第10話 静寂な炎 ー ナオユキ
「人類は自然の力に対して謙虚になれ」
- ワンガリ・マータイ
自然はいい。それまでの職業柄、比較的人の手が入っていない山に入ることが多かった。18歳で陸上自衛隊に入隊し、幾度となく訓練で山に入った。演習場では、未舗装の道を走ったり、森の中の獣道を草木をかき分けながら進んだ。訓練は過酷で、自然が気持ちいいなんて思う余裕もなかったし、きつくてつらい思い出しかなかった。
ナオユキが勤務した期間は、自衛隊にとっても激動の10年間だった。任務へのAI導入が進んだ。はじめは、任務分析、車両や航空機の経路分析、個人に付けられた発信機による行動分析、着弾点の自動計算や射撃の修正計算などにAIが使われた。その精度の高さから、多種多様にAIが使われ始め、隊員の負担は軽減された。
ナオユキが辞める2年前には、TIの試験導入が開始され、戦略から兵站に至るまで、より損耗の少ない作戦をリアルタイムで提案するようになった。装備も大きく変わり、訓練時には各人が軍用のN3センサーを装着し、位置情報や体温、血圧、心拍数などのバイタルサインを常にTIに送信した。これにより、隊員の能力や状態を考慮した行動が指示され、効率的かつ損耗の少ない任務の遂行が可能になった。
どこかの国では、兵士の精神状態や身体能力に影響する信号を用いているという噂があったが、日本の自衛隊では採用されるどころか、計画にのぼることすらなかった。
28歳を迎える頃、自衛隊を退官した。自衛官は特殊な職業で、企業の会社員や役所の職員とは異なる。利潤を追求しないし、一部の役職を除いて民間業者とのやり取りもない。ある意味、完全自己完結型の閉鎖社会といっても過言ではない。自衛隊外の世界のことを冗談めかして「娑婆(シャバ)」と呼ぶ隊員もいる。ナオユキは晴れてその「娑婆」に出たのだ。
辞めてからしばらくは、貯金と退職金で生活した。いろんなところに行き、いろんな人と話した。案外、「娑婆」も変わらないのだなと思えることも多かったが、時間にルーズな人が多いことには驚いた。「5分前行動」と教育されてきたので、約束の時間にピッタリか少し遅れてくる人に、はじめのうちはやきもきした。
相変わらず何の生産性もない暮らしを続けて半年が過ぎた頃、古い友人から連絡があった。自衛隊を辞めてから一度だけ遊びに行った友人だった。学生時代に戻ったかのような感覚で、とても楽しい時間を過ごした。その友人からの連絡は「どうせ、まだ何もしていないんだろ。お前、犬飼ってみる気ないか?」という内容だった。動物を飼う気はまったくなかったので断ろうかと思ったが、「どうせ暇なんだから、一度見に来い」という強引な誘いに乗って、結局見に行くことにした。
そして、テッシュウと出会った。ふわふわとした黒、白、茶の三色の毛が美しく交じり合い、小さな顔には白い線が額から鼻先にかけて走っている。丸い大きな瞳は無垢な輝きを放ち、ちょこんとした耳や短い脚も愛らしい。手を差し出すと、クンクンと匂いを嗅ぎ、ペロペロと舐めた。よちよち歩く子犬の姿に一瞬で心を奪われた。今思うと、やっぱり寂しかったのかもしれない。その日のうちに引き取った。
テッシュウという名前は、ナオユキの好きな幕末の武士「山岡鉄舟」にちなんで名付けた。
当時住んでいたアパートはペット可の物件だったが、テッシュウがみるみる大きくなるのに驚いた。一度友人に電話すると「ああ、バーニーズ・マウンテン・ドッグは40〜50キログラムにはなるぞ」と笑いながら言われた。だからあの時、親犬の姿が見えなかったのか、完全にはめられたと思った。しかし、今さらテッシュウのいない生活は考えられないので、諦めた。
その頃は、テッシュウを思いっきり運動させるためにキャンプ場によく行っていた。公園よりも自然に近い場所に連れて行きたかったからだ。
それまで自衛隊でのつらい経験からキャンプに行く気にはなれなかったが、実際に行ってみるととても楽しかった。自衛隊での野外行動ではタブーとされている光、音、煙を一切気にせずに出せるのがとても気持ちよかった。テッシュウも車やドローンがいない自然の中で、疲れ果てるまで走り回っていた。
いよいよアパートが狭くなってきたと感じ、次の物件を探していたところ、第2期BIC特区住民募集の広告を見つけた。自然の中でこれからの生き方を考えるには最適な環境だと思い、応募した。
最終面接では、自衛隊時代のことをいくつか聞かれた。自衛隊内部の、一般にはあまり知られていない内容の質問をされた。情報漏洩にならない範囲で答えると、面接官は納得して頷いていたので、もしかすると試されていたのかもしれない。大型犬を飼っていることも面接官の興味を引いたようで、無事住民になることを許された。
住民になってからは、時々酪農の手伝いをしているが、ほとんどは野営して過ごしている。テッシュウがいるので寂しいとは思わないが、たまに誰かが訪ねてきてくれるとやっぱり嬉しい。そういえば、今日は焚き火を見ながらコーヒーを飲みたいという女性の訪問希望があったので了承しておいた。
男ばかりの職場にいたせいか、若い女性と接するのはあまり得意ではない。いつもお菓子を持って訪ねてきてくれるあの女性も一緒に来ないかなと考えていると、テッシュウの大きなしっぽがナオユキの頬を叩いた。
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