弐:歌唄い──麹塵──

 ほろほろとこぼれゆく梅の花。散りゆくその一片が、蒼穹へと舞い上がり消えて逝く。


「何もかも、全てが朽ち果てたなんて⋯⋯」


 そこは数ヵ月前まで、草木が生い茂る青々とした大地だった。それが今となっては、置き去りにされたままの骸が地を覆う悲しき惨状の跡。


「死しても浮かばれぬ魂の、何と哀れなことか⋯⋯」


 女はその長い睫毛を伏せ、両手を合わせたまま天に祈る。


「美しき魂たちよ、どうか安らかに⋯⋯」

 

 彼女の名は、麹塵。


 その姿はさながら、枯野に咲く一輪の花の様だった。


 絹のように艶めく長い黒髪を初春の風に靡かせ、ゆっくりと瞼を開ける。激戦のあとはどこも皆同じだ。踏み固められし血塗られた大地には、その後どんな命も育たない。


 だから彼女は唄うのだ。────弔いの歌を。


 絶望にうちひしがれ荒れ狂う、悲しき御霊を鎮めるために────。


「睡蓮、お願い」


 互いに目配せをしことを爪弾くのは、彼女の護衛であるあの青年。その綺麗な指先から弾かれる哀愁漂う旋律に、彷徨う魂が呼び集められて来た。


 麹塵は今一度目を閉じ大きく息を吸いこむと、手にしていた扇を勢いよく開く。筝の音に合わせ風を掬うようそれをひと扇ぎ、心の奥底から沸き上がる悲哀の感情の精一杯を歌に込めた。


 彼らは共に死者の魂を弔うため、彼は筝を奏で、彼女は唄い舞い踊る。


 風の鳴き声が、未だ旅立てぬ魂の叫びと共鳴していた。


「苦しみの時は終わったのよ·····さぁ、逝きなさい」


 霞がかった景色なれど鮮やかに、仰ぎ見る空は勿忘草の花の色にも似て穏やかな青を湛えている。弔いの気持ちが通じたのか、苦しみに悶え無念を叫んでいた魂たちが漸くの安らぎを得、天に還っていった。


 彼女が唄えば、そこは「癒し」で満たされる。その歌声に魅了されし者は皆、必ず虜になるのだ。


 故に彼女は、亡き者のためにしか唄わない。


 そんな彼女を人はこう呼んだ。


死人しびとの歌唄い』────と。


「麹塵、大丈夫?」


 一点を見つめたまま何の反応も示さない彼女に、睡蓮は思わずそう声をかける。身動きひとつせず瞬きだけを繰り返すその姿はまるで、そこだけ時が止まってしまったかの様で。彼はその肩に触れると、そっとその横顔を覗き込んだ。


 空を見上げたままのその瞳には煌めく朝の光が反射し、何かを思案するような眼差しはその魂を宿したまま、まだ彼女の身の内にしっかりと留まっている。それを確認した彼は、ようやく安堵したように浅く息を吐いた。


「返事くらいしろよ。驚くだろ! 魂まで持っていかれたのかと思ったよ」


 少し肩を震わせ気づいた声に、麹塵はようやく目を合わせる。見遣る姿の大袈裟な態度に、親しみを込めた彼女の眼差しは目尻を下げ友人を見つめ返していた。


「ごめん、最期まで見届けてあげたかったものだから。皆、天に召された。魂はもうここにはいない」


 多分、と悪戯っぽく笑いながら睡蓮を見つめた瞳は、再び広い大空へ。視界いっぱいに広がる景色を一巡しながら、麹塵はをじっと見送っていた。


 長い感覚で繰り返される彼女の瞬きに倣い、睡蓮もその顔を空へと向け視線を移す。しかし、彼には何も見えてはこない。それは当然のことだった。いくら神経を研ぎ澄まそうとも、心を清めようとも、それは彼女にしか見えないものなのだから。


 生き絶えたその肉体から離れ、居場所を求めて彷徨う淡い光。


「魂」や「霊魂」はたまた「鬼火」────。


 呼び名は様々なれどあてもなく浮遊するそれは、麹塵曰く、生前の人格により纏う色が違うのだとか。彼女の瞳にはそれぞれの魂が放つ光に、未練を感じているように見えていた。


 それは「この世」にではなく、自身の「死」自体から離れ難く、そうありながらも最期の別れを告げているかのように。


「今まで色々なものを見てきたけど、ここの有様は特に酷いな⋯⋯」


 箏を仕舞った袋をその背に担ぎ、睡蓮は「やりきれない」と嘆く。


「藍墨茶は長らく遠州茶と膠着状態にあったから、ようやく決着がついた⋯⋯というところか? 負け戦なのは悔しいけど」


「そうね。ここにある亡骸は、そのほとんどが遠州茶の者たち。やはり藍墨には勝てなかった。目に見えていたのに⋯⋯⋯⋯」


 散り落ちる淡い桃色の丸い花びら。伏せた視線の先に模様のよう広がるそれを眺め、彼女は過ぎ去った時に思いを馳せる。


 これまでの時代、女はただ無力で従順でありさえすればいいと思われていた。絶えぬ争いの中で翻弄される運命は取り引きされるひとつの駒でしかなく、それはいつも謀略と殺戮の中心にあったのだ。理想を語ることは許されず、希望を持つことさえ出来なかった乱世においての女の役目と言えば、子を産み育て家を守ること。


 国主同士の国盗り合戦は、小名しょうみょうや守護までをも巻き込み過激化。下剋上がまかり通る世の中で幕開けた戦綴りの日々は、疑心暗鬼がもたらした戦国の世への突入を意味していた。


「これも女に生まれた宿命⋯⋯なのかな?」


 物思いにふけっていた麹塵の唐突の呟き。睡蓮が答えるより早く吹き抜けていく風が、彼女の髪をひと房掬いとる。「宿命?」そう聞き返す彼を横目に、伏せた綺麗な横顔がゆっくりと頷いた。


「所詮、私もこの時代の変化に左右される、ひとつの駒でしかない」


 自身を卑下するよう言葉を落とす彼女に、睡蓮は「『普通の人』だったらな」と意味深に微笑む。


「その『力』がなかったらお前はまだ遠州茶にいて、退紅あらぞめ一族は守護大名たちに滅ぼされてた」


「でも、そうはならなかった⋯⋯」


「路考様が求めた和睦を、藍墨側が受け入れてくれたお陰だ。麹塵にしてみれば遠州茶のために利用されたと思うかもしれないけど、それで救われた命も沢山ある」


「ならば、もっと早くにこうすべきだった。もっと早くに藍墨に嫁いでいれば、この負け戦も回避できたはず。私の身ひとつでそれ以上のものが救えるのならば、私は喜んで我が身を差し出すわ」


「おい! それは違う。どこで戦が起きようと、それは誰にも止められない。お前に非があるわけじゃないんだから」


 戦に誉を勝ち取れば称賛を浴び、敗れた者はただ屍となり大地に還る。争いのあとに残るのは、いつも無念だけだと麹塵は感じていた。勝者か敗者で二分されるこの世に、彼女は辟易していたのだ。


 けれど、確かに彼の言う通りだった。


 火種はそこら中に、争いはどこまでも広がっていく。


 自分に出来ることは、ただただ付き従うこと。それが自身のあるべき姿だと心に刻むだけ。「でも──」、そう聞こえた言葉の頭に、溢れ出しそうだった悲しみを胸の奥底に急いでしまい込んだ。


「お前、よく言ってるだろ? 『生きている者が去るべき魂を留めてはいけない』って」


「えぇ」


「俺みたいな普通の人間には、魂の色なんて見えない。だけど、麹塵にはそれが見えるんだ」


「確かに⋯⋯そうだけど。でも、例えその声が聞こえたとして、私にはその魂を天へ還すことしかできない。彼らの無念を晴らすほどの術も力も持ち合わせていないもの」


「それだけで充分だよ。これは麹塵にしかできないことなんだ。それだけで充分」


 だろ? と彼女を諭す姿は兄のようであり、呑気に欠伸をするその様はまるで少年のよう。真面目だったかとと思えば、ふいに見せる茶目っ気にどこかほっこりとする。大きく背伸びをするその影に目を細めながら、麹塵は「彼らしいな」と微笑むのだった。


「『人は見かけによらない』って、よく言うだろ?」


「それ、どういう意味? 『人を見かけで判断するな』って言うのが、父の教えよ?」


『遠州の鬼、退紅路考あらぞめろこうの娘』────そう言えば誰もが押し黙る。それほどに彼女の父は恐れられていた。豪傑、唯我独尊。「頑固」という言葉を絵に描いたような人物であったのだ。


 しかし例え「鬼」と称されようとも、人は人。病に蝕まれた体は、その信念をも変えてしまう。それが長らくの間敵対していた藍墨茶との和睦だった。そしてその証として捧げられたのが路考の末娘で、特別な力を秘めていると噂されていた麹塵であったのだ。


 人々の魂を癒し救うことのできる歌声を持つ彼女。そんな娘の身を殊更気にかけていた路考は、病に伏せる我が身を憂い、藍墨茶の国主、空五倍子青藍うつぶしせいらんに愛娘を託したのだ。


 だから今、彼女はここにいる。


「さぁ、もう戻ろう。そろそろ黒鍬衆くろくわしゅうが遺体を埋葬しにやって来る。麹塵も城を抜け出したことを悟られる前に戻った方がいい」


 戦地の土木工事を請け負う通称『黒鍬衆』は、本来の職務の他に戦地に置き去りにされた武士たちの亡骸を収容し埋葬も行っていた。麹塵たちはいつもその彼らと入れ違いになる形で合戦後を去っていたのだ。


 逃げ出すよう黙って櫨染城はじぞめじょうを抜け出してきた二人は、今更ながら少々焦り始める。きっと今頃、姿の見えない麹塵を城中の使用人たちが探し回っていることだろう。名残惜しそうに踵を返す足音に、筝を担ぎ直した睡蓮が早くと先を急かした。


 互いに背を向けていた景色を正面に、歩き始めたところで気づいた人影。すぐ目の前で二頭の馬とそれに跨がる二つの姿を捉えた瞬間、睡蓮はいつものようにすかさず麹塵を庇い前へ出た。

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