第2話 静かなる異邦 ー アオイ
「やっちゃった」
道路の端に誰かが立っていることはわかっていたが、まさか通り過ぎる直前に笑顔で会釈されるとは思ってもいなかった。意表を突かれ、何のリアクションもせずに通り過ぎてしまった。今さら戻るのも変なので、そのまま進んでしまったが、おそらくは特区住民のひとりに違いない。
ここは限られた人数の住民しかいない特区なので、昔の集落に近いコミュニティが形成されている。少し考えればわかることなのに、考えが回らなかった。都会では、通り過ぎる車に会釈することなどありえない。ましてや面識のない人の車に対してならなおさらだ。
しばらくは都会とのギャップに苦しめられそうだなと考えながら、ルームミラー越しに遠ざかる男性を見ると、まだこちらを見ていた。アオイはその姿に小さく会釈した。
白い円柱状の建物が目の前に見えてきた。建物には『Basic Income Special Zone - Central Management Office(BIC特区中央管理局事務所)』と書かれている。敷地の入り口で車を停めると、N3デバイスから発せられた認証完了の信号とともにゲートが開いた。
それにしても英語表記の方が目立つのは、Next Navigator社が外資系企業だからだろうかと思った。
だだっ広い駐車場には車はほとんどなく、建物の裏手に管理局のものと思われる白いバンが2台停まっているのが見える。入口に一番近い場所に車を停め、外に出ると両手を上げて体を大きく伸ばした。車の運転は嫌いではないが、長時間の運転はやはりこたえる。
建物に近づき、まじまじと眺めた。白い円柱状のその建物はシンプルなデザインで、エントランスキャノピーすら設けていない。その外観からは、中央管理局事務所としては小さく見える。しかし、もしかしたら高い建物を嫌って地下に中枢を設けているのかもしれない。いったい地下何階くらいまであるのだろうと考えながら、入口に向かって歩き出した。
入り口の前に立つと、認証完了の信号とともに自動ドアが静かに開いた。中に入ると、空調が効いていて快適な温度と湿度の人工的な空気を感じた。中を見回すと、外観に劣らずシンプルで、入ってすぐのカウンターで区切られたスペースにはいくつかのデスクがあるだけで、他には何もない。
カウンターの前まで進むと、一番手前に座っていた男が立ち上がった。奥に座る男は、忙しいのかこちらに見向きもせず、ホログラムディスプレイを見つめて作業をしている。
「アオイ様ですね、ようこそお越しくださいました」
立ち上がった男は丁寧にお辞儀をした。
「こんにちは、よろしくお願いします」
入場者の情報はすでに入り口で認識されていることはわかっているが、自分の情報だけが相手に伝わっているのは、いつもながら少し気味が悪い。
男はカウンターの右側にある椅子の置かれたスペースへアオイを案内した。
「スズキと申します」
男はそう名乗り、「どうぞ」と言ってアオイに椅子を勧めた。
苗字は個人の家族背景や出身地を象徴するものである。しかし、それが逆に固定観念や偏見を生み、多様性を妨げる原因となるという風潮が広まった。その結果、一般企業や学校においても名前を使うことが一般的となった。苗字を名乗るのは、いまや公務員くらいだ。
スズキはカウンターの向こう側に腰を下ろし、ホログラムディスプレイを操作しながら落ち着いた声で話し始めた。
「早速なんですが、事前に送らせていただいたデータはご確認いただけましたか?」
住民承認通知と一緒に送られてきたデータのことだとすぐに気づき、「はい」と答えた。
「ありがとうございます。それでは確認の意味も含めて、特区での禁止事項などを説明させていただきます」
スズキはホログラムディスプレイを操作し、表示を切り替えた。
「まず、SNSや動画配信などを通じて、特区外へ無断で情報を発信することは禁止されています。特区内の情報が外部に漏れるのを防ぐためです」
スズキは一息つき、さらに説明を続けた。
「また、特区内での金銭の授受や、物品の販売・購入も禁じられています。さらに、無断で住民以外の人間を特区内に立ち入らせることも禁止事項の一つです。外部からの不正な影響を防ぐためですね」
「同様に、特区内への動植物の無許可持ち込みや、特区外への無断外出も禁止されています。これらは、特区内の安全と秩序を守るための措置です」
スズキはアオイの反応を見ながら、説明を続けた。
「これらの禁止事項のほとんどは、許可を受ければ実行可能です。他にも注意すべき点は多々ありますが、N3デバイスが事前に信号で知らせてくれるので、それを無視しなければ問題ありません」
スズキは一息つき、続けた。
「最後に補足ですが、アオイさんが生活するエリアには30人弱の住民がいます。同じような集落がいくつか存在しますが、頻繁に集落間で接触することはありません。ただし、まったく交流がないわけでもなく、争いもありませんので、普通に生活していただければ大丈夫です」
「説明は以上ですが、何か質問はありますか?」
アオイは少し考えてから尋ねた。
「N3デバイスについては?」
N3デバイスとは、首の後ろに貼るシールのようなデバイスで、N3はNeuro Next Navigatorの略称である。脳の神経系へ直接信号を送ることで、注意や警告を促すアラート機能を有している。開発当初は、メッセージや通話を直接脳に送る実験も行われたが、洗脳や脳へのダメージが懸念され、開発は中止となり通知機能のみが残った。建物に組み込まれたTI設備や腕時計型デバイスなどと連携させることで、ホログラムディスプレイを表示させたり、より高度な情報処理を可能としている。また、体温や心拍数などのバイタルデータをリアルタイムでモニタリングし、必要に応じて医療機関に自動で情報を送信する機能も備えている。
「すみません、肝心なことを忘れておりました。現在お使いいただいているN3デバイスについては一度お預かりし、最新の特区仕様のN3デバイスにデータを移送した後、それをお使いいただきます。一応確認ですが、処方系の信号は使用されていませんか?」
処方系の信号とは、病院で診察を受け、必要と認められた場合にのみ処方される信号であり、認知機能向上信号や疼痛緩和信号などが含まれる。
「使っていません」
「承知いたしました。処方系が禁止されているわけではないので、必要な際は遠慮なくおっしゃってください」
「わかりました」
「ほかにわからないことがあれば私に聞いていただくか、住民に聞けば大体のことはわかると思います」
TIを使えばほとんどの疑問や質問の答えにたどり着く時代に、あえてそれには触れずコミュニケーションを重視する。そのことが、特区での生活にどのような意味を持つのか、少し楽しみになった。
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