五
「二藍様!! 大変でございます!」
その夜、彼の寝所を訪れたのは一人の家臣。「何事だ?」と問う彼に「白檀殿⋯⋯が、あの⋯⋯⋯⋯その⋯⋯」と言葉を濁す。
はっきりともの言わぬ相手に身体を起こし、障子越しに今一度問うた。
「中黄の爺がどうした?」────と。
「ですから、その⋯⋯今しがた⋯⋯⋯⋯お亡くなりに。⋯⋯自害でございました。それと、ご遺体の側にこれが⋯⋯」
失礼いたしますと扉を僅かに開け、赤き鮮血の跡残る文を差し出す。
『二藍様、どうか“藍”お守りください』────力強い墨の後が綴るそれは、白檀の命を賭けた願い。誰よりも『藍』の行く末を案じる老臣の最期の賭けだったのだ。
二藍はその文を強く握りしめ、「直ぐ参る」とだけ告げると家臣だけを先に行かせた。
残された空間に、何とも言えない空虚感が溢れてくる。
幼い頃より屋敷で孤独に生きていた彼にとって、白檀は心の支えだった。二藍をいつも側で見守り、父からは決して与えられなかった心の隙間を埋めてくれたのもその老臣だったのだ。
誰よりも『藍』を愛しその行く末を案じていた彼は、二藍を信じていた。
彼にとって白檀がそうであったように、白檀にとっても二藍は『希望』だったに違いないと。
込み上げてくる感情を、この時ばかりは二藍も抑えられなかった。悲しみと後悔が支配する心は何よりも重く、白檀の存在が自分自身にとっていかに重要だったかを思い知らされていた。
彼は独り、声を殺して泣いていた。
そんな時────ふと、どこからともなく美しい歌声が聞こえてきたのだ。
その声の主が今更誰かなど、考えなくても分かる。
悲しみをそっと優しく包み込むよう届く歌声に、しばらくの間耳を傾けていた。そうすれば少し、ほんの少しだけ、心が癒されたような感覚があったのだ。
独特の節回しで表現されるそれは、切なくも柔らかい筝の音に導かれ、悲しき夜を揺蕩っていた。
❁⃘*.゚
父である青藍の死にも涙ひとつ流さなかった彼だったが、白檀の死には酷く憔悴しその姿はまるで脱け殻。いつも冷静で喜怒哀楽を全く見せない彼の始めて見るその姿に麹塵は些か戸惑っていた。
「茅、これからどうなっちゃうの?」
「どう⋯⋯って、俺に聞かれてもな」
「あなた二藍の側近でしょ?」
「最近はもっぱらお前の側にいるからな。どっちかってぇと奥方の使用人だ。睡蓮と立場はそう変わらんだろ」
「こんな時にふざけてる場合?」
「別にふざけてなんかいねぇよ。実際問題、俺にもどうしていいのかさっぱりだ。あいつとはガキの頃から一緒だが、あんなに憔悴しきってる姿見たのは初めてだからな。正直、俺自身戸惑ってる。まぁ、亡くなったのが中黄の爺さんだから、無理もないがな」
麹塵よりも遥かに多くの時間を共有したであろう茅が困っているくらいだ、彼を知りまだ一年ほどの自分に何ができよう?
しかし彼女は約束した。誰よりも二藍を思い愛する、白檀の魂と。命を介し繋がるその約束は、決して破りはしない。けれど今は彼を支えるより、待つべきだとも思えたのだ。
淀みなく広がる蒼穹に、祈るよう胸に手を当てる。
「私に、できることって⋯⋯」
まだ自分の役目が分からない。成すべきことが何なのかも⋯⋯。迷い憂うその言葉は微かな吐息を残し、風に揺れ花散らす風景に添えられていた。
そうして幾日か経過したが、二藍は今だ立ち直る気配どころか、姿さえ見せなくなっていた。そんな主の代わりに激務をこなす副官。そのおかげで茅との接点まで極端に少なくなってしまうのは、もはや致し方のないことだった。
深い心の傷を負ったならば尚のこと必要なのは時間だと、麹塵は敢えて二藍に近づくことはしなかった。けれどこれほどまでに日時が空けば、もう知らぬ顔は出来ない。自分の立場が今現在でも妻であるとするならば、今こそ成すべきことがあるはずだとその袖を翻し、滅多に寄り付くことのない奥の間に向かった。
ここ数日、彼がどんな風に過ごしていたのかは知らない。ただ酷く心を病んでいる────ということは人伝に聞いていた。
廊下を進み行けば、だんだんと大きくなるのは悲鳴にも似た声。何事かと床板を踏みしめる歩幅はいつの間にか広がり、気づけば駆け出していた。
「おやめ下さい!」、「なりませぬ!」と叫ぶ女中たちの声に、辿り着いた先で目にしたものは、裸足で庭に降り立ち跪くその人の背中。ふと廊下を見遣れば、そこには血がべっとりとついた刀が捨て置かれ、そこから何者のかも分からぬ鮮血が尾を引いていた。
驚くだけ驚き駆け寄れば、開け放された扉の向こう側で、右肩から胸の中心までを斬りつけられた女中の痛々しい姿を見つける。
「何事です!? 一体何があったの?」
予想だにしていなかった状況に戸惑いなど隠せるわけなく、とりあえず怪我を負った女中の元へ。「奥方様⋯⋯」そう呟く彼女の意識は朦朧としており、ここでは手に負えないと医者を呼ぶよう周りの者へと声を上げた。
「お眠りになっていた二藍様が酷く魘されておられたようで、この者がお声かけを。さすれば目を開けた瞬間に、握りしめていた刀を振りかざし⋯⋯⋯⋯」
「彼女を⋯⋯斬った⋯⋯⋯⋯」
零す麹塵は庭に目を遣る。
きっと悪夢を見たのだろう。それも酷い夢を⋯⋯。
けれど、理由がどうであれ戦場でもないこの場所で人を斬ることなど到底許されるものではない。
わらわらと集まってくる家臣たちに女中を任せ、麹塵は庭に降り立った。彼に非難の言葉を浴びせるつもりで⋯⋯。
「二藍様、一体⋯⋯────」
しかし、そう言いかけて彼女は目を見開いた。
彼の顔は血飛沫を浴びたまま彼女を鋭く睨みつけ、荒い呼吸を繰り返している。その様はまるで、初めてあったあの時の二藍の姿と重なったのだ。
『狂気』────。
麹塵の脳裏にはその言葉が鮮やかに浮かぶ。突き刺さる視線に粟立つ肌、少し仰け反り下がる視線はいつの間にか彼の手元にあった。
「その手、如何されたのです!?」
思わず伸びる自身の手が、今しがたの恐怖も忘れ彼の手を取る。二藍の美しい顔を染める赤と同じ色の深紅が、彼の手の甲と庭に敷き詰められている小石の上にあったのだ。
何をどうしていたかなど、容易に想像がつく。それこそ手当をとその腕を引こうとした瞬間、彼に払われた麹塵の手は空に、彼女の差し出した手を拒絶した二藍の手は、彼女のその細い首を思いっきり掴んでいた。
「なっ⋯⋯二⋯⋯あ⋯⋯⋯⋯」
苦しいともがけばもがくほど、その手は力を強めていく。喉の奥で塞き止められた空気に、吐き出すことは愚か吸うこともできず、痛みと息苦しさで次第に意識が遠のいて行くのが分かった。
何故かなど、彼には愚問だろう。しかしここまでされる言われは、こちらにもない。まさか本当にこの場で息の根を止められるのだろうか? と、二度目の殺意に脱力していく体を止めることはできなかった。
目の前から色が無くなり、落ちていく意識。
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