第16話 盗まれた宝物
「まっとうに生きられないのも、つらいことさ」
-モーリス・ルブラン
特区内で少し変わった行動をとる男がいた。
特区では、金銭という価値観が存在しない。すべての物資やサービスはTIによって管理され、必要なものは自由に手に入れることができる。そのため、特区内での盗みは全く無意味だとされていた。
特区では、すべての物が共用されているため、個人の所有という概念が希薄だ。それでも、男は盗むことが好きだった。しかも、男の盗みの対象は、誰も気づかないような、なくても困らないものばかりだった。
中央管理局は男の行動を黙認していた。「そもそもお金という概念がないのに、盗む必要があるのか?」という疑問と、男の行動による住民の変化に関心があったからだ。
男には盗みの美学があり、思い出の詰まったものや特別な意味を持つもの、なくなったら持ち主が悲しむようなものは決して盗まなかった。
したがって、男は突発的に盗むことはせず、ターゲットをじっくり観察し、綿密かつ周到に計画を立てていた。
そんなふうに自分の行動を楽しんでいたのだ。特区の住人たちは、彼の奇妙な行動には全く気づかなかった。というのも、彼が盗むものはいつも取るに足らないものばかりだったからだ。
男は、多いときで3日に1回、少ないときでも週に1回は盗みを繰り返していた。
中央管理局は、何が盗まれてどこに行ったかを逐一把握していたため、盗まれた人に大きな被害がない限り、何もしない方針だった。
男は、盗みを繰り返していくうちに悩み始めた。もともと特区で暮らす住民は、許可を受けた最小限の私物しか持ち込んでいない。それらの物は大体思い入れのあるものや大切なものなので盗むわけにはいかない。
その他の物は特区が調達したもので、個人が所有するというより共有しているものだ。ある意味、自分のものでもある。そう考え始めると、盗むものがだんだんなくなってきたのだ。
ある日を境に、男は盗みをしなくなった。
男の盗みを楽しみ始めていた中央管理局のスタッフは、「最近、全然盗まなくなりましたね」と話した。
「やっこさんも、お金の概念のない世界では物を盗むことに意味がないってことに気づいたんじゃないか」と、少し残念そうに別のスタッフが応じた。
男が盗みをやめて、1か月が過ぎようとしたころ、動きがあった。
集落のコミュニティボードに、『明日の夕方、予定のない人は中央広場に集まってください』と書かれていたのだ。
中央管理局のスタッフも「いよいよ動き出したか」と、少しわくわくするような心持ちでその時を待った。
当日、中央広場には集落の住民のほとんどが集まっていた。時間はたっぷりあるし、なにより何が行われるか知らされていないことが住民の好奇心を刺激したのだ。
午後4時を少し過ぎたころ、男が現れた。
男は真っ白なスーツに真っ赤なバラを胸ポケットに挿し、ピカピカに磨かれたアコースティックギターを抱えていた。そして、広場の中央にある一段高くなった石台に上がった。
住民たちは唖然として男を見つめた。
男は深々とお辞儀をすると、ギターの弦を指先で軽やかに弾き始めた。フラメンコに始まり、ボサノバ、ロック、バラードと、さまざまなジャンルを奏でる。男の演奏に、はじめはきょとんとしていた住民も次第に踊りだし、体を揺らし、手拍子を打つ者など、各々が男の音楽を楽しみ始めた。
演奏は2時間近く続いた。
最後は、汗だくで満足そうな笑みを浮かべると、最初と同じように深々とお辞儀をし、何も言わずに広場を去っていった。
興奮していた住民は拍手喝采し、どこからともなく「アンコール」の合唱が始まったが、男が戻ってくることはなかった。しばらく広場に残っていた住民は、興奮冷めやらぬ様子でそれぞれの家に帰っていった。
その様子をモニターしていた中央管理局のスタッフの一人がつぶやいた。
「やっこさん、特区で一番価値のあるものを盗んでいきやがった」
隣のスタッフが眉をひそめて尋ねた。
「え、何か盗んだんですか?変わった様子はありませんでしたが」
画面には広場から帰る住民たちの様子が映っていた。
「みんなの時間です」
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