「今更そんなことを聞いてどうする?」


 縁側の柱に凭れ、開花し始めた桜の花を眺めているだけの男は、だからどうした? と言わんばかりにため息を吐く。美しく鳴く鶯が一羽、咲き始めた蕾を揺らし飛び去っていった。


「今更って⋯⋯」


 声を上げた瞬間、ふと思い出した光景。


 まるで人目を忍ぶかのように、彼女に優しく微笑んでいたその姿が今の彼とは別人で、思わず次の言葉を飲み込んでいた。


 言いかけたまま何も発しなくなった麹塵を不審に思ったのか、彼女に向けられた二藍の視線。彼の側に腰掛け一人何かに気づき、ハッとしては目を伏せる────そんな姿を黙ったまま訝しげに見つめていた。


 麹塵はまだ推測である仮定に妙な自信を持ってしまっており、思い込みの沼から抜け出せないでいたのだ。勝手なこじつけであり彼女の妄想なのだが、あの時見た光景からは、二藍と牡丹が未だ通じ合っている仲のように見えていた。


「⋯⋯────余計なことを申しました。お詫び申し上げます⋯⋯」


 突然変わる顔色に、他人行儀なその言動。滅多に見ることのない畏まった態度に違和感を感じた二藍は、立ち去ろうとする麴塵の腕を掴み強引に引き止める。そして身体の向きを変え彼女と向き合うと、その鋭い眼差しではっきりと問うた。。


「今、俺の妻は誰だ?」────と。


 真っ直ぐに見つめられては息も詰まる。


 その怖いくらいに真摯な瞳とは裏腹に心を包み込むような美しい声が、卑屈になると共に失いかけていた彼女の女としての自信を支えてくれた。


「今、この俺の妻と呼べるべき女は、お前だけだろ? 麹塵⋯⋯」


 そう、名を呼ばれれば早鐘を打つ胸の鼓動。


「違うか?」と心を射抜くその瞳は少し柔らかくなり、それは微かに微笑んでいるようにも見えた。


「それは、そうですが⋯⋯⋯⋯でも、あなたにとっては『今更』でも牡丹様にとっては違う。あの方は今でも二藍様のことを────」


「なぜお前が気にする?」


「そりぁそうでしょ!? あなたを思う女性がすぐ側にいるのよ?」


「だから?」


 何が言いたいと静かに呟く声は、彼女をその場に拘束していた。まるで幻覚にでも囚われてしまったかのように動かない身体に、物理的にも今の二藍からは逃れられないと悟った。


「それは⋯⋯────」と口ごもりながら、下がる視線。二人は思い合っているのでは? と思い切ってぶつけてみれば、後は簡単だった。まるで箍が外れたように、誰に対しての文句かもよく分からない気持ちが、次から次へと言葉となって溢れてくるのだ。


「私がここに嫁ぐことになって、あなたと牡丹様は添い遂げることができなかった。いつの日だったか、牡丹様が二藍様を訪ねてきてたでしょ? その⋯⋯覗き見る気はなかったんだけど、あなたがあまりにも優しそうな表情で、彼女を見つめていたから⋯⋯⋯⋯」


 自分がここにいることに、彼女は酷い罪悪感を感じていたのだ。


 それはまるで、嫉妬にも似た感情。


 否定も肯定もなく相槌さえもないまま、彼はじっと彼女の瞳を見つめ返していた。


「お前は一体、何を心配している? 自分の夫が信じられないのか?」


 はてさて────彼を夫と言えるのだろうか? 例えそうだとしても、それはあくまで形だけだ。少なくとも今まではそうだった。


「確かに私たちは夫婦です。私は二藍様の下に嫁いで参りました。けれど、私はあなたを『夫』だと本心から思ったことはただの一度もございません。それはあなた様も同じでは? 元よりいつも私を側で見守ってくれていたのは、あなたではなくあなたの副官でした。最初から歓迎されていないことはよく分かってました。私の身の上が保証されているのは、私に⋯⋯他の者にはない力が備わっているから⋯⋯ただそれだけ」


 自分が受け入れられていないということは、この際仕方のないことだとしよう。けれど、例え形だけであろうとも、夫となるべき男が他の女性を思っているというのは複雑であり、女として悲しくもあったのだ。


「私だって⋯⋯決して望んで嫁いできたわけではないわ!」


 妻として必要とされていないことに絶望にも似た感情を抱きつつ、自分の存在が二人を不幸にしているのかもしれないと思うと、麹塵は余計に虚しくなっていった。


「部屋に戻ります」


 それだけ告げると、彼女は掴まれたままだった二藍の手を振り払い、急いで立ち上がる。


 今は彼の目を見ることが、何より怖かった────。

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