壱:狂気──輿入れ──

 思い出せそうで、思い出せない記憶。


 そこに何の意味があるのだろう?


 遠く朧気なその存在は、彼女が過去へ遡ることをいつも阻んでいた。






❁*.゚






────それは狂気の沙汰だった。





 郷里の空は見渡す限りの青だった。しかし国境を越えた辺りから、その雲行きは段々と怪しくなり始める。快晴のまま送り出してくれた故郷の景色を胸に刻みながら、この先の行く末を案じていた。


「あと、どのくらい?」


 問う彼女に外の声は、「もうすぐだと思うよ」と柔らかい声で応える。表現し難い不安に侵食されつつある心は、ただただ憂鬱を招くばかりで。そこへ届いた優しい声色に、どこか救われた気分だった。


 踏み固められた大地をゆったりと、時折転がる小石を乗り越え突き進む。地に埋まることなく車輪を突き上げるその力に、彼女のいる屋形が少しばかり揺れた。


 ふと、この気を引くのは馬の蹄らしき足音。だいぶ遠くから聞こえていたそれは瞬く間にすぐ側まで近づき、数人の集まりで進む一行の両脇を物凄い勢いで通り過ぎて行く。何事? と彼女が発するより早く、馬車が突然その歩みを止めた。


 反動で身体が大きく揺れる。


「どうしたの?」


「しっ! 静かに」


 音を立てるなと、その気配が離れていく。視界が遮られている分掻き立てられる不安感に、助長される恐怖心。


 案の定、四方から聞こえてくる悲鳴に混じって、唸り声にも似た叫び声が聞こえる。小競り合いか? 大乱闘か? 争いの中慌てふためくような足音に、果てさて自分はどうしたものかと、その場の喧騒を巻き込みながら周辺へと広がって行く騒ぎに困惑していた。


 音だけでは判別し難いが、恐らくそれは惨劇にも似た状況下。次第に大きくなる物音に、血生臭い現実は彼女のすぐ側でその不安を一層煽っていた。


 とはいえ、人は好奇心には勝てない生き物だ。


 物見ものみからそっと外の様子を窺えば、突然目の前に飛び込んで来た血塗れになった人の身体。崩れるよう倒れる姿に悲鳴を上げそうになり、思わず口元を手で覆った。


 言われた通り物音立てぬようそっと御簾みすを下ろし、母に縋るよう唯一の形見である扇をその手に力強く握りしめる。耳に届くのは、あちこちから聞こえる絶命の声。金属のぶつかり合う音に、もはやどれが味方なのか声だけでは判別不能で、身を固くしながらただただ時が過ぎるのを待っていた。


 自身に武術の覚えがあれば皆に加勢もできようが、如何せん彼女には懐剣を嗜む程度の力しかない。到底、血で血を洗う争い事を収めるだけの実力はなく、それは無力も同じことだった。


 ただ屋形の中で皆の身を案じることだけで精一杯。


 増えるの屍の数に、耳を塞ぎたいほどだった。


 現世に取り残される悲しき御霊を思いながら、不甲斐ない自身の存在価値を呪う。最早守られるしか能のないこの身の上が、罪悪感にばかり塗り染められて行くようで心苦しかったのだ。


 外で何が起こっているのか、大方の察しはつく。今の彼女の不安は自身の命も然る事乍ら、彼女を守る使命をおった従者たちの行く末。


 見えないが故の状況下では嫌な想像ばかりが頭を過ぎり、とても前向きにはなれない。もし、皆が命を落としたとあらば、最悪の場合は敵の手に落ちる前に自身の手で⋯⋯そう、護身用に携えていた懐剣に手を伸ばしたその時だった、途端に馬が嘶き狂ったように暴れ始めたのだ。


 激しく揺れる屋形の中でどこか掴めるところはないものかと探す。けれどその手には何にも引っかかることなく、成す術なく籠から投げ出された彼女の身体は、そのままの勢いで地面に叩きつけられていた。


二藍ふたあい! もう充分だ、やめろ!!」


 聞こえてきたのは、ここ数日前に知った誰とも知らぬその名前。弾かれるよう顔を上げれば、落ちた拍子に擦りむいた腕の傷の痛みも忘れていた。


「もう、おやめ下さい!」


「二藍様!!」、そう彼らの従者も必死に懇願している。


 二人の男の声はどちらも同じ名を紡ぎ、同じようにその人物を諌めようとしていた。


 とにかく這いつくばったままでは危険だと慌てて立ち上がる彼女を、すぐ様駆け寄り庇ったのは大きな背中。長髪を高く一つに結わえた端正な顔立ちのその青年は、「大丈夫か?」と僅かに向けた視線で問う。その声は、屋形の外から聞こえてきていた男のものだった。


「私は大丈夫。それより⋯⋯あの人⋯⋯⋯⋯」


 その先をどう表現していいのか分からず途切れる言葉に、「あぁ」と頷く青年。


「どうやら、『あいつ』がそうらしいね。全くよりにもよって、路考ろこう様もとんでもない相手を選んでくれたものだよ」


 先程まで生きていたであろう十数人の屍を目の前に悠然と構えるその男は、鮮血滴る刃を手に蔑むような視線を向けている。その姿は酷く冷淡で冷酷で、それでいて無表情。誰がどう見ても多勢に無勢な状況だったはず。なのに彼はたった一人で、襲いかかる相手を意図も簡単に叩きのめしてしまったらしい。あわあわと慌てる従者と慌てて駆けつけた家臣を尻目に、その男は今だ僅かな同様も躊躇いも見せることはなかった。


 賊の狙いは、明らかに目の前のその人物だったのだ。そのとばっちりを食う形で、彼女たちも狙われていた。


睡蓮すいれん! あっち────」


 気づいたのは、間一髪。知らせるが早いか、彼女の腕を引き一目散にその従者の元へ駆け寄る「睡蓮」と呼ばれた青年。敵から放たれた矢に倒れたその者に、尚も刀を振りかざす相手をその彼がやむなく殺めたのはほんの一瞬の出来事だった。


「大丈夫でございますか?」


 従者に跪き手当をする彼女に、その者は苦痛に歪む顔でうんうんと頷くだけ。胸に刺さった矢は幸い急所を外れており、傷口もそう深くはなさそうだと安堵するも予断を許さない状況に変わりはなかった。


 小競り合いは尚も続いていたから。


「あの⋯⋯もしや、今あの場におられるお二方の内、どちらかが『二藍』様と、仰るのでは?」


 刀を手にしているのは、腰ほどまである長い髪をその背に広げたまま、全身を漆黒で覆い尽くしたあの冷酷な青年と、武官風の出で立ちをした短髪の男、二人のみ。


「さようにございます。黒衣を纏ったあの銀髪のお方こそ、この藍墨茶あいすみちゃ国主、青藍せいらん様の嫡男であらせらます、二藍様にございます。この度、遠州茶えんしゅうちゃ国主の姫君との縁談が決まり、ご成婚のおり、璃寛茶りかんちゃからお帰りに」


 しかし、この有り様に為す術もないと立ち尽くしている。


 争い合う相手は、遠く璃寛茶から彼を追ってきたのだと。


 事の詳細を聞けば、謀反を企てているとされる領主の噂を聞き、問い詰め全てを吐かせた上でその首を刎ねたとか。陰謀自体は阻止することが出来たが、今度は逆にその守護しゅごの家来に命を狙われる羽目になったのだと、その従者は語った。


 残党とは言え、この大所帯だ。相当の恨みを買ったのだろう。


 しかしその男にとって、敵の数など問題ではなかったらしい。


 その『二藍』なる者の戦い方は、まるで獣。


 応戦するもう一人の青年がわざわざ峰打ちにしているのに対し、彼はその生かされたものまで取りこぼすことなくバッサバッサと斬り捨てていく。血飛沫浴びるその姿はまさに、噂に聞き及んでいた「狂気の男」そのものだった。


 無謀だと分かっていても、意に反して動くその衝動的な性格は今も反省すべき欠点だ。されどこの時ばかりはそれをはっきりと理解した上で、それでも自分がやるべきことだと思ったのだ。


 彼は殺しすぎた。


 だから止めたかったのだ────と。


 その手をこれ以上血に染めたくないと、身体が勝手に動いていた。


「止めろ!!」と制止する睡蓮の言葉を無視し、彼女は飛び出す。刀を振りかざすその者の前に立ち塞がると、大きく両手を広げ「もう止めて!!」と相手を睨み据えるよう見つめた。


「そこを退け」


「嫌よ」


「何?」


「もう、これだけ殺せば充分でしょ!? 辺りを見てみなさいよ! ⋯⋯これで罪は充分受けたわ。これ以上は無益な殺生よ」


 この者たちが本当に璃寛茶の守護の家来で、相手がその地をも統べるこの国主の息子であるならば、彼らの罪は決して軽いものではないだろう。


「これ以上、悲しい魂を増やさないで⋯⋯」


「貴様────!」


 言うと彼はその間合いを詰め、手にしていた刀を彼女の首に添わせる。「何様のつもりだ!?」と凄まれ肌に当たる刃が、彼女の白い肌に赤い滴を這わせていた。その恫喝には、さすがの度胸も少しばかり揺らぐ。


 しかし彼女にも「女の意地」があった。どんなに罵られようとも非難されようとも、ここを動くわけにはいかなかったのだ。


 なぜなら────


「私の名は麹塵きくじん。あなたの妻となる者です」


 返り血を浴びその頬を真っ赤に染めた男を目の前に、やはり彼女は凛としていた。


 首に触れる冷たい感触にも勝る度胸が、顔色一つ変えず見据えてくる相手をじっと真っ直ぐに見つめ返す。きっとそれは相手にも意表を突く文句だったのだろう。


 女だてらに中々の気迫を見せるその姿に、残党を全てのした短髪の青年は目を見開き状況を理解しようと務めている。僅かな沈黙の後、口角を僅か上げる彼は「刀を仕舞え」と告げると、自身もそれを一振りし滴る鮮血を飛ばすと鞘に仕舞った。


 多くの命が息絶えたことに、彼女は誰よりも心苦しさを感じていたのだ。


「今は唄えないの⋯⋯ごめんなさい」


 小さく呟き目を伏せる彼女に、ようやく刀を収めることにした男は眉を寄せる。


 彼女にはそれが見えていた。────いや、それは彼女にしか見えないもの。


 辺りを浮遊するその何かは光り輝き、彼女に「唄ってくれ」と執拗にせがむのだった。






 桜は散り時を知っている────。



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