三
長く暗い果てしない道を、ただひたすら走り続けていた。
────そして開けた視界。
目の前に広がる光景は、全く見覚えのない────けれど、とてつもなく懐かしく感じる風景だった。
いつだったか、一度見たその世界。金属の跳ねる音、見慣れぬ格好をした人々の群れ。立ち止まるものもいるが、そのほとんどが彼女の前を素通りしていく。遠くに視線をやれば、空は暗いのに地上はやけに明るく眩いほど。
誰かの声がした。
「⋯⋯い⋯⋯⋯⋯あおい⋯⋯」
(あおい? 女の人の声⋯⋯?)
「⋯⋯お母⋯⋯さん⋯⋯」
呟いたのは現か幻か。
目覚めた時、それが夢だったと知る。それでも麹塵には、ただの夢だとはとても思えなかった。
「ここは?」
「念のため、お医者様に診て頂きましたが、大事には至らぬそうでございます」
見慣れぬ部屋の所在を確認したく上げた声だったが、聞こえた声は抑揚のない男のもの。その文句は麹塵の後頭部に今も残る痛みを気遣うものだった。
「彼女の意識が戻ったことを、陛下に伝えてくる」
後は頼んだとの言葉に「はい」と短く答えるのは女性の声。
「陛下?」
声に出しながら急いで身体を起こせば、目に入ったのは紺色の武官風の装い。それは何時ぞやから見知った顔だった。
「あなたは確か⋯⋯桔梗。⋯⋯────茅は!?」
「案ずるには及びません。あの者の亡骸は丁重に扱うよう申してございます。もうそろそろ『藍』の屋敷へと出立するところ。責任を持って送り届けまする故、あなた様はご自身のお身体を大切に、ゆるりと休まれよ」
そこにはやはり、残酷な現実が待ち受けていた。
そればかりは夢ではなかった。いくらそう思いたくとも鮮明すぎる現実に指先が震え、それは次第に全身へと広がっていく。
いつもならこういう時、必ず側にいてくれたのが茅だった。あの頼もしい背中に二度と縋れないのだと思うだけで、言い知れぬ孤独感が襲ってくるのだ。込み上げてくる感情はもはや、悲しみなのか寂しさからなのか、はたまた不安なのかわけが分からなくなっていた。
「今はもう少し、お休みになられた方がようございます」
気持ちを整理するためにも、まずは身体を労るべきだと見知らぬ美しい女性に優しく諌められる。
「ここは『六花楼』。私は桃花褐と申します」
そう微笑む姿は何とも美しいものだった。
「『六花楼』?」
「傾城町です」
「傾城⋯⋯」
通りで艶めかしい女性だと、同性ながら麹塵は見惚れてしまう。
「奥方様をこの桔梗様から託されました。帝のご命令だと。本来であるならば、命ぜられたご本人が奥方様のお側に寄り添っているべきなのでしょうけれど⋯⋯。何分このお方と女性を二人っきりにするのは危険ですので」
「おい⋯⋯どういう意味だ?」
「こんなに美しい女性、あなた苦手でしょ?」
「べ⋯⋯別に⋯⋯苦手じゃない。女に興味など⋯⋯ないだけだ」
「まぁ!『藍』の当主の奥方様に向けて、何て物言いなの!?」
「お前が余計なこと言うからだろ!」
二人のやり取りが可笑しくて、どこか和やかで⋯⋯。気づけば思わず声を出して笑っていた。
「よかった⋯⋯。麹塵様の笑顔が見られて」
「申し訳ございません。お二人がとても仲良さそうで、つい。お知り合いなのですか?」
「幼き頃からの友人です」
素敵ですね、と麹塵は少し悲しそうに笑う。彼女の側に並ぶ二人の姿に、自身と在りし日の茅の面影を重ねて見ていた。
「さぁ、涙をお拭きになって。後のことは、帝が良きに計らって下さりましょう」
言われ、またも零れ落ちる涙に言葉も詰まる。
消せない残像に上書きできる笑顔も今は全て過去のもので。記憶だけはどうやってもこびり付いた血の跡のように、そう簡単には洗い流せない。血塗れの着物に、血塗れの手。そのどれもが、茅のものだったのだ。
とても眠ることなどできない。
目を閉じることが、麹塵は何よりも怖かった。
目を閉じると、彼の最期の姿が浮かんで⋯⋯。
「二藍様⋯⋯」
無意識にその名を呼んでいた。
「二藍様はご友人の仇を取りに、睡蓮殿と共に⋯⋯⋯⋯行かれました」
桔梗は何処へとは言わなかった。
二藍は幾つもの戦果を潜り抜けてきた猛者だ。睡蓮もなかなかの手練。二人ともそう易々と殺られるような男ではないと、彼なりに麹塵を気遣う。今は自身の付き人を────夫を信じその帰りを待つしかないと、「そうですね」と静かに頷いた。
「では桃花褐、あとは頼むぞ」と言い残し去る背中を、麹塵が呼び止める。
「桔梗様、どうか睡蓮を⋯⋯二藍様をよろしくお願い致します」
「お任せ下さい」
そう告げ静かに閉められた障子。
麹塵にとってはっきりと残されたその一言は、とても心強かった。
「外の⋯⋯風に触れたいのですけれど⋯⋯」
「夜はまだまだ寒うございます」
「お風邪を召されますよ」と体調を気遣ってくれる桃花褐に、それでも構わないと上着を羽織る。敷かれた寝具からよろよろと立ち上がり、畳の上をゆっくりと窓の方へと進む。足裏から伝わる冷たい
窓の障子を開け空を仰ぐ。寒さに澄み渡る夜空には溢れんばかりの星屑が輝き、一際美しい満月が闇夜を統べるべくそこ君臨していた。
満ちた月は命を生むと教えられた。なのにこの満月は、命を生むどころか奪い去ってしまったのだ。それも、彼女にとってはとても大切な友人の命を⋯⋯。
月に恨み言を吐いたところで、救われるものは何もない。彼女の中にある先の見えない闇には、星も月も輝いてはいなかった。
越えられない試練はないと言っていた父の言葉を、今更ながら麹塵は思い出していた。目の前に立ちはだかる壁は、乗り越えられるからこそ差し出された苦行の道なのだと。
しかし、苦しみや痛みと言った負の感情に、なんの意味があるのだろう? 確かに乗り越えれば強くなれるし、耐え忍ぶ精神力も身につく。けれど苦しみばかりでは、人はいつしか壊れてしまうのだ。思い悩み時には苦痛を感じながらも、立ち向かい生きて行かなければならない。それが人の業だとすれば、『死』もまた誰にも平等に科せられる宿命という名の重荷。それは白檀を亡くした際の、二藍の荒れ狂うあの姿と重なっていた。
────と同時に、頭をもたげ始めるあの夢⋯⋯。自分は確かに「お母さん」と口にしていた。麹塵は自身の母を「お母さん」と呼んだことはない。それに────⋯⋯
「⋯⋯あおい⋯⋯って⋯⋯」
呼ばれていた気がする、と。
それは確かに人の名だ。
まだ何も冷静に物事を捉えられない状況であるから、今考えずともよいことに要らぬ不安は抱えるべきではない。麹塵はなるべく何も考えないよう、自身の心音にその思考を委ねていた。
そうしてどれほどの時が過ぎただろうか?
「体調はもうよいのか?」
ふと耳に届いた労りの声が、彼女を現実に引き戻す。起きていて大丈夫なのかと窺う声に、眺めていた月から視線を流した。右側から感じる気配にそれが帝だと分かるや否や、慌てて姿勢を正し深々と頭を下げる。
「礼など必要ない。顔を上げよ」
言われ折り曲げた腰をゆっくりと起こす。
「今しがた、茅の遺体が御所を去り『藍』の屋敷へと帰って行った」
「二藍様には?」
「桔梗が伝えたと。其方をしばらく頼むと言われたそうだ」
「はい。桔梗様から伺いました」
彼の狂気を知る麹塵は、茅が殺され二藍が黙っているはずがないと危惧していた。故に仇を取りに行ったと聞けば、更に不安は募る。桔梗の言葉はそれはそれは心強かったが、やはり時が経てば経つほど怖くもあった。
「あの二人まで失ってしまったら、私はもう────」
「麹塵⋯⋯」
大丈夫だと帝、白藤がそう言いかけたその時、「陛下!!」と廊下から伝言を託されたという少年の声が聞こえた。取り急ぎ伝えたいことがあると前置きした上で障子を開けるあどけない顔立ちが、宮中に来客だとその場で告げる。誰だと相手を問う帝に、声変わりもしていないその声は「褐返氏の当主、棕櫚様と『藍』当主、二藍様の弟君、白藍様でございます」と答えた。
「枯野藍鉄殿のお屋敷で、二藍様とその共の者が拘束されているとのこと。急ぎ陛下にお伝え申し上げたいことがあると」
「なんですって!?」
「全く、桔梗は何をしておる⋯⋯」
身を乗り出す麹塵を白藤は「落ち着け」と宥めながらも、自身の臣下の行動の遅さには苛立ちを隠せないまま。彼女の手前ここで込み入った話をするのは避けたいと、白藤は「詳しい話は宮中で聞く」とその者に伝えた。
「共の者って⋯⋯睡蓮? 二藍様はご無事なのでしょうか? 陛下!?」
「落ち着かれよ。詳細はおって知らせる故、其方は自身の身体を大切に」
静かな夜、揺蕩う雲の影に隠れていた満月が顔を出す。月明かりに照らされた帝の顔は、どことなく二藍を彷彿させるものがあった。
美しく気高い、君主の品格。
「其方の大切なものは、余が必ずや守る。もう二度と其方から奪わせない⋯⋯約束する」
「もう二度と」と強い眼差しが、何か言いたげに麹塵を見つめていた。
行灯揺れる室内を、今来た少年を連れ歩き去る。白藤の背中を見送りながら、込み上げる不安を懸命に押し殺していた。
消えない傷はあれど、解放されない苦しみはないと⋯⋯そう自身に言い聞かせながら。
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