────ところ変わり。



「二藍様は余程、私のことがお嫌いのようね。まぁ、いいけど。これからどうなっちゃうのかな?」


 立ち聞きしていたのは、何も白檀だけではなかったらしい。


 麹塵の胸には不安しかなく、暗澹たる今の状況が怖くて仕方なかった。


「ねぇ、睡蓮?」


「何?」


「もし今、私を連れて逃げてっていったら⋯⋯そうしてくれる?」


「お前のために、命賭けろってこと?」


「そこまでは言わないけど⋯⋯」


 真剣な表情は彼には似合わない。


 しかし考える素振りもなく麹塵の肩を引き寄せるその腕は、「お前のためなら死ねるよ、俺は」と強く彼女を抱きしめていた。


 そして直ぐ「────なんてね」とおどけて見せる彼に、麹塵はその胸を思いっきり叩く。


 目に見えぬ嵐が、彼女のすぐ側まで近づいてきていた────。


 そして、それを予感させるような出来事が起こる。


 それは、止めようと思えば止められた悲劇だった。








 詳しいことは何も聞かされていない。


 何が起こったのかも知らないのだ。


 けれど麹塵には、その彷徨う魂が見えていた。


「────もしや、白⋯⋯檀⋯⋯⋯⋯様?」


 彼女の脳裏には、昼間見た柔らかく優しい笑顔が浮かぶ。どうして? そう問いかけるその心には、大きな疑問と悲しみが共存していた。


 誰にも見えぬ命の光は、彼女にのみ寄り添うことの出来る、人の心そのもの。


 それはただ悲しい、悲しい魂の色をしていた。


 まるで白檀の無念を表すかのように────。


「二藍様が気がかりなのですね?」


 問うと、そうだと言わんばかりに彼女の周りをぐるぐると舞う。


「大丈夫です。この麹塵にお任せください。私のできる限りで、あの方をお支えいたしましょう」


 そうは言ったものの相手にされないどころか近づくことさえ出来ない人に、何をどうすれば力になれるのか、皆目見当がつかない。それを考え始めたら、思考は出口のない迷路をさ迷い続けるだけだ。どうにもならないことに貴重な時間を使うより、今は迷えるこの御霊を救うことだけ考えようと、麹塵は着物を羽織り立ち上がる。庭に出ようと扉に手をかけたその時、廊下で筝の音が聞こえた。


「睡蓮⋯⋯?」


 言いながら開けたその向こう、そこに座る人影の側に彼女は立つ。


「今、茅から聞いた。それでお前に伝えようと思って来てみたんだけど⋯⋯」


 もう知ってるんだろ? と顔を上げる。麹塵はただ頷き、夜空を見上げた。


「綺麗な三日月。こんなに少しの光りなのに、周りの星が霞んで見える」


 淡い光を放ち暗い空に君臨するその姿はどこか物悲しく、二藍を重ねて見てしまう。


「私の歌で、今悲しんでいるであろう命ある人も救えるかしら?」


「お前の歌は常に沢山の魂を癒してきた。それは生けるもの全てにも言えることだよ。奥方様のことがあったから、自分の歌は命ある者を傷つけるだけだと思ってるかもしれないけど、それは間違いだ。その歌声は生き死に関わらず、皆に平等な救いなんだ。俺はそう思ってる」


 睡蓮はそれだけ言うと、静かに筝を爪弾き始めた。


 暗闇をそっと照らす月光を掬い取るように、麹塵は悲しむ全てのもののために唄った。

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