願わくは残る桜の散る前に──歌唄いの御伽草子─

染井与詩乃

序章

「この世は辛きことばかり⋯⋯」


 窓枠に腰掛け階下をぼんやりと眺めていた彼女の耳に、ふとそんな呟きが届いた。反射的に顔を上げ外の景色から視線を逸らすと、煙管片手に艶やかな唇がその口角を僅かに上げる。


「そう言いたげなお顔をなさっておられます」


 紫煙を燻らせながら柔らかく微笑むその姿に、思い当たらないと彼女は首を傾げた。


 ここは傾城町────『六花楼りっかろう』の一室。桃花褐つきそめ太夫の部屋だ。


「目は口ほどに物を言う。眼差しがほんに物悲しそうでございます」


 ゆっくりと落ち着いた口調で語られるその言葉や表情は、まるで歌舞音曲の一節のよう。誰よりも美しく超然としているその人は、色香漂う妖艶な雰囲気を纏い空気をも圧倒する。その凛とした存在感は数多の男衆だけでなく皆の羨望の的だった。


「夕暮れが……今日はどこか切なく感じられて」


「暮れゆく空の色合いは、いつも哀しゅうございます。この世を儚んでいるような…………今の麹塵きくじん様のように。お話くださいまし。この桃花褐でよければ、幾らでもお聞き致します故」


 それほどまでに思い悩んだ顔をしていたのだろうか? 問う彼女に、その人は「はい」とはっきりと頷いた。


 その優しい響きに誘われるよう立ち上がると、今や傾城町一だと持て囃されるその美貌の真向かいにゆっくりと腰を降ろす。外は夕焼けに赤く燃え、夜の帳がすぐそこまで近づいてきていた。


 この鼻腔を微かに刺激する幽玄な香の匂いに心を落ち着かせ、こみ上げる不安を少し吐き出すよう彼女はポツリと言葉を落とす。


「……後悔……しているんです……今」────と。


「後悔?」そう繰り返す桃花染太夫はキセルを置き、居住まいを正す。


「はい、今さらですけれど⋯⋯出会いと、その関わり合いに。あのお方の妻となり、やっと共に語らい寄り添う時間が持てるようになりました。それはとても貴重で、大切なもの⋯⋯。けれどそんな時間が増えれば増えるほど喜びや幸せよりも、不安と切なさの感情が大きくなってしまって⋯⋯。お側にいることの方が、今となっては何よりも心苦しいのです」


 そこには「後悔」しかないと肩をすくめる。自分自身を嘲笑う彼女のその身をまるで慰めるかのように、夕時の風がそっとその頬を掠めていった。


「はて、主様は苦しんでおられましょうか?」


 窺う太夫の表情は、可愛らしい女性そのもの。妖艶な女の顔から幼さの残る愛らしい姿まで魅せるそれが、桃花褐太夫の大きな魅力なのかもしれない。


「『後悔』とは、ほんに苦しいものでございます。過ぎ去ってしまった時間を悔やみ、元には戻らぬ日々を嘆き悲しむ。諦めるほか、もう為す術はないのだと。けんど麹塵様にはまだ、出来ること、成すべきことがありましょう?」


 彼女は自身の悩みを他人に打ち明けることはあまりしない。故に秘めたる思いを打ち明けたのも、珍しいこと。かと言ってその詳細は決して細やかなものではなかった。それなのに太夫はまるで、その全てを悟ったかのよう柔和な笑みを浮かべ、自分から可能性を摘み取ってはならないと語る。


 しかし、本来『この地』に彼女の居場所はない。ある日突然去らねばならない時が来るやもしれないし、ずっとこのまま『この地』に生かされるかもしれない。それは誰にも分からないのだ。その覆しようのない事実に、その心は今更ながら押し潰されそうだった。


────いつかは、戻らなければならない日が来るのだろうか? と。


 現実とは何とも悲しくそして残酷なものなのだとひとり、言い知れぬ無力感に苛まれていた。


 負の感情が絡み付く蛇のように彼女の心を抉るよう巻き込んで、何をも離すまいとその身の内に爪を立てている。時間とは何ものにも変え難いもの────抗うことの出来ない時の流れだからこそ、その日その時が貴重なのだろうが、逃れることのできない運命に、人はひれ伏すしかないのだろうか?


「悲しみや絶望にばかり囚われていては、見えるものも見えなくなるでしょう。悔やむのはもうやめて、これから先、起こるであろう現し世を見つめて下さいませ」


 再び目を向ける外の世界は、ふわりと夜を纏っている。


 この夜もまた、二度と還っては来ない。

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