八
藍墨の国主として、藍一族の当主として、目立つ存在になり始めていた二藍。白檀の葬儀と彼自身の一連のあの出来事もあり、それらを黙って見ていられない者たちがいたのを、皆が皆記憶の隅から消してしまっていた。
「二藍、どういうことか説明してもらおう」
話が違うと白藍と共にやって来た藍鉄は、二藍が呼び寄せる前に自ら藍の屋敷に現れ彼に食ってかかる。
「気が変わった」
そう簡潔に述べる彼は、家督は自分が継ぐと目の前の二人に潔く告げたのだ。二藍の心変わりに、藍鉄は「何を今更」と眉間に深い皺を刻む。冷静に努めようとしているのは見て取れたが、少し震える声色からは怒りが滲み出ていた。藍鉄同様、解せないと兄を鋭く睨む白藍も、二藍の側に立つ麹塵を一瞥し兄に問うた。
「兄上にとって、大切なものとは何ですか?」
その言葉が指し示しているものが何であるのか即座に理解した二藍は、「今、この手にあるもの全てだ」と答える。
「麹塵のことを問うているのならば、これ以上の期待はするな。思えば、彼女は俺自身に嫁いできたこの二藍の妻だ。誰のものでもない、俺だけの女だ」────と。
啀み合う兄弟の争いの種の一つが自分自身だと知れば、このままこの場には居づらいとそっと後ずさり。茅の背に隠れながら、これまた初めて聞く思いもよらない二藍の言葉に動揺を隠せないでいた。
「全ては父と白檀の遺言だ」
言い切る彼は、勝ち誇ったよう口角を僅かに上げる。眼差しは鋭いまま二人の客人をその場に残し、二藍は麹塵を自身の腕の中に引き寄せると客間を後にした。
❁⃘*.゚
あれから全ての出来事は滞りなく進み、悲しみにくれた日々が漸く終わりを告げた。人の死はとても悲しい。こと二藍に至っては、父に続いた心許せる老臣の死だ。
彼が立ち直るきっかけになれたことは、彼女にとっても喜ばしいことだった。それは麹塵にとって、己の存在価値を少しでも感じられた出来事だったからだ。しかしながら、かと言ってそれ以降特に進展はない。吐き出す息が、心なしか白く感じられた。
春といえども、まだ季節は移行したばかり。冬の名残は夜の闇にまだ健在だった。
自室の前の縁側に、両足を放り出し腰掛ける。元々お淑やかと称するには程遠い彼女の本質は、時に少女のような自由さを見せていた。
「はぁ⋯⋯」
そう独りごちて肩を落とす。見上げた先にある半月をぼんやりと眺めながら、まだまだ肌寒い夜風を心地よく感じていた。
そんな時、ふと、声が聞こえたのだ。
それは二藍の寝所のあたりから聞こえてくる、人の話し声。
こんな夜更けに誰だろう? とそっと腰を上げる。麹塵は足音立てないよう、声のする方へ歩み寄っていった。
近くの物陰に隠れ、様子を伺うように少しだけ顔を出す。するとそこに一人の女性と見たこともないほど優しい顔つきで話をする二藍の姿があったのだ。初めて目にするその柔和な表情に、麹塵が驚いたのは言うまでもない。彼の元に嫁ぎ一年目にしてようやく見ることのできたその笑顔は、それから幾日も経たぬ間に自分ではない他の女性に注がれていた。
立ち聞きなど趣味の悪いことはしたくない。かと言って堂々と姿を現すことなど出来ず、半分の月が照らす淡い光から隠れるよう闇夜に紛れる。そしてその場からそっと離れ自室に戻っていった。
しかし、まさかその数日後にその相手の女性と再会することになろうなどとは、この時の麹塵はまだ知る由もなかった。
時は止まることなく進む。
全てはまだ、始まったばかり────。
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