それは神秘的な夜の姿。


 月の満ち欠けにより、闇は様々な顔を見せてくれる。


 半分の月が満ち始める宵の空は弦月。『上弦の月』、『弓張り月』と称される、美しき夜だった。


 昼間のことがあり眠れなくなった麹塵は、一人になりたいと共も連れず屋敷を抜け出していた。揺れる行燈の灯りを眺めながら、なぜあんなことを言ってしまったのだろうと後悔しきりだが、今更起こったことを悔やんでも無意味なこと。思考回路がなければ何も悩むこともないのにと、考えずにはいられない性が今は酷く憎らしかった。


 思い悩みかき消しては、また悩む。そんなことを繰り返しながら、気づけば川にかかる橋のほぼ中間で佇んでいた。


「どれくらい歩いたんだろ?」


 闇は深く暗いが、静寂ゆえに冷静さをくれる。


 ただの独り言。返ってくる言葉などないと思っていた────その時、それらはそこにいたのだ。


「こんな夜中に、こんなに美しい女人が闇夜を散歩か?」


 まさかそこに近寄る影があったなど露ほども思っていなかった麹塵は、驚きと不安に満ちた表情でそこに立つ三人の男たちを見上げていた。


「なんなら、俺たちが側についててやろうか?」


「一人で寂しいだろ?」


 などと橋の欄干に追いつめられては、逃げ場を失ってしまう。じりじりと近寄ってくるその姿を手で押し返そうとすれば、その腕ごと男の胸の中へ引き寄せられてしまった。


「離して!」


 そう声を上げようとも、男の力には到底敵わない。そのまま引きずられるように手を引かれる方角は、屋敷とは真逆の方向だった。


「ちょっと、どこに連れてく気よ? 離してったら!」


 この時ばかりは、誰にも何も告げずに屋敷を出てきた自分を呪った。自身の立場も弁えず、何とも軽率な行動だったと。


「本当に馬鹿な女だ」


 そう聞こえたのは、気のせいではない。


 背後を怪しむよう振り返る三人の男たちと、その間だから顔を覗かせ向こう側を見遣る麹塵。僅かに開けた視界に飛び込んできたものは────鋭く前方を見据える怖くも美しい『藍』の頭領の顔だった。


「⋯⋯二藍様?」


 どうしてここに? と問うより早く「失せろ」と、目の前の男たちに向け凄む。その気迫たるや、少々引いてしまうほどだった。


「嫌がる女をものにし服従させたところで、低俗なお前たちの格が上がるわけでもあるまい」


 むしろその逆だと刀の柄に手をかける二藍に対し、相手の態度もやる気満々。しかし三人の内の一人が気づいたのだ。その刃を抜きかけている男に対し「よせ!」と制止をかける。


「この方は、二藍様だ!」


 まさか! と目を見開く男たちの視線は、二藍から麹塵へと移る。


「その女は、我が妻だ」


 表情は依然として変化ないが、その眼差しは冷酷そのもの。


「彼女に用か?」と静かに語るその威圧感に耐えきれなくなったのであろう男たちは、そのまま剣を抜くのを躊躇い、「くそっ」という捨て台詞と共にその場を逃げるよう走り去っていった。


 置き去りにされたような状態の麹塵。状況がうまく掴めないままキョトンとしていると、彼が静かに告げる────「帰るぞ」と。微かに震える手を隠すよう握りしめた麹塵の拳を、二藍の大きな手がそっと包む。まるで労るようなその温もりにほっとした彼女は、大きく息を吸い込むとそれをゆっくりと吐き出した。


 次の瞬間────その腕を思いっきり引き寄せられる。身体ごとその大きな胸に抱きとめられたかと思うと、二藍は麹塵を抱きしめたまま彼女を庇うように身を竦めた。


 何が起きたのか分からずじっとしていると、頭上から微かな呻き声が聞こえる。


「二藍様?」


 どうしたのかと尋ねる前に、彼の右腕の力が僅かに抜けていることに気づく。嫌な予感がした麹塵がすぐ様その胸から離れると、二藍の左手が右腕に刺さる何かを思いっきり引き抜いた。


 そのままその場に投げ捨てられたそれは、一本の矢。


 その凶器が向かってきた方角と軌道を察するに、それは確実に麹塵を狙って放たれたものだった。


 二藍は反射的に彼女を庇い、自らがその盾となったのだ。


「ちょっ⋯⋯血が────」


「大したことない」


 大ありだと自身の細帯を解き、彼の傷口に宛てがう。藤色のそれは、あっという間に彼の鮮血に染まっていった。


「とにかく手当を⋯⋯」


 傷ついた腕を庇いながら痛みに顔を歪ませる彼を支えながら、闇夜を歩く。


 夜はより一層更けていった。






❁*。






 牡丹の心中は決して穏やかではない。


 急ぎ向かったのは父、藍鉄の寝所だった。


「一体、どういうことなのですか!?」


 部屋に入るなり声を上げる娘に、藍鉄は「何のことだ?」ととぼける。


「二藍様に一体何をしたのです!? 先ほど賊を差し向けたことは知っています。戻った者から聞きました。麹塵様を庇い二藍様が怪我をしたと。命令を下したのは父上でございましょう!? お答え下さい!」


 立ったまま父を見下すよう声を荒げる彼女は、湧き上がる怒りを隠そうともせず、感情のまま言葉をぶつけていた。


「命に別状はあるまい」


 何が問題なのかと、まるで他人事のように語る父に牡丹は信じられないとばかりに目を見開く。


「あの女がどうなろうと、それは一向に構わない。けれど、また二藍様を傷つけるようなことがあれば、いくら父上でも許さないわ!」


「ならば、お前が自分自身の力であの二藍の心を射止めてみよ! さすれば、私がこれほど気に病むこともないのだ」


 麹塵が二藍の妻の座につけたのは、あの特別な力があるから。魂を癒すとされるその歌声を持ち合わせてさえいなければ、彼女も所詮はただの女なのだと。


「牡丹、麹塵とか言うあの小娘よりも、そなたの方が女として数倍秀でておる。所詮は他国の娘。後の藍墨国主に嫁ぐべきは、藍墨の人間でなければならんのだ。それに、二藍様は誰よりも特別なお方だ」


 そんな彼の側にいるべきは、牡丹なのだと。


「二藍様は、ただの一国の国主で終わっては困る。あのお方には、もっと相応しい地位があるのだからな」


 分かっているだろう? と語りかける父に、牡丹は深く頷いた。


「この父に全て任せておけば良い」


 分かりましたと答える代わりに、冷たい視線だけを残し部屋を出る。後ろ手に扉を締め来た廊下をゆっくりと戻れば、夜の寒さに収縮した床板が、踏みしめる度に軽い軋みを上げていた。静寂の中、やけにうるさく聞こえるその音をなるべく避けながら、篝火に揺れる闇の景色に冷静であるべきだと心に言い聞かせる。


 どうあっても、彼の心が欲しい────と。


 その寵愛を一身に受けている麹塵が羨ましく、憎らしくもあった。それほどに、牡丹は二藍の虜になっていたのだ。


 月はまだ、半分。


 思いはみたされないまま、宙を彷徨っていた。

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