二
なぜだろう?
ただ唄った。
誰のためでもなく、気の向くままに。
その日、そこに睡蓮の姿はなかった。
「珍しく一人か?」
突然降ってきた声に驚き、一瞬呼吸が止まる。そこにいるはずのない人影を目にしたからだった。
「二藍様?」
「庭にいたら、お前の歌声が聞こえた」
簡潔な言葉がいかにも彼らしいと、笑みが零れる。すかさず反応する二藍は「何がおかしい?」と麹塵に問うていた。
「あの⋯⋯悪く取らないで下さい。っていうか、睨まないで」
「睨んでない」
「私にはそう見えるんです。あなた様は元々が切れ長な目元をしてらっしゃるから⋯⋯綺麗ですけど⋯⋯。だからこそ怖いというか⋯⋯何もかも見透かされそうで」
彼に対して言葉を取り繕う気もないのは、これまで散々コケにしてくれたから。今更、気を遣う気もさらさらなかったのだ。
「まぁとにかく、二藍様らしい簡素なお言葉だと思いまして」
皮肉をたっぷり込めて返事をすれば、「あの美しい歌声からは想像しがたい性格だな」と反撃を食らった。
「それで、今日は何の御用ですか?」
用が済んだなら早く帰ってくれと言わんばかりの麹塵に、二藍はポツリと告げた。
「頼みがある」と。
「先日、お前は先の合戦後の荒野に弔いに向かったと聞いた」
「えぇ、確かに行きましたけど⋯⋯」
「ならば今一度、弔いを願いたい」
「ですが、魂はもう天に召されました。それは確かです」
「ならば⋯⋯我が魂を救うと思うて、もう一度⋯⋯⋯⋯頼む」
その声色は至極真剣で、座る麹塵と目を合わせるよう片膝をつきしゃがむ。彼女の目を真っ直ぐに見つめ懇願するような様に、心做しか胸が高鳴った。
「お前に救えるのは、何も死者の魂だけではない。生ける者も、その歌声に癒されているのだ」
どこかで聞いた台詞に、こんなにも長く彼と目を合わすなど嫁いで初めてのことだと、どこか自身を俯瞰的に見ている自分がいる。
その吸い込まれそうなほどに美しい瞳に見つめられ、麹塵は「分かりました」と静かに頷く。いつ見ても美しすぎる夫に、並ぶ牡丹の面影。自分が女として、妻として自信をなくしていくほど、牡丹の存在がまるで真綿で首を絞めるよう麹塵を追い詰めていった。
現実、自分は二度も彼に殺されかけているのだ。未だにその出来事についての謝罪は受けていない。それがもし牡丹であったなら、二藍に対し死の恐怖を感じることさえなかったのだろうなと、一人、わけもなく思考の波に溺れていた。
「────で、またここに来たってわけだ」
「しかたないでしょ? あそこまで真剣な顔で言われたら⋯⋯何か断れなくて」
「一応は、あいつの嫁さんだしな」
初対面から二藍を「あいつ」呼ばわりしていた睡蓮は、彼が麹塵の夫になってからもその呼び方を改めようとはしなかった。怖いもの知らずな彼女の付き人は、明らかに麹塵以外には忠誠を誓っていなかったのだ。
「もう帰ろう。長居は無用だ」
さ迷える魂はあちこちにいる。それらは麹塵の歌声に惹き付けられ集まるのだ。取り囲まれたら逃げられなくなると、睡蓮は彼女を急かした。
二人から少し離れて待っていた茅と共に、その場を後にするが、どこか後ろ髪引かれるような気持ちだった。遠ざかる荒野を時々振り返る麹塵は、二藍がなぜこの合戦後にこだわったのか少し気になっていたのだ。
何かを必死に訴えるような悲しみを含んだあの眼差しが彼女には忘れ難く、その深い思いはとても柔らかで繊細だったから。
「なぁ、あれ⋯⋯この間屋敷に来てた女じゃないか?」
去りゆく景色に気を取られていた彼女は、睡蓮の思い出したようなその言葉に視線を戻す。彼が指さす方向に目を向ければ、その記憶通りの見知った姿がこちらに歩み寄って来ていた。
「またお会いしましたね」
そう微笑む彼女は牡丹。にこやかなその笑顔を可愛らしいと思いながらも、自分に向けられた視線にどことなく違和感を感じたのは決して気のせいではない。
牡丹の視線は麹塵を一瞥した後、彼女の側にさも当然の如く立っている茅に向けられていた。
「今日も二藍様のお側にはいないのね」
「あの方から麹塵様をお守りするよう、仰せつかっておりますので」
「そう⋯⋯」
伏せ目がちに短く相槌を打つ牡丹は、一呼吸置きそのその瞼を上げる。そして麹塵を捉えたその大きな瞳は、彼女をキッと睨みつけたまま、茅に向けこう告げた。
「私を護ってくれたことなんて、ただの一度もなったのに彼女には忠実なのね」────と。
初めて言葉を交わしたあの時から、そう時間は経っていない。なのに牡丹の態度のあまりの変わりように、麹塵は驚き言葉も出ないほどだった。
「本来ならば、お前に護られていたのはこの私だったはず⋯⋯」
「あなたさえいなければ」と捨て台詞を吐くように麹塵の側を通り過ぎる牡丹。その目には明らかな怒りと憎しみが見て取れたのだ。
少々喧嘩っ早いあの睡蓮でさえ何も発しない中、牡丹は「では、また」と言い残し、少し離れた先で待つ馬車を連れた行列の元へと歩き去っていく。チリンチリンと尾を引くその鈴の音は、彼女の髪に揺れる髪飾りから響くどこか悲しげな音色だった。
必要ないものを投げ捨てるよう落とされた言葉を拾うこともできず、それをどう解釈すればいいのかさえ分からぬまま、麹塵はただ戸惑うばかり。
「ねぇ、茅⋯⋯彼女は一体誰なの?」
あなたは知ってるんでしょ? と見上げる横顔は、もうすでに牡丹を視界に入れてはいない。
「彼女の言ってたこと⋯⋯どういう意味なの?」
正直に教えて欲しいと遠慮がちに問うが、茅は躊躇うばかり。話したくても話せない、知らなくてもいいことだと、言葉を出し渋る彼に耐えきれなくなった彼女は「私が知りたいの!」と詰め寄った。自分の口から話してしまってもいいものなのかどうかを思案しながら、結局は麹塵に折れた彼。その場に立ち尽くしたまま、やっとその重い口を開いたのだ。
「彼女は⋯⋯あの、枯野牡丹は⋯⋯⋯⋯、二藍の婚約者だった女だ。その上、あいつに心底惚れてた」
言いにくそうに告げる彼は、言葉を選びながらも、簡潔に分かりやすく説明してくれる。しかし理解しやすいその文言は、今の麹塵には辛辣で頭を殴られるほどの衝撃を与えたものだった。
「じゃあ⋯⋯『あなたさえいなければ』っていうのは、もしかして⋯⋯⋯⋯」
初めて二人の姿を見かけた時から、そうなのではないか? という疑問は常にあったのだ。だからこそ、それが真実なのだと知ってしまえば、より胸が締めつけられる。自分が彼の元に嫁いでさえいなければ、今二藍の側にいたのは彼女だったのかもしれない────と。
このまま知らぬ顔もできようが、こんな自分にも自尊心はあると、もう一人の当事者を問い詰められずにはいられなかった。
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