三
青藍の葬儀が済み一段落したのも束の間、一息つく間もなく事は起こった。
遺言は二藍が家督を継ぐことを望んでいたが、それに異議を唱えたものがいたのだ。
────
彼は今現在、藍墨茶の実質的な支配者となっている守護大名だ。
「そなたの母は庶民の出。兄上が入れ上げていた遊女⋯⋯だという噂も。藍一族は何よりも格式を重んじる家柄。ならばこの白藍が家督を継ぐが妥当であろう?」
「俺如きの卑しき身分では、その資格はないと?」
「いえ⋯⋯そのようには⋯⋯。ただ、母上の出自が明確にされていないどころか、璃寛では飼い犬に手を噛まれる始末。未遂で終わったのは何よりだが、家督継承の布石として送られた璃寛茶行きも、小名一人説き伏せることが出来なんだとは実に嘆かわしい。これでは家臣に不満を抱える者がいてもおかしくはあるまい。されど、この白藍に至っては母君は貴族の家柄。白藍自身も狭き領地ながら、家臣の信頼はそなたよりも厚い。このまま皆の不安を煽るより、素晴らしき後ろ盾のある白藍こそが藍を継ぐことに足る人物⋯⋯とは思わぬか?」
出すぎたこととは思うがな、と付け加えながらも、その表情に怯えや迷い、不安などは微塵も感じられない。
「兄上は元より権力など欲してはおらず、興味さえないはず。私もそのような方に『藍』を任すわけには参りません」
藍鉄に背中を押されるよう言い切る白藍もまた自信満々に、二藍に退くよう遠回しに告げる。そんな二人を、彼は鼻で笑った。
「理由はそれだけか? 白藍。お前には家督よりも権力よりも、欲しいものがあるはずだ。⋯⋯麹塵⋯⋯⋯⋯違うか?」
全てを見透かしているよう問う兄に、白藍は挙動不審。視線はすぐ様二藍から離され、膝の上に広げられていた手は握り拳に変わっていた。
兼ねてから藍鉄は青藍と二藍親子を疎んじており、殊更二藍のこととなると「目障りだ」と嫌っていたのは有名な話だった。藍鉄は二藍をこの藍墨茶から完全に追放しようとしていたのだ。白藍も出来すぎる兄である二藍を幼い頃から嫌っており、藍鉄がその心の隙に漬け込むのは容易だった。
「よかろう。そんなに欲しいのなら、家督はくれてやる。麹塵もな。俺はこのまま璃寛に戻る。後はお前たちの好きにするがいい」
彼の文言に誰より驚いていたのは茅。目を見開いたまま二藍を見つめていた彼は、話は終わりだと立ち上がり踵を返すその背を引き止めていた。
「貴様らの存在こそ目障りだ」と未だ居並ぶ二人に向け捨て台詞を吐くと、腰まである長い黒髪を揺らし部屋を出て行く。
室内に取り残された二人の表情は対照的。
兄の思わぬ答えに拍子抜けしたのか? 戸惑いを隠せないまま白藍に対し、藍鉄の口許は軽く弧を描いている。乾いた室内に張り詰めた空気だけを残し、互いの野望が叶いつつある二人はそこに確かな手応えを感じていた。
「おいっ、二藍!! 待てよ」
ずんずんと板間の廊下を進む彼の肩に手を掛け、茅は「いい加減にしろ!」と強引に引き止めた。
「お前正気か? 本気で家督を譲るつもりなのか? 『藍』を捨てると言っているのも同じことだぞ!! 一体何考えてんだ!!」
話した通りだという言葉を、彼は飲み込んだ。
所詮、自分は厄介者だと無気力になるのは、何も卑屈になっているからではない。厄介者なら厄介者らしく、身を引こうとしているだけ。
「皆はどうなる? お前の家臣は? 麹塵もだ!! 彼女も白藍にくれてやるつもりか? 弟が彼女に惚れてるとわかってて素直に差し出すなんて、お前正気じゃないぞ。彼女は男の駒じゃねぇんだ!!」
「そんなに心配なら、お前がモノにすればいい。女中たちが噂していた。二人はお似合いだってな。俺はただ、無益な争いを避けたいだけだ。⋯⋯まぁ、戦に赴き散々人を殺した俺が言えることではないが⋯⋯」
大体この夫婦という肩書きには、ほとほと嫌気がさしていた。女などその存在自体が迷惑なだけだというのに、特に麹塵に至っては目障りなことこの上なかったのだ。
何者にも染まらず、いつも皆でヘラヘラと笑ながら過ごしている様を目にするだけで、二藍は無性に腹が立ってしまうのだと。そんな女などいないにこしたことはないと、頭の片隅からも残像ごと追い出した。
何より、いざこざはもう懲り懲りだと目を伏せる。
何かを望めば、いつも必ず何かを失う。それはまるで因果応報。人生はそれの繰り返しなのかもしれないが、それがいつまでも続くというのなら、もう何も求めることはよそうと。
「何もかも分かっていながら、自ら身を引くってぇのか? 藍鉄が何と言おうと、今この屋敷に仕えている者は皆、お前のために戦える。『二藍』のためなら、その命も賭けられるという者ばかりだ! 俺たちを見くびるなよ。誰もそんな腑抜けについてきた覚えはない!」
「誰もついてきてくれなどと頼んだ覚えはない」
「あのなぁ⋯⋯」
どこまでも冷めた性格にこぼれるため息は、茅の今の心情をよく表している。やっとこの屋敷の者たちの信頼を得始めていたというのに、それを易々と弟にくれてやるのかと二藍に詰め寄った。
しかし、「────分かってる⋯⋯」と呟き俯く主の意外な姿に次の言葉を躊躇い、その短髪をわしゃわしゃと掻き上げ背を向けた。
青藍の病状が悪化し始めても、増えるのは戦の数。父の影武者として我こそはと台頭してくる領主相手に、二藍は躊躇うことなく戦地に赴いた。身体の自由が効かなくなった父に代わってここ数ヶ月、戦に明け暮れていたのだ。
戦場での彼は聞きしに勝る戦いぶりで、次々と戦を征して行く。いつも堂々と威厳を持ったその姿はまるで、人の上に立つことが天命であるかのよう眩いものだった。それは今まで彼を蔑んでいた者たちの心を変えるには充分で、家臣たちの青藍へ対する忠誠心は、少しずつ二藍へ受け継がれていったのだ。
しかし彼はそれをも、いとも簡単に手放すという。
穏やかな風が攫う横髪が、彼のその表情を僅かに隠していた。
ふと、隣の座敷から「何も分かっておられません」という少ししゃがれた声に、二人は揃って振り返る。老いてもその佇まいはしっかりとしている白檀に、二藍は冷たい視線を送っていた。
「老いぼれが⋯⋯立ち聞きか? いい趣味してるな」
「二藍様は何も分かっておられない。もし白藍様が家督を継げば、『藍』はいずれ滅びるでしょう。あの方は二藍様ほどお強くはございません。今も藍鉄に唆され突き動かされているだけ。いずれは
褐返氏は、かつて藍一族と対等するほど強固な権力を誇っていた豪族だった。しかし先の戦に負け藍墨の一守護へとその地位は落ち、それ以前の勢いを完全に失っていた。そこへ誇り高き一族の矜持を傷つけまいと、さり気なく与えられた青藍の恩情。武士道貫くものならば敵の情けは受けまいとするところだが、決して哀れみを感じてのことではないと、褐返氏に尊敬の念を表す『藍』の頭領に、一守護でありながらこれまでと変わらぬ領地の権利に今まで栄えていたのだ。
それが青藍が病に倒れたのを期に変わり始める。どこからか知り得た情報は『青藍衰弱』の噂。横槍を入れたのは、藍鉄だった。
敗者に情けは無用と戦をけしかけ領地を強奪。途端に地に落ちたその地位に、褐返氏はいつの間にか藍鉄の傀儡へと成り下がっていた。
そんな経緯があったからか、白檀はとにかく二藍を思い留まらせようと説得する。けれどその言葉を静かに聞いていた彼の瞳は、その後一度も側にいる老臣を見つめることはなかった。
「『藍』は白藍が継ぐ⋯⋯それだけだ。爺が口を挟むな」
「二藍!」
「茅、お前も目障りだ。白藍につくもよし、ここを離れるもよし。お前の好きなように生きろ」
「いい加減にしろよ! 自分が何を言ってんのか分かってるのか?」
「俺は肩書きなど欲しくはない。人を殺すことには何の罪悪感もないが、戦はもう飽きた。家督など誰が継ごうが同じだ。白檀が『藍』が滅びるというのなら滅びればいい。俺は一向に構わん」
「二藍様!!」
珍しく、白檀の怒号が飛ぶ。
しかし二藍は彼に背を向けたまま告げた。
「俺に何もかも背負わそうとするな。俺はお前が考えているほどの器の持ち主ではない⋯⋯」
その後ろ姿は意外なほど哀しく、既に何か大きなものを背負っているかのように見えた。
「考えを改めて下さる気はありませんのじゃな?」
沈黙は何よりもの恐怖だ。余白の多いやり取りを繰り返す二人の姿に、さすがの茅も何も言えないまま。
「悪いな⋯⋯白檀」
そう呟き、足音小さく廊下を奥へと消えていく。
二藍は自身の考えをそう簡単には改めようとしない。皆が皆それを知っているからこそ、頑固な主君に茅は頭を抱えていた。
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