望まなくても陽は昇る。『明日』は必ずやって来るのだ。


 今日は生憎、青空を拝めない。空一面が重い雲に覆われ、今にも泣き出してしまいそうで。ところどころ花をつけ始めた桜が呼んだかその雲は、見上げた麹塵の心をどこか不安にさせていた。


 まるで、嵐が来ると予告しているかのように────。


「昨夜はてっきり二藍のとこで眠ったと思ってた」


 言いながら、麹塵の一歩後ろに立つ男。


「あれは怪我の手当をしてただけ。その後はちゃんとここに戻って、一人で眠りました」


「別に弁解の必要もねぇだろ。お前ら夫婦なんだから、そもそも寝所が別ってぇのがおかしいんだ」


「今更言わないで」


 そのにやけ顔が朝から癪に障ると文句を言えば、微笑ましいのだと語る茅。その様子はどちらかと言えば、面白がっている風だった。


「そもそも、何であいつ怪我なんか⋯⋯」


「私がいけないの。無断で夜中にお屋敷を抜け出したりしたから⋯⋯」


 ポツリと控え目にこぼす麹塵に、彼は目を見開く。「お前なぁ!」と想像した通りの反応で、彼女は思いっきり肩を落した。


「俺に無断で外出したのか? 何で言わねぇんだよ! もしものことがあったらどうすんだ!」


「もう何か起こっちゃったけど⋯⋯」


「開き直る気か!?」


「一人になりたかったの!」


 それくらいの自由はあってもいいじゃないかと声を上げる。しかし自由であってはならないのが、自分の立場だと言うこともよく分かっていた。


 起こったことは事実だし、それは変えられない。けれど、これ以上騒ぎ立てる必要もあるまいと言う二藍に、麹塵も「分かりました」と頷いたばかりだったのだ。


「本当に、あなたには危機感がないのね?」


 突然割り込んできた声に、茅も動きが止まる。


「二藍様にまで怪我をさせて、それでも気にしていないなんて」


 予想だにしていなかった透き通った声に探す人影は、薄桃色の着物の袖を風に靡かせた牡丹。気配薄く鋭い視線を麹塵に向け、互いの距離を一丈ほどの感覚で佇んでいた。


「気にしていないわけではありません。ただ、これ以上騒ぎ立てることをあの方が良としていらっしゃらないので、私もその意向にそっているだけにございます」


 彼女の強い眼差しに負けじと言い返すその気迫はなかなかのもので、「そう」とだけ頷く牡丹は挨拶もそこそに、少し話しが出来るかと麹塵の問うていた。


 二人きりになりたいという彼女の申し出に、自分の側から離れようとしない茅を見つめ、大丈夫だと目配せをする。彼の表情からして納得していないのは分かったが、今は言う通りにして欲しいと諭した。


 空は重く、灰色に変わる。それに比例するよう、麹塵の気分も晴れやかとはいかない。どことなく感じる息苦しさの原因は、やはり彼女の存在だった。


 庭の桜はまだ満開には程遠く、三分咲き程度。まだまだ散るはずのない花びらが、たった一枚、そよ風に舞い麹塵の目の前を落ちていく。それを手のひらにそっと握りしめ、胸騒ぎを静めるよう深く息を吐いた。


「麹塵様は、なぜ藍墨に?」


 分かりきったことを今更、敢えて尋ねてくる彼女をじっと見つめる。今の牡丹にはどんな言葉を選んでも、その感情を逆撫でするだけだと分かっていた。


「遠州の退紅氏と言えば、藍墨の藍一族の並ぶほどの豪族。しかもその遠州には美しい歌声を持つ姫君がいる────その噂は、この藍墨まで届いておりました。まさかその『歌姫』が二藍様の元に嫁いでくることになるなんて⋯⋯」


「私自身も、予想だにしてはおりませんでした。当然、望んだものでもなかった」


「そんなこと分かってるわ! あなたにとっては政略結婚だったとでも言いたいのでしょ? でも私は違う!! 私は二藍様を心の底からお慕いしていたの。それなのに────」


 遠くの空で轟く雷鳴が、稲光を連れ空を裂く。今にも泣き出しそうな天空に、牡丹の静かな声がやけに響いていた。


「初めてあの方にお会いしたのは、今からもう五年ほど前。あまりにも美しい方で驚いたわ。一目で心奪われた。どうしてもお側にいたくて、父上に縁談を取り次いでもらった。二藍様はまだ藍墨を離れる前だったので、結婚の約束を⋯⋯」


 二人の間に冷たい雫がポツリと一つ、また一つと落ちてくる。それはやがて雨となり、辺りを哀しく濡らしていった。


「麹塵様、はっきりと申し上げます。あなたは邪魔者なの。そしてこの藍墨にも、二藍様にも必要のない女。大人しく遠州にお帰りなさい。青藍様亡き今、私の父ならば、それをも現実にできましょう。彼を私に返して!!」


 本降りになる雨が、とても哀しく痛い。


「そんなこと⋯⋯」


 出来ないのではなく、したくなかった。


 形だけの夫婦だったはず。


 しかし麹塵の思いはいつしか、少しずつ二藍に惹かれ始めていたのだ。


「あなたには特別な力がある。だからこそ、ここにいられるのです。でなければ、ただの卑しい女。そこには何の価値もない」


 そこまで言われては、返す言葉が見当たらない。何か一つでも文句を言ってやりたかったが、浮かぶのは陳腐な台詞ばかりで、いつもの勢いも彼女の前では形を潜めてしまうのだった。


 麹塵を静かに見つめていた牡丹は踵を返す。


「今はもう恋仲ではありません。けれど、私は今でもあの方を強く、深く思っています。あなた以上に⋯⋯」


 去り際に告げたその言葉が、やけに胸に刺さった。


 目を閉じ俯く麹塵の頬には、雨に流れていく涙の跡が⋯⋯。


 声にならない胸の痛みを押し殺し、土砂降りになったその雨に身体を濡らす。そうしていれば、悲しみも苦しみも、全てが洗い流されて行くような気がしていたから。


 歌唄いの能力さえなければ、自分などただの女。豪族と言われようと、その力は萎え始めている我が『退紅』の名は、もはや何の後ろ盾にもならないことを知った。


 「私には⋯⋯価値がないのでしょうか⋯⋯⋯⋯?」


 問いかけたい相手は、今ここにはいない。


 背後で叫ぶ茅と睡蓮が彼女を連れ戻すまで、麹塵はそこにただ佇んでいた。


 土砂降りの雨に打たれたままで────。

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