塞ぎ込んでいた日々から、漸く立ち直った二藍。


 その後の数日間は目まぐるしいほどの速さと勢いで回り、日々が動いていた。


 それまで気崩していた衣装が藍色を纏った正装に変わり、自信を取り戻したその姿には当主である覚悟が伺える。茅から後を引き継ぎ皆の先頭に立つその存在感はまさに、白檀が望んでいた二藍のあるべき姿だった。


「『遠州の鬼』の血は、しっかりお前に受け継がれてたんだな」


「はぁ? 私は父ほど冷酷ではないわ。まぁその父も、二藍様には負けるけど」


 妻としてやるべきことをしたまでと答える。


「しっかし、あの落ち込みようも酷かったが、立ち直りも早ぇんだな⋯⋯あいつ」


 それは数日前まで、悲愴感に苛まれていた男の姿とは思えないほど活動的で、屋敷中の誰もが驚いていた。


「あれが二藍様の真の姿。強くて儚い⋯⋯それが彼の本質なのかもしれない」


 強さと弱さは紙一重だと、凛々しいその姿を見つめながら麹塵はそう感じていた。弱さを知りそれを乗り越えた者だからこそ手に入れることのできる力は、いつしかその人の糧となる。そしてそこから得られる強い意志と強固なまでの思いは、負の感情を根底に自らを支える精神の柱となるのだ。







 その日の夜、麹塵はある噂話を思い出していた。この藍墨には見事なまでの千本桜がある、と聞いたことがあるのを。それを知ったのは昨年。嫁いですぐの頃だったが、その時にはもう桜は散ってしまった後だったのだ。


 それから約一年。桜の開花を待ち侘びて、これからが盛りだとの噂を聞けば、今がまだ八分咲きとて一度は目にしたくなるというもの。思い立ったらすぐだとばかりに彼女は決心した。


 然れど思い出したのが、この夜更け。


 もう眠っているであろう茅を起こすのは気が引けて、かと言って二藍は論外。となれば残るは彼しかいないと開けた扉の向こうに、意外な人物を見つけた。


「二藍様?」


「こんな夜更けにどこへ行く?」とこちらに背を向けたまま話す姿に、「あなたの方こそ」と言う言葉を飲み込む。そのまま扉を締めながら「睡蓮の寝所へ」とだけ答えた。


「何をしに?」


「何を⋯⋯と申されましても」


「夫のある身でこんな夜中に、例え付き人であろうと他の男の寝所を訪れるなど、良いことだとは言えないな」


「何を気にされているのかは存じ上げませんが、ご心配なく。夜桜見物の付き添いをお願いするだけにございます」


「それは、皮肉か?」


「えぇ、もちろん」


 言い切る彼女に微かな笑い声が聞こえた。


 まさか? とギョッとしながら見つめるその後ろ姿が、ゆっくりとこちらを振り返る。微かな笑みを湛えたその綺麗な顔が、「睡蓮を起こす必要はない」と告げていた。


「俺が付き合おう」


 その発言も意外だったが、初めて見せた笑顔の方が気になって⋯⋯。彼でも笑うことがあるのだと、麹塵は何だか見てはいけないようなものを見てしまった気がしていた。


 小さな行燈の灯りを頼りに訪れたのは、藍墨にある御所の近くの千本桜。まだ満開とは言えないが、篝火燃えるその灯りに照らされ聳え立つその堂々とした風格にはため息が零れた。


「とても綺麗⋯⋯」


「あぁ」


 小さく頷き呟く二藍は、ずっと向こうまで続いているであろう桜並木を眺めている。今はまだ闇深い夜だ。その全貌を知ることはできないが、きっと青空の下で見るともっと美しいのだろう。


「あなたも美しいと思うことがあるのね」


「感情がないわけじゃない」


「それは⋯⋯あの時知った」


 まだ記憶に新しい、打ちひしがれていた彼の姿。それを思い出す度湧き上がる同情は、決して軽いものではなかった。


 麹塵は、ふと、思ったのだ。


 彼のことを深く知るのが怖いと⋯⋯。


 闇夜に浮かぶ花篝。見つめる横顔は今まで見たことがないほど美しく、威厳ある存在感を放っている。


「あの時のお前の言葉⋯⋯まるで白檀に説教されているようだった」


 言う彼は麹塵を見つめ、向き合う。


 彼とて最初から分かっていたのだ。けれど、畳み掛けるような近しいものたちの「死」に、どうしても現実を受け入れることができないでいた。


 しかし立ち直るきっかけを麹塵に与えられたと、そっと告げる。


「ありがとう」────と。


「お前のおかげだ。今の俺があるのは。礼を言う」


 零れ桜がはらり、ひらり。キョトンとした麹塵の頬に舞い降り滑り落ちていく。


「ありがとう」など、初めて言われたと返す言葉も見つからない。「いいえ」と応えた当たり障りのない表現に、「珍しい先客がいたものだ」という声が重なった。


 静まり返った夜にやけに通る男の声に視線をやれば、その瞳に映るのはどこかで見かけたような顔が二つ。歩き近づいてくる足音に明瞭になるその面影は、ここが御所の側だということを思い出させていた。


「────帝!」


 それはこの国を統べる君主、白藤と彼の護衛である桔梗の姿だった。


「また会ったな、麹塵」


 慌てて腰を曲げ深々と頭を下げる麹塵と、軽く顔を伏せるだけの二藍。彼を一瞥した白藤は、「やはり本当だったのだな」と少し切なそうに呟いた。


「そなたは、この二藍の妻とな?」


「はい」


 そうだと地面に声を落とす彼女に、堅苦しい挨拶は無用だと二人に顔を上げるよう命じる。


「やっと会えたというのに⋯⋯」


 実に残念だと白藤が見つめるのは、麹塵ではなく二藍の方。その眼差しは鋭いながらも、また別の感情が込められているように麹塵には見えていた。


「⋯⋯邪魔をしたな」


「いいえ、そんな⋯⋯」


 王の謝罪にとんでもないと首を左右に大きく振る。


「私たちの方こそ⋯⋯。もう屋敷に戻らねばと思うておりましたので」


「そうでございますよね? 二藍様」と名を呼べば、彼は王に対しても愛想なく踵を返す。まるで国王を避けているようなその仕草に無礼過ぎると小声で非難しても、彼は何も言わなかった。ただ無言で帝に背を向け、麹塵の手を引く。





「無礼者」と闇に消えゆく背中に投げつける桔梗の感情に、白藤は鼻で笑い桜を見上げていた。


「お前は不満であろうが、引き続き頼むぞ」


「相手が誰か分かっただけで、充分でございましょう? その身辺まで見張れと?」


「身勝手で言っているのではない。“『藍』を統べるものはこの世の覇者となる”────。『藍』の家督はあの二藍が継いだと聞いた。殊更、嫌な予感がするのだ」


「まかせたぞ」と用は済んだとばかりに王宮に戻る君主の後を、桔梗は追った。






 真の闇が奥深く広がる世界に消えていく影がここにも、もうひとつ。


「二藍様が、あの女と⋯⋯?」


 湧き上がる嫉妬心は、彼女────牡丹ぼたんの心を少しずつ蝕んでいった。

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