第17話 価値なき価値

「創造性とは、物事を別の視点から見るために、既存のパターンを打破することである」

-エドワード・デ・ボノ



 私はいつも絵を描いている。朝から晩まで、筆を握りしめ、キャンバスに向かう。色彩を選び、線を描き、形を作り出す。


 特区では、お金という概念が存在しない。すべての物やサービスは必要に応じて提供され、交換の媒介としての通貨は不要だ。しかし、そんな世界で絵の価値はどう見出されるのだろうか。


「素敵な絵ですね」と言われることがある。


 その言葉を聞くたびに、私は疑問を抱く。「どこがどのように素敵なのですか?」と問い詰めたくなる。私の絵の何が素敵なのか、その答えを知りたくてたまらない。


 多くの場合、人々は曖昧な答えしか返してくれない。「色使いがきれい」「表情が生き生きしている」「構図が素晴らしい」。しかし、それは本当に価値のある評価なのだろうか。


 この特区では、絵を売ることはできない。絵はただ存在し、見られ、感じられるだけだ。お金という尺度がないこの場所で、私の絵が持つ意味や価値は、どのように評価されるべきなのだろうか。


 いや、そもそも評価される必要があるのか?私は評価されたいのか?


 芸術の価値とは何だろうか。金銭的な価値がないこの世界で、私の絵が評価される基準はどこにあるのだろう。


 私の描く絵には、私自身の感情や経験が込められている。悲しみ、喜び、怒り、平静……それらが色と形に変わり、キャンバスに映し出される。


 だが、それを見た人々がどれだけ理解してくれているのか、私はいつも疑問に思う。彼らが本当に私の絵の価値を見出しているのか、それとも単に「きれい」「素敵」と言うだけなのか。


 そもそも理解してもらう必要があるのか?私は理解してもらいたいのか?


 ある日、熱心に私の絵を見つめる少女に出会った。


 私は少女に「この絵、気に入りましたか?」と尋ねた。この頃の私は、自分の絵の価値や、創作すること自体の意味について思い悩んでいた。


 少女は静かにうなずくと、頬に一筋の涙が流れ、その涙の一粒がパレットの上に落ちた。


 私が少女に涙の理由を聞くことはなかった。なぜなら、少女が自分の感情や経験、悲しみ、喜び、怒り、平静をもって絵を見ていることに気づいたからだ。


 私が絵を描く理由は、自己表現の一環だ。言葉では伝えきれない感情や思いを、色や形で表現すること。それが私にとっての絵を描く意味だ。


 特区では、絵の価値はお金ではなく、感じる心にある。だからこそ、評価は曖昧であり、主観的だ。だが、それが芸術の本質なのかもしれない。数値では測れない価値、感じることの大切さ。


 そして、芸術とは、見る人が感じることで完成することに気づいた。自分の感情や思いを伝えるのではなく、見た人にどのような感情や思いが生まれるかが、芸術そのものだということに。


 私はこれからも絵を描き続けるだろう。


 そして、私がいなくなった後も、芸術は生まれ続けるだろう。

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