陸:運命──交差──
一
闇がいよいよ深くなる。
夕暮れ過ぎても戻ることのない二つの気配に、二藍は一抹の不安を感じていた。
先日の藍鉄の言葉もある。良くないことが起こっているのではないかと、白い紙に黒く跡を残す筆の動きが止まった。
「二藍様!」
そう聞こえたのはその直後。彼に窺いを立てることなく開け放たれた扉に、二藍はハッと顔を上げ前方を睨み据える。その威圧感に無断で部屋に入ったことを責められているのかと勘違いしている家臣だったが、彼が気にしていたのは自身の嫌な予感が当たったのだという確信に対してだった。
非礼を詫びるその者に、用件は何だと急かす。息も切れ切れに紡ぐ言葉が振動に織る文句は、二人が未だ帰らぬその理由と思わぬ来客の知らせだった。
「先ほど⋯⋯市中で騒ぎがあった模様ですが⋯⋯、その⋯⋯褐返棕櫚様が二藍様に急ぎご報告したいことがおありだそうで⋯⋯」
「褐返氏⋯⋯?」
藍鉄の傀儡が何の用だと眉を顰める。家臣に促されおずおずと現れた初老その男は、何とも気まずそうに膝をつき深々と頭を垂れた。
纏う着物は質素で草臥れたもの。もはや豪族であったことなど微塵も感じさせないその貧相な成れの果てに、二藍は冷たい視線を注ぐ。
「随分と久しいな、棕櫚殿」
「お久しゅうございます、二藍様。────⋯⋯これまで青藍様にはこの上ない恩情を頂いたにも関わらず、その恩に報いるどころか、今となっては⋯⋯⋯⋯」
「そのような話、どうでもいい。父はもうこの世にないのだから、俺に跪く必要もあるまい。それより、何があった」
「申し訳ございません!!」
途端に声を上げ廊下の床板に額を押し付ける棕櫚の姿に、側にいた家臣は身動ぎ驚くが二藍は顔色を変えぬまま「どういうことだ?」と静かに問うた。
「
「茅が⋯⋯?」
「その小競り合いの折、藍鉄様の手のものにかかり⋯⋯命を落とされました」
「何だと!? それで麹塵は? 我が妻は無事なのか!?」
二藍の強めの問いかけに狼狽えてしまい、あろうことか話すべき内容を瞬間忘れてしまったような棕櫚を手助けするよう二藍の家臣が補足する。
「
「申し訳ございません」と繰り返す家臣に「もうよい」と頭を上げるよう告げる。
「麹塵を生かしたまま連れ去ったということは、彼女はまだ無事なのであろう。殺すのが目的なら、茅と共に葬っていたはず。
「はい!」
答えすぐ様来た道を戻って行く足音を見送り、二藍は棕櫚を見遣る。
「其方はしばらくこの屋敷で身を隠しているといい」
棕櫚を完全に信じたわけではない。無論、彼の置かれている立場も微妙なもの。けれどこれまでの経緯を知らない訳でもない二藍はその心情も汲んだ上で、とりあえず彼を匿うことを選んだ。
しかし棕櫚はそれを頑なに断った。
自ら藍鉄の間者になると────。
「藍鉄を裏切ると?」
「私はもう耐えられないのでございます。これ以上、褐返の名を地に落としとうありません。このまま生き恥を晒すくらいならば、今は亡き青藍様のため、然しては二藍様、亡き茅殿のため、尽力しとうございます。どうかこの命『藍』のために」
「そうも簡単に寝返る者を、易々と信ずるわけにはいかぬ」
「信じてくれとは申しません。ただ私を利用して下されば良いのです」
「それでは今までと同じではないか。使えるものが藍鉄から俺に変わっただけのこと。自分からただの駒になると言っているのも同じ。俺は自分の意志を持たぬ駒は要らぬ。信念を持たぬ傀儡は必要ない。邪魔なだけだ」
「確かに、私は捨て駒です。ですが、捨て駒には捨て駒の役割がある。無力だからこそ、非力であるからこそ、相手に隙を与えることが出来ましょう。────何せ私は藍鉄の傀儡ですから」
その男の眼差しからは覚悟が窺えた。
筆を起き何事もなかったかのように席を立つ二藍は、跪いたまま見上げるの棕櫚の姿をただ見下ろすだけ。そして、「其方のしたいようにすればいい」とだけ告げた。
今一度、深く頭を下げ棕櫚は言う。「藍鉄の動向を窺って参ります」────と。
その言葉に無言のまま自身に背を向ける二藍を一瞥し、棕櫚は駆け足で元来た廊下を帰って行った。
小走りの足音が細く消えゆくと同時に、二藍は深く息を吸い込む。肺いっぱいになった空気をゆっくりと吐き出しながら冷静でいるよう努めるが、鋭い殺気を怒りで押し殺すことしか出来ない。
爪がくい込むほど強く握りしめる拳が、彼の抱えている憎悪の強さを物語っていた。
❁*。
「確かにここに!」
言う者が指し示すのは、地面を雨のように濡らす血溜まりだけ。何かがそこにいた形跡はあったが、あったはずだと必死に繰り返す家臣が物申す遺体は見つからなかった。
もしや、本当は生きていたのでは? と期待を述べる相手に、流れ出した赤い体液の量は存命を物語ってはいない。そのすぐ側で首と胴体が切り離された遺体を目にすれば、生きているかもしれないなどと儚すぎて言葉になどできなかった。
うつ伏せになり絶命している身体に歩み寄り、その先に転がる頭部へと目を向ける。明らかに一太刀で斬り落とされたであろうその頭部に、相手は相当の手練だと二藍は眉を寄せた。
その場の状況に見入り、遺体に気を取られていた彼に「案ずるには及びません」と呼びかける声。不覚だと前方へ目を向ければ、肉眼でもその目鼻立ちがはっきり捉えられる距離に男が一人、刀を携え佇んでいた。
「麹塵様はご無事です。誠に勝手ながら、私の知人の元に匿わせて頂いております」
絶対的に安全だ────と、彼は言い切った。
「貴様、何者だ?」
「我が名は、桔梗。────白藤帝に使える者にございます」
「白藤⋯⋯」
目の前の男、桔梗が口にした帝の名を反復し、それで合点がいったと相手を見つめる。
「この者は⋯⋯お前の仕業だな?」
「如何にも。その者が麹塵様を連れ去ろうとしました故、止む無く⋯⋯」
「ならば、麹塵は無事なのだな?」
知りたいのは、彼女の安否。訊けば、「身体的には」と答える桔梗に、何が言いたい? と二藍は詰め寄る。
「お身体は少しの衰弱が見られますが、お医者様からは心配無用だと。しかし側近の茅様が奥方様の目の前で命を賭されたのです。酷くお心を痛められているのは当然のことかと⋯⋯。今はこの先の妓楼『六花楼』にて桃花褐と申す遊女が奥方様を手厚く看病しております。全て、帝のご指示です」
自分は勅命のまま動いているだけだと語った。
「茅の亡骸を運んだのも、お前達か?」
「この場に置き去りのままでは忍びなく⋯⋯」
「勝手をお許し下さい」と言う彼は、茅の亡骸をかき抱き泣き崩れる麹塵の姿に心打たれ宮廷に運び込んだと話す。そして丁重に扱い、二藍の屋敷へ届けると約束した。
「その妓楼は安全なのだな?」
「忍びに加え、帝の名により近衛府も総出でお守りしております。安全です」
「⋯⋯分かった。なら桔梗、もう暫く彼女を頼む」
「あなた様は?」
「俺は⋯⋯茅の弔い合戦だ」
辛い時、側にいるのが夫の役目であろうが、自分には成さねばならないことがあると桔梗を強く見つめる。
「御意」
躊躇うことなく答えるその姿は、二藍が目を伏せた一瞬の隙をついて消えていた。
「お前達は屋敷に戻れ。俺はこれから行くところがある。それと誰か、あの筝弾きを呼んでこい。
もう誰も死なせはしないと、左手に握りしめる刀の柄に力を込める。ゆっくりと踏み出した歩幅は次第に足早に、その場をあとにしていた。
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