか」という気持ちになり、朝の散歩を楽しみながらミサキの家を目指した。


 家の前まで行くと、ポーチでくつろいでいたミサキが出迎えてくれた。


「ごめんね、緊急事態とかそんなのじゃないんだけど、遅かれ早かれ話さなきゃならないことだから、今話しておこうと思って」


 とりあえず良くない話ではなさそうなのでほっとした。


「朝ごはん食べた?」


 ミサキに聞かれ、首を横に振った。


「じゃあ、一緒に食べよう」


 そう言って、ミサキは部屋の中に入っていった。アオイもそれに続く。


「もうすぐできるから、座って待ってて」


 そう言い残し、ミサキはキッチンへ向かった。


 しばらくすると、朝食の乗ったトレーを持ってミサキがキッチンから出てきた。アオイの前に置かれたトレーには、ご飯、味噌汁、納豆、漬物、佃煮など、絵に描いたような日本の朝食が並んでいた。ミサキが自分のトレーを取りにキッチンに戻るのを見ながら、トーストやサラダなどの洋食を想像していたので、少し意外に思った。


「意外って思ったでしょう。昔から朝は味噌汁じゃないとダメな人なの」


 二人で手を合わせ、朝食を食べ始める。味噌汁をひと口すするとすぐに気づいた。


「これってアユ出汁ですよね」


「よくわかったね。美味しいよね」


「はい、昨日ナオユキさんに昼食をごちそうになって、そのとき飲んだのと同じ味と香りだったんで」


「時々、持ってきてくれるの。鹿肉とかも。ところで、ナオユキ君のところはどうだった?」


「はい、とても楽しかったです。テッシュウもとてもかわいくて」


 それから、昨日ナオユキのところであったことを身振り手振りで話した。ミサキは、笑顔でうんうんとうなずきながら聞いていた。


 朝食後、熱い日本茶を前に、ミサキは少しだけ真剣な顔で話し始めた。


「いつかは、アオイちゃんも出会う人だから、そんなに急ぐ必要もないかなって思ってたんだけど」


 お茶を手に持ったままうなずいた。


「昨日、ヒデオさんのところに行ったんだけど、最近、果樹の収穫量にばらつきが出ることがあるらしくて。果樹園はTIが木の状態をモニタリングして、適切な水分と栄養、温度、日照時間なんかを調整しているの」


「だからあんなにたくさんの種類の果樹を同じ場所で栽培できるんですね」


 ヒデオの果樹園の様子を思い出しながら感心した。


「だから、TIの収穫予想量にばらつきが出ることはこれまでになかったらしいの。で、ヒデオさんはタダシさんに相談してみることにしたんですって」


「タダシさん?」


「そう、そのタダシさんのことについてアオイちゃんにも話しておかなくちゃと思って来てもらったの」


「へえ、どんな方なんですか?」


「うん、その前に聞いてもらいたいことがあって、これは私の考えなんで気楽に聞いてもらいたいんだけど」


「はい」


「特区ではね、集落特有のルールや暗黙の了解みたいなものは存在しないし、作っちゃいけないとみんな思っているの。それぞれの考えで動いて、それぞれの生き方をするためにここにいる。だから、集落のみんなもルールなんかは作らずに暮らしてきてるの」


 アオイは、黙ってうなずいた。


「まあ、それも暗黙の了解と言われればそれまでなんだけどね」とミサキは笑った。


「ここからが本題なんだけど、私は誰かほかの人の話をするとき、自分の憶測だけでその人のことを話すのは絶対にしないって決めているの。私の言葉でその人のイメージを作るのはおかしいし、私も誰かの言葉で私を作られたくない。初めて会う人に勝手なイメージをもって会いたくないし、会われたくない」


 そこまで聞いて、ミサキが言わんとすることを理解した。


「わかりました。私もあんまり変なことは聞かないようにします。もし聞いても答えないでください」


「で、タダシさんのことなんだけど、何ていうか、助けてくれる人」


「助けてくれる人?」


「そう、どこにいても、何に困っていても必ず助けてくれるの」


「いい人なんですね」


「うーん、いい人って一言で表すには難しいというか、何というか……」


 ミサキがどう表現するか困っている姿を見て、タダシに対する興味がさらに膨らみ、アオイは次の言葉を期待して待った。


「珍獣」


「?」


「あ、いや待って。なんか変なイメージ持たれそうなこと言っちゃった。一回忘れて」


「ふふっ、大丈夫です。そのうちお会いできるのが楽しみになりました」


 ミサキが困っている様子だったので、アオイはそう言ってお茶をひと口すすった。


「あと、アオイちゃん、これは重要なことだから覚えておいて」


 ミサキが急に真剣な表情を浮かべたので、慌てて姿勢を正した。


「はい」


「タダシさんには、そのうち会えると思う。でも、それが今日かもしれないし、何か月も先のことかもしれない」


「はい」


「アオイちゃんが困っているときに現れるかもしれないし、何でもないときに現れるかもしれない」


 アオイは少し考えてから、静かにうなずいた。


「でも、決してタダシさんの家に直接訪ねていかない方がいい。さっき話した通り、偏見なんかを持ってもらいたくないんで詳しくは話さないし、本当はこんなことも言わない方がいいとはわかってるんだけど。どうしてもっていうんだったら当然止めないけど……」


「そんな風に言われたら、むちゃくちゃ気になるじゃないですか。でも、大丈夫です。私、ミサキさんのこと信頼してますし大好きなんで、しっかりと助言、頭に入れておきます」


「ごめんね、中途半端なことしか言えなくて。余計混乱させたよね」


「とんでもないです。気にかけてもらって嬉しいです」


 それから、ミサキがヒデオのところでもらったアプリコットでジャムを作るというので、アオイも手伝い、一緒にジャムを作った。


「タダシさんかあ、そのうち会えるのが楽しみだな」


 まだ見ぬ珍獣に思いを馳せながら家路についた。


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