第4話 数字の香り、甘さの記憶 ー ミサキ
「エクスタシーとは、満杯の紅茶のグラスと口の中の砂糖の塊である」
-アレクサンドル・プーシキン
オーブンの扉を開けると、甘く香ばしい香りが部屋中に漂った。それをたっぷりと吸い込みながら、心が幸福感で満たされる。焼きあがったタルトは、厚めにカットされたネクタリンが生地の上に隙間なく敷き詰められている。十分に熟したその甘酸っぱさには、モカコーヒーがぴったり合いそうだ。
ヒデオのところに持っていく時間を考えながら、洗い物を始めた。ヒデオは果樹栽培を行っていて、このネクタリンも彼が分けてくれたものだ。イチゴ、パイナップル、マンゴー、ラズベリー……。春にはたくさんのフルーツが収穫されるので、次にどんなお菓子を作ろうかと考えるだけでワクワクする。まさかこの歳でこんなに心躍ることがあるとは思っていなかった。
ミサキは、昨年特区に移住し、今年で2年目になる。以前は大手税理士事務所で働いていた。幼いころから数字に強かったので、大学で会計学を学び、卒業後すぐに税理士事務所に就職した。多くのクライアントを担当し、信頼を築いてきたが、30歳のとき、AIが税理士業務に本格的に導入され始め、少しずつ環境に変化が現れた。
最初は、会計データの自動入力や基本的な税務計算がAIによって行われるようになり、税理士の仕事の一部が自動化され、業務効率化の一環として歓迎していた。しかし、次第に自分の仕事が減り始めることに不安を感じるようになった。
それから5年後、35歳のとき、AIが税務申告や節税対策まで自動化し、業務内容が完全に変わった。この頃までにAI技術はさらに進化し、ほとんどの税務関連の業務が自動化された。
最終的にはTIが導入され、複雑な税務申告や節税対策の提案も行えるようになり、従来の税理士の業務は大幅に削減された。ミサキは、自分がこれまで得た専門知識がほとんどTIに取って代わられたことを実感し、2年後、惜しまれながらも退職した。
TIに仕事を奪われたとは少しも思っていなかった。あれほど夢中で数字を追っていたのに、TIがいとも簡単に、しかも確実にやってのけるのを目の当たりにして、完全に冷めてしまったのだ。
これまで必死に数字だけに向き合ってきたが、これから何をしようかと考えていた矢先に、第2期BIC特区住民選考の募集を目にした。そして、現在に至っている。
特区に来てからの生活では、お金の概念を塗り替えることに大変苦労した。ここでのベーシックインカム制度では、生活に必要なお金はすべてTIが稼いでくれる。国に納める税金もTIが計算し、節税して支払ってくれる。そもそも特区には貨幣がなく、必要なものは住民同士で分け合うか、中央管理局事務所の配給所に行けばいつでも手に入れることができる。つまり、何もしなくても生きていけるのだ。これまで、お金に密接に関わる職業で生きてきたのに、突然お金や税金に全く縁のない生活が始まった。
とりあえず体を動かしたいと思い、農家をしている住民の手伝いに行った。しかし、長年、空調の効いたオフィスでデスクワークばかりしていたせいか、あっという間に疲れ果て、体調を崩しかけたため、やめた。次に託児所や服の修理、裁縫など、比較的女性が多く活動している場所に顔を出した。年齢が近い者も多く、楽しく活動できた。
ある日、休憩中におしゃべりをしていると、誰かが「これで甘いものがあれば最高だね」と言い出した。それをきっかけに、お菓子作りを始めた。
まずは、中央管理局事務所の地下1階にある図書館へ行き、レシピを探すことから始めた。どんなに時間をかけても生活に困ることはないため、TIは使わずにできるだけアナログにこだわった。材料の分量などの数字を見ていると、不思議と心が落ち着くのを感じた。
次にお菓子作りに必要な道具を集めた。特区内で工房を営む住民に相談し、作れるものは作ってもらい、難しいものは中央管理局事務所に相談して調達してもらった。
初めてのお菓子作りは驚くほど上手くいった。もともと数字と共に生きてきたせいか、レシピの分量を寸分違わず守ったのが功を奏したようだ。
お菓子作りに挑戦したことで、自分の新たな才能に気づくことができた。それは、お菓子作りを続けて3週間目のこと。いつものように小麦粉の分量を確認して、適当にボウルに入れて秤に乗せると、ぴったりの重さになっていることに気づいた。試しに300グラム、500グラム、2グラムといったさまざまな重さを計ってみたが、どれもぴったりの重さになった。りんご1個の重さ、水の入ったコップの重さ、人間の体重まで、一度基準となる重さがわかれば正確に言い当てることができるようになった。
いろんな単位を試してみて、長さや距離、気温、湿度なども同じようにぴったりと当てられたが、時間だけは不思議と何度やっても正確に測れなかった。どうやら自分は単純に数字に強いのではなく、数字に関する感覚が鋭いらしい。
それからは、気温や湿度などあらゆる数字を考慮しながら、お菓子作りを続けていった。出来上がったお菓子は、多くの人が取りに来るようになり、あっという間に集落の話題となった。果樹栽培をしている住民や酪農をしている住民がさまざまな材料を持ってきてくれるようになった。チーズケーキが食べたいと言って、クリームチーズを自作して持ってくる人まで現れた。
お菓子作りはとても楽しく、何より自分の作ったお菓子が「美味しい」と言われることに、照れくささと感動を覚えた。
やっと特区の住民としての役割を見つけた気がする。
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