第5話 甘美な誘惑 ー アオイ

 差し込む朝日と鳥のさえずりで目を覚ました。自然派レストランで聞く環境音とは異なり、様々な鳥たちが異なる鳴き声で無秩序に鳴き交わしている。それでも、この鳥たちの生演奏は不思議と心地よい。


 昨日、中央管理局事務所で説明を受けた後に案内されたアオイの住まいは、一見すると古びた家屋のようだ。しかし、室内はシンプルで清潔感があり、何よりも家全体がTIで制御されているため、快適な温度と湿度が常に保たれている。例えば、「壁紙を南国風に」と指示すれば、壁紙が瞬時に変わる。N3デバイスとの連携により、体調が悪いときは自動で室温や湿度が調整され、休息を促すアドバイスまでしてくれる。


「おはようございます、アオイ。メッセージはありません。本日の予定は特にありません」


 アオイは、TIを「エリザ」と呼んでいる。音声認識型AIを使い始めてから何度かデバイスを買い替えたが、一貫してこの名前を使い続けている。


「ありがとう」


 キッチンに行くと、昨日管理局事務所を出る際にもらった食材の入った袋を開けた。中には食パン、バター、リンゴ、ミルクが入っており、それを朝食にすることに決めた。市販のパッケージではなく、シンプルな紙で包まれた食材は、どれも素材本来の味がして美味しかった。


「これでコーヒーがあれば完璧なんだけど、どこかで手に入るか、誰かに聞いてみようか」


 朝食を終えた後、集落の配置をおおまかに確認し、外出の準備をした。といっても、薄手の上着を羽織っただけだ。手首に付けたブレスレット型デバイスで支払いができるうえ、クレジットカード、健康保険証、運転免許証などの情報も登録されているので、手ぶらでも問題はない。


 こんな気持ちはいつ以来だろうと、28年間の人生を振り返ってみた。誰も自分を知らない場所で新しい生活を始めるのは、就職して一人暮らしを始めたとき以来かもしれない。親の監視から解放されることへの喜びと、不安が入り混じったあの記憶がよみがえった。


 もう一度、鏡で自分の姿を確認し、玄関へ向かうと「行ってきます」と、誰もいない空間に声をかけた。


 かつては家のセキュリティを作動させるために声をかけていたが、今ではTIが不在を自動で判断し、セキュリティを作動させてくれるため、その必要はない。それでも、無言で家を出るのは味気なく、習慣的に声をかけている。


「いってらっしゃい、アオイ。気をつけてね」


 エリザの返事を聞きながら、アオイは家を出た。


 外に出ると、昨日に負けないほどの快晴だった。まずはお隣さんに挨拶に行こうと思い、周囲を見回す。北側にオレンジ色の屋根が小さく見えた。少し歩くには遠そうだが、時間はたっぷりある。散歩がてら歩いていくことにした。


 15分ほど歩くと、オレンジ色の屋根がだいぶ近くに見えてきた。家に近づくにつれ、どこからか甘い香りが漂ってくる。それは温かく、どこか懐かしい香りだった。家の前にたどり着くと、アオイの家と同じくらいの大きさだが、外観は洋風で、きれいに整えられている。カバードポーチには水色のロードバイクが立てかけられていた。


 外扉の周りを見ても表札はなく、住人が男性か女性かはわからないが、この甘い香りから女性であればいいなと思った。


「ふぅー」


 小さく息を吐き、扉をノックする。


「どうぞ」


 中から女性の声が聞こえた。


「失礼します」と声をかけながら扉を開けると、先ほどまでとは比べものにならないほど甘い芳香がアオイを包み込んだ。

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