BIC特区

北野裕司

第1章

第1話 未知の世界への旅立ち ー アオイ

「我々は、ある機械が人間のように考えることができるかどうかという新しい形の問題を提起することができる」

-アラン・チューリング



 アオイは、新たな価値観を持つ世界へ向かって車を走らせている。


 愛車のルネッサは最新の技術でレストアされており、40年近く前の車とは思えないほど軽快に走る。決して乗り心地がいいとは言えないが、父親から受け継いだ大切な車なので、乗り換える気にはなれない。レストアの際にAIを導入したものの、最新の車にはそれを超越するTI(Transcendent Intelligence - 超越的知能)が搭載されており、それによって交通事情は劇的に変化した。事故は激減し、渋滞も90%以上緩和された。


 どこまでも続くまっすぐな道。ハンドルを握るアオイの視界の半分以上を占める澄み切った青空は、これまでの都会生活では決して見られなかった新鮮な光景だった。都会では、高層ビルが無数に立ち並び、空を見るのもひと苦労だった。ここでは、遠くにそびえる山々と広がる田畑の緑が続き、その先には見渡す限りの広大な平原が広がっている。目に映るのは青と緑が織りなす風景ばかりで、今のところ建物のような無機質な色は見当たらない。


 アオイは、大手広告代理店で働いていた時のことを思い出した。クライアントの依頼を受け、製品やサービスのプロモーションを手掛け、マーケティングリサーチを行い、データに基づいた広告戦略を立てる。効果的なキャンペーンを通じてブランドの認知度を高め、売上を向上させることに生きがいを感じていた。しかし、今、目の前に広がる自然の景色を見ると、煌びやかな電子看板や巨大スクリーン、広告ドローンが垂れ流す宣伝が、いかに異様な光景であったかがよくわかる。


 しばらく走ると、『BIC特区中央管理局 直進3km』という看板が現れた。いつの間にか特区内に入っていたらしい。境界を見逃したのか、それともそもそも境界が存在しないのかはわからない。


 BIC特区とは、最新のテクノロジーと持続可能な生活環境を統合した特別区域である。ここでは住民にベーシックインカムが提供され、経済的な不安から解放されて生活を送ることができる。ベーシックインカムと言っても、生活費としての貨幣が提供されるわけではなく、生活に必要な物資やサービスが提供される仕組みだ。具体的にどんなものがどの程度提供されるかは、まだ明確にはわかっていない。


 特区の外では、TIが多岐にわたるビジネス活動を展開している。金融取引や市場予測、デジタルサービスの提供、技術特許のライセンスなど、高度なTI技術を活用して収益を上げ、その収益が特区内の住民の生活を支えるために使われている。


 中央管理局を中心に半径5キロメートルのエリアが、社会実験の場として設けられている。この区域では、人々がより豊かで調和の取れた生活を送るための新しい可能性を探求している。住民は一般公募による選考で選ばれた人々で構成されている。


 選考は政府とTIを開発したNext Navigator社が行い、まず一次選考として書類選考が実施された。最近では珍しく、必要書類にペンで直接記入し、郵送するという昔ながらの方法が採用されていた。


 一次選考を通過すると、次にTIによる二次選考が行われる。傷病歴、犯罪歴、通院歴などがチェックされ、噂では、政府が提供する詳細な情報を基に、個人の思想や理念など多岐にわたるデータが分析され、徹底的に診断されるともいわれていた。


 二次選考を通過すると、最終選考として面接が行われた。最終的にはアナログなのだなとおかしく感じながらも、少し安心した。


 面接は、至って形式的なものだった。面接官は三人いて、主に真ん中の人のよさそうな中年男性が質問をし、時折、左側の知的な雰囲気の女性が質問をした。右側の長身痩躯の男性は一切質問せずに、ホログラムディスプレイを見たままただ頷いていた。


 そういえば、一度だけ右側の面接官がアオイの方に視線を向けた時があった。何を話していた時だったかうまく思い出せなかったが、その時見た男性の目の奥に、なぜかおぞましいものを感じたのだけは忘れられなかった。


 最終選考を終えて一週間ほど経った頃、住民承認通知が届いた。28歳の独身女性で、特に目立った取り柄もない自分が選ばれるとは思っておらず、半ば諦めていたので喜びよりも驚きの方が大きかった。両親には何の相談もしていなかったし、仕事を辞めたことすら伝えていなかったので気まずかったが、さすがに何も言わずにBIC特区に移住するのは気が引けると思い、数年ぶりに実家に帰ることにした。


 アオイの父は大学教授で、倫理哲学を専門的に研究し、教えている。母は専業主婦で、ひとりっ子のアオイが家を出てから、口数の少ない父と一緒にいると家の中が静かすぎて落ち着かないと言い、ギター教室に通い始めた。てっきりフォークギターだと思っていたので、エレキギターをアンプに繋いでディストーションの効いた激しい演奏をしている姿を見たときは、新鮮で驚いた。


 夕食後、両親に仕事を辞めたこと、そしてBIC特区の住民として移住することを伝えた。


 母は、「あんたは昔から、突然、突拍子もないことをするから、多少のことでは驚かないつもりだったけど」と言い、頭を軽く振りながらため息をついた。


 父は、「自分の人生だから、自分の好きなように生きたらいい。だけど、自分で決めたということと、自分が選ばれたということの意味を決して忘れるな」と言ったきり黙ってしまった。


「あんた、一人で行くの?」と、母が興味津々に聞いてきた。


「うん、だって私、結婚してないし」と答えると、


「彼氏と一緒にとかは無理なの?」と母は身を乗り出した。


「仕事辞めてまでついてきてくれる人なんかいないよ。だいいち彼氏いないし」と拗ねたように言うと、


「お父さん、孫の顔を見るっていう夢がまた遠のいちゃいましたね」と母が父の方を向いてからかう。


 父は恥ずかしそうにオホンと咳払いをし、「それは、まぁなんだ、アオイの人生だから」と口ごもりながら言った。


 父の恥ずかしそうな顔を思い出し、寂しいような申し訳ないような気持になった。別に今生の別れというわけではないし、もしかしたら特区で素敵な人と出会えるかもしれない。私の新しい人生が今日スタートするのだ。


 車窓から見える景色は、相変わらず青と緑が織り成す美しい風景が続いている。ルネッサは流れるように静かに前へ進み続けた。

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