伍:不穏──前触れ──
一
「なぜ、あんな真似を? 茅も連れずにたった一人で! 何のためにあいつをお前の側に置いていると思ってるんだ!?」
帰ってくるなり頭ごなしに怒鳴るその声に、巻いていた白い綿の布を思いっきりしめる。全く表情の変わらない男に、いじめがいがないなとつまらなくそれを巻き直していた。二度手間だ。
「聞いてるのか!?」
少しどころか意外にも感情的になる彼の言動を新鮮だと思いつつ、そのお小言自体は右から左へ。
「お前に何もなかったからよかったようなものの、俺がその場に間に合わなかったら、一体どうするつもりだったんだ!?」
「分かったから、もういちいち怒鳴らないでよ! 夜も深いんだから!」
「怒らせているのはそっちだろ!?」
「自業自得なのは認めるけど、大体の原因はあなたでしょ? 一方的に責められる言われはないわ!」
「俺がいつ────」
二藍が言いかけた時、扉の向こう側で影が動いた。
刀を手に瞬時に動く二藍の身体は麹塵の前にあり、その背は彼女を護るべくそこにあった。
そんな二藍の行動に、戸惑う他何の感情があるだろう?
「何事だ?」
そう聞こえてきた声は、やはり茅のもの。
主の部屋から珍しく女の声がすると扉越しに二藍を茶化す副官に、目の前の男はただ一言「黙れ」と言葉一つで彼を追い返す。騒ぐ二人の声が余程煩かったのか、黙るのはお前たちの方だと微かに笑う声は、「もう遅いんだから、ほどほどに」と言い残し立ち去っていった。
まるで彼のにやけ顔が目に浮かぶようで、張り詰めていた緊張の糸が、少しほぐれた気がしていた。
「一応、手当ては済んだけど、明日きちんとお医者様に見てもらって下さいね」
手当のために抜いていた片袖に腕を通し、身支度を整える二藍は、突然、背を向けていた彼女と向き合う。いきなりの所作に驚いた麹塵は、思わず少し仰け反った。そんな彼女の行動を新鮮に感じた彼は、その口角を僅かに上げる。他の男ならば『怪しい』との表現が丁度の具合だが、それがこと二藍ともなれば、『妖しく』もあり『妖艶』でもあったのだ。
何なんだと後退りする彼女を余所に、どんどんとその間合いを詰める彼。
「お前のせいで怪我をしたんだ。その埋め合わせをしてもらおうか?」
それは何とも艶っぽい囁きだった。
顔を真っ赤にしてあわあわと戸惑う麹塵のおかしな姿に、堪らず声を上げて笑う二藍は「冗談だ」と彼女を優しく抱きしめる。
「お前が無事で良かった」
揶揄われたのだと一瞬頭に血が上ったが、そっと包まれた温もりに売る喧嘩も忘れた。
「今夜はここで共に眠るか?」
伝わるその腕の温もりは本物だけれど、彼のその言葉は本心なのか、はたまた冗談なのかは分からない。夫婦なのだから本来ならばそれがあるべき姿ではないのかと思う反面、今更の台詞に殺されかけた記憶が蘇る。
「いいえ⋯⋯」
考えるより早く、そう言葉にしていた。
「俺が怖いか?」
突き詰められれば、そういうことなのかもしれない。どう答えれば良いのか分からず向けられた視線を避ければ、暫しの沈黙の後、「悪かった」と言う彼の控えめな呟きが切なく響いた。
「二度、お前を殺しかけた。恐れられて当然だ。疑心暗鬼になるのも分かる。だが、もう怖がるな⋯⋯。この先、もう二度とお前を傷つけぬと約束しよう」
「そのお言葉、この前あなた様が傷つけた女中にも伝えるべきです」
「そうだな⋯⋯」
心が真っ直ぐだから、曖昧な感情表現はできない。感情的になればなるほど、自分を見失うこともある。嘘をつくことができず、実のところ繊細で純粋な人────。二藍とはそういう人物なのではないかと、麹塵は感じていた。
「彼女の様子はどうだ?」と窺うのは、いつぞや彼が斬りつけてしまった女中のその後。幸い傷口も浅く命に別状はないと聞かされていたが、それを二藍に伝えるのを麹塵はすっかり忘れてしまっていたのだ。
「順調に回復しております。昨日から、自身の持ち場に戻ったと」
教えてくれたのは茅。無理してこの屋敷に残ることもないと伝えたそうだが、彼女は主を恨んではいないと、これまで通りの生活を望んだそうだ。
「そうか」と安堵したよう零すその一言に、「明日、また様子を伺いに参ります」と、そっと彼の胸を押しゆっりくと離れる。
「落ち着かないと、言葉遣いが変わる」
「え?」
「誰にでも遠慮ないお前の言動、初めは驚いた。しかし良いもんだな。本心を包み隠さず話してくれる⋯⋯。緊張するな。かしこまった姿など、お前らしくない」
そう笑う彼に、麹塵も苦笑いで返す。
「今夜は自室に戻るわ」
そう言い残し、そっと部屋を出ていった。
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