肆:嫉妬──牡丹──

 今日も今日とて、相変わらず暇を持て余している。


 あれやこれやと自分の身の回りで世話を焼く睡蓮に、麹塵は筝を奏でて欲しいと告げた。


「唄うのか?」


 弔い以外では滅多に唄うことをしない彼女に珍しいなと筝を用意する。そうじゃないと答える麹塵は、自分自身が癒されたいのだと笑った。


「睡蓮の筝の音を聴きたいの」


 いいでしょ? と廊下に座る彼のすぐ側にゆっくりと腰を下ろし、色がつき始めた庭の景色を眺める。物思いにふける麹塵を少し気にとめながらも、睡蓮は一呼吸置いてそのきつく張られた弦を爪弾き始めた。


 彼の奏でる筝の音は格別。


 それは優しく穏やかで、ふわりと頬を掠めるそよ風のような爽やかさがある。そしてそうでありながら、力強く芯の通った音を聴かせてくれるのだ。心癒されるその音色があるから、自身の歌声も死者の魂に届くのだと、しみじみと感じていた。


 自分はただ唄うことしかできない。この声を亡き御霊まで運び伝えてくれる存在がいてこそ、自身に価値があるのだと殊更強く噛みしめる。聞き惚れるとはまさにこういうかとかと、満たされた時間に心ごと浸っていると、その癒しを邪魔する輩が現れた。


「麹塵」


 この屋敷で彼女を呼び捨てにできる存在は、この屋敷の主である二藍と彼女の付き人の睡蓮以外にはもう一人しかいない。


「籐茅。今のあなたは邪魔者だわ」


 酷い言われように「あぁ?」と声を上げる本人は、「来客を伝えに来ただけだ」と座る彼女を立ったまま見下ろしている。


「私に?」


「じゃなかったら来やしねぇよ」


 麹塵に客人など、彼女が嫁いで初めてのことだった。


 言われるがまま身支度を整え、先行く茅の後を追う。後でまた聴かせて欲しいと睡蓮に告げ、すぐ戻るとそのつもりで約束をした。


「先日はお見苦しいところをお見せした。改めてお目にかかりますな、麹塵殿」


 堂々と上座に鎮座するその人物は、この度自らを『藍墨茶の守護』と名乗り宮中からの使いだと二藍を牽制していた。


「私はこの二藍の叔父となる、枯野藍鉄と申す。一年越しのご挨拶、無礼も承知の上で参ったことお許し下され」


「それはそれはご丁寧に⋯⋯」


 確かに遅すぎるとは思ったが、我が夫の態度からして失礼千万なのだから、挨拶が遅れたことくらい彼女には何でもなかった。


 しかし、彼────藍鉄が二藍の屋敷にやって来たのは、何も麹塵への挨拶が目的ではない。そんなこと、彼女本人も薄々感づいていた。


 何か他にあるのだと⋯⋯。


 ふと、麹塵は藍鉄の左隣────二藍と向かい合うよう座る一人の女性の姿を見つける。どこか既視感を感じながらも目をそらした彼女は、その瞬間、その女人がいつぞや夜遅くに二藍を訪ねていたその人物だと気がついたのだ。思い出してしまったがために、何となく気まづい。けれどそう思っているのは、自分だけだと思い至り顔を上げた。


「この度は我が兄青藍に続き、そなたの育ての親とも言える白檀殿のご逝去。謹んでお悔やみ申し上げる」


 目の前では堅苦しい言葉で、二藍に哀悼の意を表する藍鉄の姿。前に茅が言っていた通り、どこか胡散臭いなと思いつつ、二藍とのやり取りを聞いていた。そうして一通りの挨拶を終えたかと思うと、これからが本題だとでも言いたげに「ところで⋯⋯」と言葉を続けるのだ。


「確かにこれまで藍墨の統治者は我が実兄、青藍だった。しかし兄上亡き今、藍墨の実権は我が手中にあるのだ。いくらそなたが『藍』の家督を継いだとて、藍墨茶国主だとは到底認められん。然れど、こちらのある願いを叶えてくれるならば────全てをそなた与えても構わんと考えておる」


 この間のいざこざのことを言っているのだろうと思った麹塵だったが、そのどこか重苦しい雰囲気に、もっと大きな何かが隠されているようにも感じられた。


「別に俺は権力が欲しいわけじゃない」


「では一体何を求めておる」


「⋯⋯何も」


 二藍の表情に変化は見られないが、その瞳はどこか鋭さを増している。この二人の間に一体何があるのだろう? と興味津々になりはするが、どうやら話を最後まで聞かせてもらえそうになかった。


「牡丹、二藍ともう少し話をしたい。お前は麹塵殿のお相手を」


 そう命じられたのはその女性。短く「はい」とだけ答えると、何の疑問も抱くことなくスッとその場から立ち上がり麹塵を部屋の外へと促す。どうやら彼女は何かを知っている様子だった。


「何も知らないのは、私だけ⋯⋯か。まっ、いいけど」


「如何なさいました?」


「あっ、いいえ⋯⋯何も⋯⋯」


 思わず漏れた心の声を、慌てて誤魔化すその身振り手振りが道化のようで、牡丹はクスリと笑う。そよそよと横吹く風に散りゆく梅の花の側で、咲くのが遅いと言われていた庭の桜が開花の時を待っていた。


「申し遅れました。私は枯野藍鉄の娘、牡丹と申します」


 名乗り遅れてしまったと詫びる彼女に、麹塵も改めて自身の名を名乗り軽く会釈した。


「梅の花も、もう終わりでこざいますね」と愛らしく微笑む姿は、自分自身にはない上品さだと麹塵は少し羨ましくなる。


「えぇ。やっと桜の花が見られます」


「麹塵様は、梅よりも桜がお好きでございますか?」


「あのほっこりと可愛らしい梅の花も好きですけれど、やはり春と言えば桜かと」


 春にしか見ることの出来ない花。四季折々、そういった花は季節ごとに存在するが、桜はまた特別なのものだと麹塵は感じていた。


「咲き始めれば早く、散りゆく時もあっという間」


「花冷え、寒の戻り、桜雨」


 ご存知でございますか? と言う牡丹に、麹塵は頷き答える。


「桜が咲く頃にやって来る」


「花が咲く頃に寒さが戻り、満開になると雨が降る」


「花盛りはほんの一瞬⋯⋯」


「だからこと特別なのかも知れませんね」


 そうかもしれない。


 梅の木の側に立つその古木を眺めながら、開花の時を待ち遠しく思っていた。


 そうして他愛もない話で時をやり過ごし、近づく足音に気づいた頃には、二人は仲良く語り合う中になっていた。


「楽しくお過ごしのところ大変申し訳ございませんが、牡丹様、お父上がもうお戻りになられるそうです」


「ありがとう、茅」


 そう彼をすんなり呼び捨てにする牡丹に、麹塵は驚き瞬きを繰り返す。


「では、私はこの辺で⋯⋯。またお会い致しましょう」


 可憐な笑みを残し、彼女は去っていった。


 どことなく感じる違和感は果たして⋯⋯? 彼女の存在なのか、周囲の変化か。もしかしたら、自分自身の存在がこの違和感を生み出しているのかもしれないと、その場に立ち尽くしていた。


「大丈夫か?」


 肩に手を置かれ意識が軽く飛んでいたことに気づく。呼吸さえも忘れていたようで、顔を上げた瞬間に大きく息を吸いこんだ。


「彼女に何か言われたか?」


 心配してくれているのは分かったが、彼女、つまり牡丹との間に何かあったのでは? と危惧する茅に、それはないとしっかり否定する。


 しかし、疑問はあった。


「牡丹様は⋯⋯二藍様と何かしら関係が?」


 まだ記憶に新しい二人の仲睦まじい姿と、先ほどの茅との距離感に懐疑的思考は止まらない。


「『ない』とは言いきれんが⋯⋯お前が心配するようなことじゃねぇよ」


「何か歯切れの悪い物言いね」


「他意はないから気にすんな」


 言われても心に何か引っかかるのは、決して気のせいではない。


「今更だけど、私って何なのかしら⋯⋯」


 零す麹塵に茅も返答に困り、その短髪を掻き乱していた。

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